「レポートは入口のトレイに。クリップで留めるか、クリアファイルに入れてください。1ページ目に学籍番号と名前を忘れずに。では、今日はここまで」
 マイクをスタンドに戻してブラインドを上げると、日差しがずいぶん眩しかった。もう6月か、とため息を吐きかけて、いや、まだ6月か、と思い直す。
 月並みな表現だけれど、新学期からそれこそ目が回りそうな忙しさだった。博論が通って少しは時間に余裕ができるかと思ったのに、とんでもない。担当コマ数が増えたせいで、逆に睡眠時間が激減してしまった。一昨日は結局家に帰ることができなかったし、昨日は昨日で家でずっと資料とにらめっこだった。そして、今日も今日とてレポートチェックに追われることになるだろう。
 がやがやと話し声で賑やかな階段教室内で、1か所しかない出入口前には行列ができている。トレイにレポートを入れて廊下へ出ていく学生の列は、なかなか動かない。
 期限をきっちり守る真面目な学生ばかりでありがたい反面、来週までに80人分を評価するのはなかなか骨だ。
 黒板を消してチョークを箱に戻してから、資料をまとめる。鞄に詰められるだけ押し込み、入り切らない分は腕に抱えることにする。ざっと教卓を拭いて、周辺機器の電源をオフにする。ようやく学生が捌けてきた出入口にゆっくり向かいながら、昼はどうしようかな、と考え始めていた。幸い3講目が空いているから、気分転換に外に出てもいい。4講目はゼミで、本日発表する学生のレジュメにはすでに目を通し終わっている。
 レポートのトレイは予想外にずっしり重い。研究室まで持参させればよかったか、と後悔しつつ手に持った資料を無造作に積み重ねてからまとめて両腕に抱えた。研究室が同じフロアなのは、本当に幸いだった。
 昼休みの喧騒に包まれる廊下を両手いっぱいの荷物を抱えて歩く僕に、学生たちは「またか」という視線を送ってくる。荷物が多いのは、いつものことだ。「本を装備してる先生」と噂されているのは知っている。
 装備? なんだその表現は、と不思議に思っていたら、『ほら、RPG的な表現ですって』とうちの研究室のとある院生が教えてくれた。以前から流行っているらしいけれど、テレビゲームのことはよくわからない。確か、美也子が学生時代に夢中になっていて、『お兄ちゃん、絶対ハマると思うよ。中世の騎士物語っぽい設定だし、音楽がすごくいいんだから』と熱心に勧めてきた。結局、研究が忙しくてゲームどころの騒ぎではなかった。逆にもし夢中になっていたら、今ごろ博論を通すどころか修論さえおぼつかなかったかもしれない。
 そんなとりとめのないことを考えながら、研究室のドアを肘で叩く。すぐに内側から開いた扉の内側に入って、ふう、と荷物を机に置いた。
「芹沢先生、言ってくれたら運びましたのに」
 恐縮した様子で、部屋に残っていた院生が言ってくる。
「いや、いいよ。いつものことだし。レポートの提出日だってこと、実はさっきまで失念していたんだ」
「内線で呼び出してくださってもよかったのに……」
 なおもどこか心配そうに見てくる彼は、すぐに「あ」と何か思い出したらしい。
「今さっき、お電話がありましたよ。美也子さんから」
「ああ、ありがとう」
 この研究室の主である日下部教授は来月まで出張で、僕が留守を預かっている形だ。この春大幅な人事異動があって専任講師の数が減ったため、担当講義は増えるわ、雑用を丸投げされるわ、さんざんな目に遭っている。
 専任とはいえ、講師は立場が弱い。自分の研究に充てる時間を確保するには、早く准教授になるしかない。とはいえ、そのためには研究で成果を出さねばならないわけで、結局はどうにか時間を捻出してまた新しい論文を書くしかない。
 そういえば、「院生の論文の進捗も見ておいてくれ」と言いつけられていた、と思い出す。
 彼の机の上を見やれば、2講目の前に僕がここを出た時とほとんど様子が変わらない。さながら砦のごとく積みあがった資料の顔ぶれはさっきのままだし、手元のメモも白いまま。相変わらず論文はさっぱり進んでいないらしい。不真面目というわけではないけれど、気分にむらがあるのが玉に瑕な院生なのだった。
「昼、行ってきたら? まだでしょう?」
 疲れている、というよりは空腹でげっそりしているのがまるわかりな彼に促すと、途端にその顔が明るくなった。
「すいません。じゃ、遠慮なく」
「ごゆっくり」
 財布だけ持っていそいそと出ていくのを見届けて、僕は受話器をとった。あの様子だとたぶん学食だろうから、20分ほどで戻ってくるだろう、とあたりを付ける。ほかの二人もそのうち戻ってくるだろう。手帳を開いて、美也子の会社の番号を確認する。この春大学を卒業した妹の美也子は、地元の新聞社に勤めている。
 すぐにつながってさっきの不在を詫びると、間髪入れずに美也子が訊ねてきた。
「お兄ちゃん、今日は何時くらいに帰ってくるの?」
「帰れるかどうかわからないな」
「またぁ?」
 非難というよりは心配も混じっているいつもの声だ。もう、博論通って暇になるんじゃなかったの、と小言なのか愚痴なのかよくわからない言葉を聞きながら、僕はこっそりため息を吐く。僕だってそう思ってたんだよ、と。
 しばらくぶつぶつ言っていたものの、美也子は気を取り直したように声を明るくした。
「じゃあ、夕飯いらないね?」
「ああ、悪いけど」
「オッケー。じゃあ、あたしも遅くなってもいいよね。会社の人とご飯食べてくる」
「わかった。帰り、気を付けるんだよ」
「もう。子どもじゃなんだから、そういうのいいって」
「はいはい」
 ちゃんとお昼食べるんだよ、とまるで母親みたいな言いぐさをして切れた電話に、やれやれとまたため息が漏れる。6つも下のくせに、いつの間にか偉そうになったものだ。まあ、ありがたいと言えば、ありがたいけれど。
 父親が田舎の診療所勤務になってから、かれこれ4年になる。群馬の山奥までついていった母は、初めはその不便さに困惑していたものの、今ではすっかり田舎暮らしが気に入ったらしい。決して帰ってこられない距離ではないのに、ほぼずっと父の住む診療所兼住居で一緒に暮らしている。夜に急患が入ることも多々で、勤務時間は不規則のようだ。
 そういうわけで、4年前から僕は実家で妹の美也子と二人暮らしだ。お互い別々の大学に通っていて、生活時間はあまり重ならない日々だったが、放っておくと忙しさに紛れて食事もろくにとらなくなる僕の世話を、文句を言いつつあれこれ焼いてくれる美也子がいてくれて、正直ありがたかった。博論の追い込みで連日徹夜の日々でも倒れずに済んだのは、美也子のおかげだった。
 電話を終えてすぐに、先に昼食に出ていた院生のひとりが戻ってきた。留守を頼んで入れ替わりに食事に出かけることにして、読みかけの本を鞄に入れ、僕は研究室を出た。

 大学を出てすぐのところにある行きつけの小さな店に入って、いつもの窓際に座った。木の香りが心地よい和風の喫茶店で、平日のこの時間は、おにぎりと2種類のおかずが選べるワンプレートランチを出している。料理は丁寧かつボリュームもあり、密かに気に入って通っている店だ。
 卵焼きと野菜の肉巻きをおかずに選んで注文して、さっそく本を開く。できたら週末いっぱいで読んでしまいたいが、まだあと半分以上ある。世界最古の教会『エチミアジン大聖堂』についての本だ。自分の専門からは少し外れているものの、だからこそ興味が惹かれた。講義の準備や論文執筆目的でない読書というのは、やはり楽しい。
 先に運ばれてきた温かい緑茶をすすりながらページをめくっていると、ふと「久しぶりね」と声をかけられた。
 見れば、園田さんだった。彼女は、僕とは違う研究室で助手をしている。上品な光沢のある濃いブルーのシャツに真っ白のスカート。とても大学関係者には見えない洒落た身なりは、いつもどおりだ。そして、女子の院生の中でもこれほどしっかり化粧している人はなかなかいない。といっても、派手というよりはどちらかというと華やか、といったほうがしっくりくるタイプだ。
 あたりまえのように向かいの椅子を引いて、園田さんはすとんと腰を下ろした。
「遅ればせながら、D論お疲れさま。すごいね、余裕で最短?」
「あまりそういうのを意識はしていないから、なんとも言えないかな。好きなことだけしてるわけだから、早く修了するならその方がいいとは思うけどね」
「相変わらずさらっと言うなぁ。実はけっこう性格悪いよね」
「そうかな?」
「私に訊かないでよ。袖にした女にさ」
 長い髪をかき上げて睨むようなしぐさをしてから「なーんてね」と片方の口端を上げる。冗談めかしてはいるものの、わざわざ口に出すということは、少なからず根に持っている証拠だ。袖にしただなんて心外だ、と言いたかったけれど、僕は黙っていた。
 しかも、僕のプレートを運んできた店員に「すみません、こっちの席移っていいですか?」なんて尋ねたりしている。やれやれ、とこっそりため息を吐いた。
 園田さんとは同じ高校出身だ。そのまま同じ大学に進学して、学部時代からわりと親しかった。専門は違うものの、会えば話をしたりお茶を飲んだり、軽く食事をしたりもする仲だった。美也子曰く、「美人じゃん、文句なしに」とのことだが、僕としては特に何も感じなかった。つまり、ただの友達だと思っていた。
 だから、院1年目の時に唐突に「私と付き合って」と言われて、正直困惑した。
 華やかな外見の印象どおり、彼女は活発で交友関係も広く、いつも周りに人がたくさんいるタイプだ。ペースを乱されるのが好きではないからひとりでいる方が心地よくて、やりたいときにやりたいことをやりたいだけするのが何よりの幸せ、と思っている地味な僕とは真逆と言っていい。
『どうして? 僕が好きってこと?』
 それしか訊きようがなかったとはいえ、思い返せば確かにひどい質問だった。すぐにぷっと吹き出した園田さんは、可笑しそうにしばらく笑った後、僕をじっと見てこう言った。
『好きじゃなかったら、言うわけないでしょ、こんなこと』
『そうかもしれないけど……一体どこがいいの、僕の』
『顔。あと、真面目なとこ』
 顔が好き、だなんて言われたのは後にも先にも初めてだった。そもそも、誰かにカッコいいと言われた記憶はないし、美也子曰く、僕は「見たまんまガリ勉」らしい。まあ、別にかまわない。そもそも、研究者がガリ勉で何が悪い?
 最低限度の身だしなみには気を遣っているつもりだけれど、おしゃれに興味はない。「侮られると損だから、身ぎれいにしときなよ。特に、髪と靴」という美也子の言にしぶしぶ従っているだけだ。
『園田さんなら、僕なんかよりいい人たくさんいるでしょう?』
『そうかもしれないけど、私は芹沢君がいいの』
『……そう言われても』
『ねぇ、ためしに付き合ってみようよ、そんな困った顔しないで。そのうち好きになってくれればいいから』
 そのうち好きになってくれればいい、というのがどうしても引っかかった。それは違うんじゃないのか、と。
『ごめん、それはできない。僕には、そういうのは無理だと思う』
 気づくときっぱり言ってしまっていた。唖然とした様子の園田さんに、申し訳ないけど、と軽く頭を下げて僕はその場を去ったのだった。
 そんな経緯で、園田さんとはしばらく距離を置いていた。どちらかというと、僕の方が気まずくてなるべく避けていた格好だった。むこうはあまり気にしていないようで、出くわせば「元気?」とか「暇ならお茶しない?」とかそれまでどおり声をかけてきた。同じ研究室だった友達からは「なんで振ったんだよ、あんな美人を。もったいない」としつこく言われて少しうんざりした。
 そんなことを思い出しながら卵焼きを食べていると、向かいで園田さんがほおづえをついてこちらを見ていた。
「もう慣れっこなんだけどさ、そういう顔」
「どういう顔?」
「困った顔。私の前ではだいたいそういう顔してるよね」
 お待たせしました、と彼女のプレートが運ばれてきた。唐揚げとサラダがついたおにぎりセット。
 いただきます、と手を合わせて箸を割った園田さんは、さっそく唐揚げを頬張った。おいしい、と嬉しそうに。
「……ごめん。そういうつもりじゃないよ」
「だからいいって。芹沢君の顔、好きだもん、私」
「まだ言うんだ、それ……」
「しつこい?」
「まあ、多少は」
「はっきり言うね。表裏ないもんね、志水君」
 ごめん、と謝ろうかと思ってやめた。おにぎりを食べて誤魔化しておく。
「それに頑固だし。でも、誠実だよね、ある意味」
「……誠実では、ないかもしれない」
 頑固、ではあるかもしれない。でもそれは、誠実、とは違うような気がする。
「そうだ。妹さん、元気?」
「うん。大学卒業して、就職したよ。新聞社に」
 唐突に話題が飛んで、びっくりしたのとほっとしたのとが半々だった。
 なのに——
「ああ、それは上の妹さんでしょ? 下は何歳だっけ? ほら、あのすごくかわいい……」
「妹は一人しかいないよ」
「え、だって」
 言いかけた園田さんを僕は遮った。
「ごめん、園田さん。4講目の準備もあるし、もう行くから」
 伝票と鞄を手に僕は席を立った。軽く頭だけ下げて、彼女の顔は見ずに背を向ける。
 あの子は、僕の妹ではない。もしそうなら、どんなによかっただろう。
 美也子にそうするように軽口を叩いて、美也子からそう呼ばれるように「お兄ちゃん」と呼ばれていたなら。
 もしそうなら、あんなふうに突然消えてしまうこともなかっただろう。

 あの晩、僕たちはうちの庭で花火をしていた。
 傍から見ればずいぶんちぐはぐな3人だったと思う。Tシャツに短パン姿の僕に、浴衣を着た美也子とひとみちゃん。大、中、小、って感じ? なんて美也子は冗談めかしていたけれど、よくよく考えてみれば、それは見た目の大きさだけではなかった
 僕は大学3年で、美也子は受験生だったから中学3年生、美也子より6つ下のひとみちゃんは小学校3年生。つまり、本当に大、中、小なわけだ。意味が分かると、ひとみちゃんはくすくす笑った。
 普通なら小学生には少し渋すぎるだろうと思える杜若(かきつばた)柄の浴衣は、ひとみちゃんにはよく似合っていた。くすんだ赤の帯も色白の顔によく映えて、暑さでほてった顔が線香花火の明かりを受けていつもに増してつやつや輝いていた。くせ毛でふわふわした髪には、てっぺんで赤いリボンを蝶々結びにしてあった。
『可愛いね、浴衣』という僕の言葉に、ひとみちゃんが不満げに口を尖らせたのを覚えている。『ゆかた、は、いらないよ、さとしくん』と。美也子はその様子を見て、さも可笑しそうに笑っていた。
『あのね。なつやすみのしゅくだい、もうおわらせたんだよ』
 ひとみちゃんは少し誇らしげにそう言った。
『だから、ピアノをたくさんひけるの』
『いいね。たくさん聴かせて。好きだよ、ひとみちゃんのピアノ』
『だから、その倒置法、やめなってば』
 美也子は僕を睨んで、それからひとみちゃんに『まったく、罪な男だよねー』と、わけのわからないことを言っていた。当然、ひとみちゃんはきょとんとしていた。
『つみ? わるいひとってこと?』
『そうそう。悪い男。そのうち、罰が当たるんだから』
『さとしくんは、わるいひとじゃないよ。ばちなんてあたらないよ』
『もう。ひとみちゃん、お兄ちゃんに甘いって』
『さとしくんは、あまいもの、すきじゃないよね?』
 無邪気にそう問われて、思わず僕は笑ってしまった。
『そうだね。あまり好んでは食べないな』
『じゃあ、これは、みやこちゃんにあげる』
 ひとみちゃんは、巾着袋から花模様の紙で包まれた飴らしきものを取り出して、美也子に差し出した。美也子はパッと顔を明るくした。
『あ! チェルシー! ありがとう』
『えっと……さとしくんには、なにをあげようかな』
 ちょっと困った顔で巾着袋を一生懸命探ろうとするひとみちゃんに、僕は言ったのだった。
『なにもいらないよ。ピアノ、あとで聴かせてくれれば』
 家族に呼ばれてひとみちゃんが帰っていったあと、美也子と二人でバケツの水を庭に流して花火の後片付けをした。着慣れない浴衣が居心地悪そうで、美也子は帯をしきりといじっていた。
『あとやっておくから、着替えてくれば?』
『やだよ。もう少し満喫するんだもん。せっかく着たんだし』
 おそろいで買ったらしく、美也子の浴衣にも同じ杜若が描かれている。帯は白で、金魚の刺繍が入っていた。
『女子は大変だな。どうもごくろうさま』
『その言い草! 浴衣は二割り増し、ってよく言うでしょ? なんかあたしに言うことないの?』
『はいはい、その浴衣は可愛いね』
 ああ、面倒くさい。妹相手になんでこんなことを、とため息がこぼれる。視界の端で美也子が睨んでいるけれど、放っておいた。黙々とごみの片付けに専念する。
『……お兄ちゃん』
『なに?』
『ひとみちゃんさ……お兄ちゃんのこと大好きなんだよ』
 ぽつりと言った美也子は、僕を見た。意外にも真顔で少し焦っていると、しばしのち、『もー、罪な男だねぇ』なんていつもの調子に戻って、バシバシ僕の背中を叩いてきた。
『痛いよ。というか、悪い冗談だな』
『えー。冗談なんかじゃないって』
 なら、なお悪い、とこっそり思って首を振った。
『まあ、そのうち忘れるよ、僕のことなんか。あの子は、たぶんすごく綺麗になるだろうから』
『やっぱりお兄ちゃんもそう思う!? だよね!』
 途端に声が大きくなって、僕は軽く驚いた。興奮しきりの美也子は、唾を飛ばしながら畳みかけるように熱弁を奮う。
『なんだろう、あの天使みたいな顔。っていうか、ほんとやばいって、あれ。可愛すぎるもん。今でも十分綺麗だし!』
『確か、遠い親戚に外国の人がいたようだよ。ひとみちゃんのお母さんが言ってた』
『うっわー、ハーフとかそういうの?』
『遠い親戚だから、ハーフはないよ。クウォーターですらない』
『とはいえ、納得。ほんっと、お人形みたいなんだもん』
 あれで意外と鋭かったりするから、ただのお人形じゃないところが面白いけれど、とこっそり思っていたら腹の辺りをつつかれた。
『っていうか、お兄ちゃん! 実は、意外とまんざらでもないんでしょ?』
『あのね。残念ながら、21歳の男は9歳の女の子を好きになったりしない』
『でもさ、10歳の若紫に出会ったとき、光源氏は18歳だよ?』
 ああ、はじまった。
 美也子は古典が大好きで、しかも源氏物語にそれこそ宿命的に惹かれていた。のちに国文科に進んで源氏物語を専攻する片鱗が、当時すでに見え隠れしていた。
『あれはあくまで物語。そもそも僕は光源氏じゃない』
『まあ、そりゃそうだね。イケメンからは程遠いし、雅でもなければ高貴な生まれでもないし、なにより女にマメでもない』
『言いたい放題だな』
『それはおいといて、話戻すけど! 18歳の光源氏は、10歳の若紫を見初めたんだよ? 大真面目にね。で、あっという間にかっさらったんだから。そのあと、ちゃんと結婚までしたじゃない。三日夜の餅までちゃんと用意させて……』
『8歳差なら、まあ、セーフじゃないか』
 だんだん面倒くさくなってきて適当に答える僕に、美也子はなおも食い下がった。
『大して変わらないでしょ、12歳差だって……4つしか違わないもん!』
『どうして美也子がそこまで必死になるんだ?』
『そ、それは……』
 なぜかあの時、美也子は途端に歯切れが悪くなったのを覚えている。ついさっきまで、乗りに乗ってまくし立てていたのがまるで嘘のように。
 目が泳いで、必要もないのに空のバケツに何度も水道から水を入れてゆすいだりしていた。妙な沈黙が続いた。
 そして、それを破った美也子の声が、やけに悲痛に思えたことも、まるで昨日のことのように僕ははっきり覚えている。
『……ひとみちゃんのこと、妹みたいに思ってるんだもん。だから」
『でも、残念ながら妹じゃない』
 僕は首を振った。
『可愛がるのはいいけど、勘違いしないほうがいい』
『なんでよ?』
『こうやってかまいたいときにかまって、猫かわいがりしていられるのは、なぜだと思う?』
 美也子の目が細くなった。わかっているのに、気づきたくない。あの時、美也子はそんな目をしていた。
『責任がないからだ。ただの、お隣のおちびちゃん。ただそれだけだから』
『何よ……その言い方』
 ひどく傷ついたように美也子は僕を睨んでいた。バケツの柄を持つ手が、ことさらぎゅっと握るように縮こまる。
『お兄ちゃんがそんなに冷たいとは思わなかった。何よ、ちょっと頭いいからって、そういう言い方して』
『頭の良し悪しは関係ない。きちんと本質を見極めた方がいい、って言ってるんだ』
 さり気なく美也子の手からバケツを取り上げて、僕は立ち上がった。
『ひとみちゃんのご両親は熱心なクリスチャンだ。教育方針だって、おそらくうちとは違う。とてもいい人たちだとは思うけど、こうして僕らがあの子を猫かわいがりするのを、実際のところどう思っているかは、わからないよ』
『そんな……』
『三倉さんたちから見れば、僕らは異教徒だ。わかるだろう? どの宗教も程度の差こそあれ、排他的なんだよ。だから』
『でも! ひとみちゃん、洗礼は受けてないって……』
 いずれどうするかは自分で決めさせたい、と確かにひとみちゃんの母親は言っていた。そう聞いた時、ああ、いいお母さんだと僕はほっとしたのだった。
『お兄ちゃん、教会史が専門なんでしょ? なのにキリスト教、嫌いなの?』
『好き嫌いの問題でもない。それに、専門だからこそ、教会や修道院がどういう場所なのかもある程度はわかってしまう。興味の対象ではあるけれど、手放しで賛美するつもりはないよ』
 いぶかし気な美也子に、僕はこう続けた。
『いいかい? 信仰とは、全てを捧げて信じることだ。尊く見えても、裏を返せば自分で考えることを放棄する行為とも言える。思考停止してただ規則に従う場所だ、と修道院を乱暴にそう評する人もいる。さすがに僕はそこまで言うつもりはないけれど、修道士や修道女の全員が優れた人格者ではないだろうし、本当に純粋な気持ちで祈りに明け暮れているのかは、甚だ疑問だ。過酷な現実世界に背を向けるための、ただの口実にしている人もいるかもしれない。
 ともあれ、厳重に守られた門の向こう側は俗世とはまるで違う。これだけは確かだ。神を盲目的に崇拝することと、生身の人間に愛情を注ぐのが全く別物であるようにね。後者には、当然痛みが伴う。愛情は永遠に真っ白なままではいられないからだ。傷つけ、また傷つけられもする。そうした現実を徒いたずらに恐れて背を向けて、ああした閉鎖的な場所でひたすら前者に身を捧げるのには疑問を抱く、と僕は言いたいんだよ』
『……なんか、頭痛くなってきた。お兄ちゃんの言うこと、難しすぎて』
 美也子は長いため息を吐いていた。すっかり毒気が抜かれて、うんざりしているように見えた。
『あのさぁ、院に進んで学者になったら……その調子で大学でも講義するつもりなの?』
『そうなればいいと思っているよ。その調子、っていうのがよくわからないけどね』
『好きなことだけ滔々とうとうと語ってるってこと。周りがドン引いてるのもお構いなしで』
 こめかみを押さえながら、美也子は顔をしかめて僕を見ていた。
『ドン引いてるのは、お前だけだ。興味がある人間は、喜んで聴くさ』
『興味がある人間は、ねぇ』
 美也子は首を振って、こんなことを言い出した。
『話してる本人自体に対して興味があれば……っていうか本人自体のことを好きなら、いつまででもにこにこ聴いてるでしょうよ。たとえ内容がちんぷんかんぷんでもね。だって、ただ見てるだけで幸せなんだもの』
『一体なんの話だ?』
『さあね。頭いいんだから、自分で考えたら?』
 さっさと庭先から家へ戻っていく美也子に、仕方なく僕も続く。腑に落ちないが、これ以上付き合っているのにも疲れてきていた。
 塀の向こうの少し開いた窓から、ピアノが聴こえてきたのを今でも覚えている。バッハだ、と思わず目を閉じたことも。
 それから、その『目覚めよと呼ぶ声あり』は、僕が部屋に戻ってレポートを書き始めても、しばらく続いた。
 目覚めよと呼ぶ声、なのに、この日の僕にとっては眠りへと誘う心地よいBGMだった。少しだけ、と自分に言い訳して僕は机に突っ伏した。そして、そのまま眠ってしまった。
 それが、僕が最後に聴いたひとみちゃんのピアノだった。

 気づくと、大学の中庭まで来ていた。
 さっき園田さんから逃げるように店を出て、そのままキャンパス内を20分近くも歩いていたようだ。3講目がそろそろ始まる時間らしく、あたりに学生の姿はまばらだった。
 ベンチに腰を下ろして空を仰いだ。心地よいはずの午後の陽ざしが、容赦ない光の洪水に思えてくる。すぐに目を閉じ、ゆっくり息を吐きだした。落ち着くどころか、再び記憶がさざ波のように押し寄せる。両手で顔を覆って、知らず知らずに首を振る。
 もちろん、そんなことをしてもどうにもならなかった。波にのまれて、僕は押し流されるだけだった。
 
 あの花火の晩の翌日から、僕はゼミ合宿兼旅行でしばらく家を空けた。そして2週間後に戻ってくると、隣の三倉家は無人になっていた。
 飛行機事故があったのは知っていた。かなり大きな事故で、多くの人が亡くなったことも。けれど、まさかその飛行機に三倉さん夫婦が —— ひとみちゃんのご両親が乗っていたとは、思いもしなかった。
 三倉さん夫婦は、急に入った仕事の都合でどうしてもひとみちゃんを家に残していかねばならず、たまたまうちで預かっていたらしい。ひとみちゃんが事故に遭わずに済んだのは、本当に不幸中の幸いだった。
 僕を出迎えた美也子の目は真っ赤だった。泣きはらして、両目が埋没していた。すっかり枯れた声で美也子は言った。
 ひとみちゃんのお父さんとお母さん、亡くなったの。
 ひとみちゃんは、ご両親が懇意にしてた神父さんに引き取られたの。他に誰も親戚もいないから、って。
 ひとみちゃん、もう帰ってこないんだって。
 荷物を背負ったまま、僕は玄関で立ち尽くしていた。もう帰ってこない —— 言葉の意味がわかるまで、しばらくかかった。
『……違う子みたいになってた』
『え?』
『ひとみちゃんなのに、もうひとみちゃんじゃなかった』
 美也子の目に、みるみる涙があふれた。
『最初はね、わんんわん泣いてた。お父さん、お母さん、って。どうして死んじゃったの、って。どうしてわたしを置いていなくなっちゃったの、って。泣いて、泣いて……わたしも一緒に泣いたの。ぎゅって抱きしめてあげた。でもね、ぴたっと泣くのをやめてからは、一言も口をきこうとしなかった。ただ黙って宙を見つめてた』
 美也子はボロボロ涙を流しながら僕を睨んだ。
『どうして旅行なんて行ってたの!? どうして早く帰ってこなかったの!?』
『美也子……』
『お兄ちゃんの馬鹿!』
 理不尽に詰りながらしゃっくりあげる美也子の姿が、ゆらゆらとぼやけていった。鼻がツンとして、喉の奥がぎゅっと狭くなる。とどめる間もなく、熱い涙が僕のほおをつたっていくのがわかった。
『……ごめん』
 あの時、僕は美也子ではなくひとみちゃんに謝っていた。ごめん、ひとりにしてごめんね、と。
 もちろん、僕がいても何もできなかっただろう。
 でも、せめて。泣きじゃくるひとみちゃんの傍にいてあげればよかった。泣き疲れて眠るあの子の傍にいてあげればよかった。目覚めた時に、少しでも寂しくないように。
 ただ楽しい時だけ猫かわいがりするのではなく、辛い時を分かち合いたかった。苦しみを一緒に背負わせてほしかった。
 決して妹ではなかったし、妹でなくてよかったと思っていた。
 けれど、それは責任がないのを良しとしていたからじゃない。ただの隣のおちびちゃんだなんて、本当は思ってはいなかった。初めから、そんなことは明らかだった。それなのに、僕は自分の気持ちを偽っていた。
 勘違いするなだの、本質を見極めろだの、小難しいことを並べ立ててみても、結局は言い訳に過ぎない。
 僕は逃げていた。何も応えていなかった。真剣に向き合っていなかった。
 まあそのうち忘れるよ、僕のことなんか、と半ば本気で思っていたのは確かだけど、こんな形で目の前から消えてほしかったわけじゃない。小さな胸に抱いた幸せな記憶の数々が、こんな形で塗りつぶされていいわけがない。
 ひとみちゃんのご両親は、飛行機の中で遺書を残したらしい。奇跡的にそれが見つかって、例の神父に引き取られることになったのだという。穏やかないい人だった、と美也子は言う。その神父が保護者となって、横浜の教会で暮らすことになったのだ、と。
 いずれどうするかは自分で決めさせたい、とあの子の母親は言っていたけれど、こうなっては選択肢はないに等しい。
 ひとみちゃんなのに、もうひとみちゃんじゃなかった。美也子はそう言った。一言も口をきこうとしなかった。ただ黙って宙を見つめてた、と。
 ひとみちゃんは洗礼を受けるだろう。肉親を失った人の多くがそうするように、信仰の中に救いを求めるだろう。
 それを咎めることなど、誰にもできようはずがない。自分で考えることを放棄している、などと非難することもまた然りだ。
 それからひとみちゃんがどうしているのか、僕は知らないままだった。
 ひとみちゃん、もう帰ってこないんだってーー 美也子は確かにそう言った。保護者となった神父の意向だろうが、それはつまり、ひとみちゃんの精神状態を鑑みて、この場所とは距離を置くという宣言だろう。新しい環境で傷を癒すために。
 僕にできるのは、あの子が幸せでいてほしいと願うことだけだった。
 
 中庭のベンチに腰掛けたまま、僕は身動きができなかった。
 あれから7年が経とうとしている。今さらどうしてこんなふうに思い出すのだろう。どうしてこれほどまでに記憶が鮮明なのだろう。
『ゆかた、は、いらないよ、さとしくん』
 不満げに口を尖らせた顔が、とても可愛らしかった。
 あの子の言う通りだった。可愛いね。ただ、それだけでよかった。