校舎の玄関を出た瞬間、ぽつり、と額に冷たい感触が落ちてきた。
――あ、降ってきた
空を見上げると、灰色の雲が広がり、ぽつぽつと水滴がアスファルトを濡らしていく。
気のせいか、空気も少しひんやりとしていた。
放課後の昇降口は、下校する生徒たちで賑わっている。
みんな思い思いに傘を広げながら、楽しげに帰路についていた。
そんな中、私はカバンの中をガサゴソと探りながら、焦るように独り言を漏らす。
「……ない、傘、忘れた……」
朝の天気予報では晴れだったはずだ。
いや、確かに「夜から雨」とは言っていたけど、まさかこんなに早く降り出すなんて。
(どうしよう……)
家までは歩いて二十分ほど。
走れば十分くらいで帰れるかもしれないけど、もうすでに雨粒が大きくなってきている。
このまま飛び出せば、きっとずぶ濡れになってしまうだろう。
友達はすでに帰ってしまっていたし、傘を借りる相手もいない。
仕方なく、私は昇降口の隅で立ち尽くし、雨が弱まるのを待つことにした。
(止まないかな……)
そんな期待も虚しく、雨脚はどんどん強くなっていく。
大粒の雨が地面を叩き、しとしとと静かに降っていたはずの雨音が、ざあっと勢いを増す。
(あー……もう、無理……)
濡れる覚悟を決めて飛び出そうとしたその時だった。
「……入る?」
ふいに、目の前に黒い傘が差し出された。
驚いて顔を上げると、そこに立っていたのは、クラスメイトの相沢くんだった。
背が高く、どちらかというとクールな印象の彼。
クラスではよく男子たちとつるんでいるけど、あまり無駄口を叩かないタイプで、私とはほとんど会話をしたことがない。
「……え?」
「傘。忘れたんでしょ?」
淡々とした口調で言いながら、彼は少しだけ傘を傾ける。その仕草に、私は戸惑いながらもおそるおそる傘の中に入った。
「……ありがとう」
思ったよりも狭い傘の中。
肩が少し触れそうな距離感に、息が詰まりそうになる。
(ち、近い……)
なんだか落ち着かなくて、ぎこちなく彼の横を歩く。
横目でちらりと見ると、彼は特に気にする様子もなく、前を向いて歩いていた。
(普通にしてる……こっちが変に意識しすぎ?)
でも、どうして? クラスで特に仲がいいわけでもないのに、なぜ彼は私に傘を差し出してくれたんだろう。
――聞けばいいのに、声が出なかった。
雨の音が傘を打ち、しんとした空気が流れる。
二人の間に沈黙が落ち、心臓の音だけがやけに大きく聞こえた。
(何か話した方がいいのかな……)
何気ない話題でもいいから、少しでもこの微妙な空気を和らげたかった。
だけど、何を言えばいいのか分からない。
考えすぎている間に、駅へと続く大通りに出た。
信号待ちで立ち止まる。傘の縁からぽたぽたと滴る水滴を見つめながら、彼がぽつりと呟いた。
「……雨、止まないといいのに」
「……え?」
思わず聞き返すと、彼はわずかに視線を落としながら、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「……いや、別に。なんとなく」
何気ない言葉。でも、それがやけに心に引っかかった。
雨が止まないといい? それって……どういう意味なんだろう。
(まさか、私とこうしているのが嫌じゃない……とか?)
そう考えた瞬間、心臓が跳ねた。
(いやいや、深読みしすぎ! ただの独り言に決まってるでしょ!)
そう自分に言い聞かせても、頬の温度がじわじわと上がるのを止められなかった。
信号が青になり、また静かに歩き出す。
だけど、さっきまでよりもずっと雨音が近く聞こえた。
やがて、分かれ道に差し掛かる。
「ここでいい?」
彼が足を止め、私の方を見た。
「う、うん。ありがとう、本当に助かった」
「別に。たまたまだから」
ぶっきらぼうな言葉。でも、その言い方がなんとなく照れ隠しのように聞こえてしまうのは、私の思い込みだろうか。
彼がゆっくりと傘を閉じる。すると、狭い空間で守られていた雨音が、突然大きく響いた。
ぽつぽつと顔に当たる水滴。
さっきまで二人を包んでいた、あの不思議な空気がふっと消え去ってしまうような気がして、ほんの少しだけ寂しくなった。
「じゃあな」
「うん、また明日」
何でもないように手を振り、私は小走りで家へ向かう。
でも、歩きながら何度も彼の言葉が頭をよぎった。
――雨、止まないといいのに。
(……何だったんだろう)
彼の何気ない言葉に、心がそわそわする。
雨粒が肌に触れているはずなのに、胸の奥がじんわりと熱かった。
(変なの……)
その日、部屋の窓に当たる雨の音を聞きながら、私はずっと心のざわめきを持て余していた。
次の日の朝、私はいつもより少しだけ早く家を出た。
特に理由があったわけじゃない。
ただ、昨日のことを思い出すと、なんとなく落ち着かなくて、家でじっとしていられなかったのだ。
(……バカみたい)
ただ傘を借りて、一緒に帰っただけ。
相沢くんにとっては、きっと何でもないことだったはず。
それなのに、私はずっと彼の言葉を考えていた。
――「雨、止まないといいのに」
あれは、どういう意味だったんだろう。
(……いや、深読みしすぎ。たまたま口にしただけだって)
そう思おうとしても、一度意識してしまったものはなかなか消えてくれない。
結局、昨夜は何度も寝返りを打ち、ようやく眠れたのは夜中の2時を回った頃だった。
おかげで今日は寝不足気味。
あくびをかみ殺しながら校門をくぐると、ちょうど相沢くんの姿が目に入った。
(……!)
彼はいつも通り、無表情で歩いている。
ポケットに片手を突っ込み、どこかぼんやりとした様子だ。
――意識するな、普通にしてればいい。
そう自分に言い聞かせながら足を速める。
でも、すれ違う瞬間、彼の視線がふとこちらに向けられた。
(目が合う――)
心臓が跳ねた。
ほんの一瞬のことだったのに、なぜか時間がスローモーションになったような感覚に陥る。
(……やばい、そらさなきゃ)
なのに、体が思うように動かない。
「……おはよう」
不意に相沢くんが口を開いた。
「えっ、あ……お、おはよう」
動揺したせいで、変な間が空いてしまった。
彼は少し不思議そうな顔をしたけれど、特に気にすることもなく、そのまま教室へと歩いていく。
(……え、なんで)
今までほとんど話したこともなかったのに。
どうして今日に限って挨拶を?
いや、普通に考えれば、昨日一緒に帰ったからかもしれない。
でも、それならもっと軽い感じで「昨日はありがとう」とか、そんな言葉があってもよかったんじゃ……?
(……って、何考えてるの、私)
頭をぶんぶんと振って、変な考えを振り払う。
――意識しすぎ。気にしすぎ。
そう言い聞かせて席につく。
でも、どれだけ誤魔化しても、心のざわつきは消えなかった。
午前の授業は、ほとんど上の空だった。
ノートを取りながらも、頭の片隅ではずっと昨日の帰り道と、今朝の挨拶がぐるぐると渦を巻いている。
――たった一言の「おはよう」。
たったそれだけのことなのに、私はこんなにも意識してしまっている。
「……なにニヤニヤしてんの?」
「えっ」
突然話しかけられ、びくっと肩を跳ねさせる。
隣の席に座る篠原が、じとっとした目でこちらを見つめていた。
「な、何でもないよ!」
「いや、絶対なんかあるでしょ。さっきからずっとぼーっとしてるし、たまにニヤけてるし」
「ニヤけてない!」
「いや、してたよ」
「してないから!!」
「はいはい」
適当に流しながら、篠原はノートに視線を落とした。
ホッと胸を撫で下ろす。
でも、もしかして、私は本当にニヤけていたんだろうか。
(……そんなわけない)
だけど、顔が少し熱くなっている気がして、慌てて頬に手を当てる。
放課後
今日は雨が降っていなかった。
(なんか……変な感じ)
昨日はこの時間、あの雨の中で相沢くんと二人で傘に入っていた。
今日はそれがない。
ただそれだけなのに、妙に物足りなさを感じてしまう。
(……変なの)
昨日までは、相沢くんのことなんて気にしたこともなかったのに。
(もう、気にするのやめよう)
自分に言い聞かせながら、校門を出る。
――その時だった。
「……!」
少し前を歩く相沢くんの姿を見つけて、足が止まった。
彼はいつもの無表情で、ポケットに手を突っ込んだまま歩いている。
昨日と同じ帰り道なのに、今日は隣にいない。
ただそれだけのことなのに、心がチクリと疼いた。
(……何してるんだろ、私)
昨日はたまたま一緒に帰っただけ。
今日は傘もないし、また話す理由もない。
だから、普通に帰ればいいだけなのに。
なのに、なぜか足が勝手に彼を追いかけていた。
一定の距離を保ちながら、後ろをついていく。
まるでストーカーみたいだと自分でも思うけど、足が止まらなかった。
――昨日みたいに、また話せたらいいのに。
そんなことを考えてしまう自分が、少しだけ嫌になった。
でも、きっとこの気持ちは、ほんの少しの間だけのもの。
だって、彼とは何でもないクラスメイトなのだから。
次の日の放課後、校舎を出た瞬間、冷たい雫が頬を打った。
――雨、降ってる……。
空を見上げると、昨日までとは違うどんよりとした灰色の雲が広がっていた。
小さな水滴がポツポツと降り始め、地面に淡いシミを作っていく。
私はカバンの中を探りながら、傘の存在を確かめた。
(……ちゃんと持ってきた)
昨日みたいに慌てることはない。
だから、もうあの人に頼ることもない。
(……別に、寂しいとか、そういうわけじゃない)
自分にそう言い聞かせる。
でも、傘を開こうとした瞬間――
「また忘れたの?」
不意に聞き慣れた声がして、動きが止まった。
振り向くと、そこには相沢くんがいた。
黒い傘を手に持ち、私の顔をじっと見ている。
その表情は昨日と変わらず、どこか無愛想で、でも少しだけ気にしているようにも見えた。
「あ……今日は、持ってる」
そう言って傘を見せると、彼は「そっか」と呟いて、すぐに視線を逸らした。
――これで終わる、はずだった。
だけど、私の口は勝手に動いてしまう。
「……あの、相沢くんは?」
「ん?」
「相沢くんは……傘、持ってるの?」
聞いてから、自分でも変な質問だと思った。
だって、彼はちゃんと傘を手に持っているのだから。
なのに、彼は少しだけ考えるように視線を落とし――
「一緒に入る?」
まるで昨日と同じ言葉を、自然に口にした。
「え……?」
「昨日みたいに」
言いながら、彼は少しだけ傘を傾ける。
それは、まるで「おいで」と言っているみたいで――
(ずるい……)
胸の奥が、ぎゅっとなった。
私だって傘を持っているのに。
自分一人で帰ることだってできるのに。
それでも、彼の傘に入りたいと思ってしまった。
(……なんで)
答えなんて分からない。
ただ、気づけば私は彼の傘の中に入っていた。
昨日と同じように、相沢くんと並んで歩く。
だけど、昨日よりも緊張しているのは自分でも分かった。
傘の下、肩が触れそうなくらい近い距離。
雨の音が響く中、私たちはしばらく黙ったままだった。
(……何か話さなきゃ)
沈黙が苦しくて、無理やり口を開く。
「あの、相沢くんって、いつも傘持ち歩いてるの?」
「ん? まあ、雨降りそうな日は」
「昨日は降るなんて言ってなかったのに?」
「んー……なんとなく」
「なんとなく?」
相沢くんはふっと微笑んで、傘を少し傾けた。
「予感、かな」
「予感?」
「……昨日、雨降ってよかったなって思ったから」
「え……?」
心臓が跳ねた。
(今、何て……)
彼の言葉を反芻する。
でも、それがどういう意味なのかは分からなかった。
ただ、ほんの少しだけ、顔が熱くなった気がする。
気づかれたくなくて、私はそっと顔を伏せた。
しばらく歩いて、信号待ちの場所に来た。
雨は少しずつ強くなり、傘の縁から大きな雫が落ちてくる。
車が通るたびに、水しぶきが弾けた。
「……濡れるな」
相沢くんがぼそっと呟いたかと思うと――
次の瞬間、彼の腕が動いた。
「えっ」
気づけば、傘が私の方に寄せられていた。
さっきまでよりも、もっと近い距離。
肩が触れそうどころか、ほんの少しだけ、袖がかすれている。
「……これなら濡れない」
静かな声が、すぐそばで響いた。
ドクン、と心臓が跳ねる。
(ち、近い……!)
顔が熱くなっていくのを感じた。
でも、離れることができなかった。
どれだけ雨音が激しくても、今は彼の息遣いの方が大きく聞こえる。
(どうしよう、変な顔してないかな……)
そわそわと視線を泳がせる。
だけど、相沢くんは特に気にする様子もなく、ぼんやりと前を見つめていた。
(……なんでこんなに自然なの?)
私は、こんなにもドキドキしているのに。
やがて信号が青になり、私たちはまた歩き出した。
でも、傘の距離は変わらないまま。
しばらく歩いて、分かれ道に着く。
「ここでいい?」
「……うん」
別れの言葉を言おうとする。
でも、なぜか喉が詰まったように声が出ない。
もっと一緒にいたい。
そんなこと、思うはずがないのに。
ぎゅっと傘の柄を握る。だけど、どうすることもできなくて――
「……じゃあな」
「……うん、また」
彼はいつも通りの無表情で、傘を閉じる。
その瞬間、傘の下で守られていた空間がふっと消えた。
ぽつ、ぽつ、と顔に当たる雨粒。
(……また、一人だ)
そんなことを思ってしまう自分に、驚いた。
彼はもう、少し離れた場所を歩いている。
私は何も言えないまま、ただ彼の背中を見つめていた。
家に帰っても、心臓のドキドキは収まらなかった。
――昨日、雨降ってよかったなって思ったから。
あの言葉が、何度も頭の中で繰り返される。
(どういう意味なんだろ……)
考えれば考えるほど、胸がざわざわした。
窓の外では、雨が降り続いている。
――明日も、雨が降るかな。
そんなことを思ってしまう私は、もうすでに何かを期待しているのかもしれない。
次の日も、雨だった。
朝から降り続く雨は昨日よりも強くなっていて、窓を打つ音がやけに響く。
校舎の廊下を歩いていても、湿った空気がまとわりついて、どこか落ち着かない気分だった。
(……また、帰りも降ってるのかな)
そんなことを考えている自分に気づいて、慌てて首を振る。
(ちがうちがう、雨が降ってるかどうかなんて、別に気にすることじゃない)
――でも、本当にそうだろうか?
昨日、相沢くんとまた相合傘をした。
それが「たまたま」だったのか、そうじゃないのかは分からない。
でも、私が思っていたよりも彼との距離は近くて、心臓の音が聞こえそうなくらいだった。
(……やっぱり、変だよね)
私、こんなに相沢くんのこと、気にしてたっけ?
午前の授業が終わり、昼休みになった。
「ねえねえ、聞いた?」
「ん?」
クラスメイトたちが、楽しそうに話している。
何気なく耳を傾けると、聞こえてきたのは「相沢くんが誰かと相合傘してた」という噂だった。
――ドクン
一瞬、心臓が大きく跳ねる。
(え……それって、もしかして……)
「え、誰と?」
「分かんないけど、昨日の放課後だったみたい。女の子と一緒だったって」
「へぇー、相沢くんってそういうの興味なさそうなのにね」
そんな何気ない会話に、思わず胸がざわつく。
(別に……私と一緒に帰ったことなんて、特別なことじゃない)
なのに、なぜか彼のことを話題にしているクラスメイトの声が、遠くの方で聞こえるような気がした。
私は、ゆっくりとお弁当のフタを開ける。だけど、手が止まったまま、食欲も湧かなかった。
放課後になっても、雨は止まなかった。
傘を持って昇降口へ向かう途中で、相沢くんの姿を見つける。
(……また、一緒に帰るのかな)
そう思った瞬間、彼が別の女の子と話しているのが見えた。
「え……?」
無意識に足が止まる。
相手は、桜井さんだった。
明るくて優しくて、男女問わず人気がある女の子。
彼女が相沢くんと何か話しているのを見て、胸の奥がチクリと痛んだ。
(……なんで、そんな気持ちになるの?)
私は別に、相沢くんのことが好きなわけじゃない。
なのに、なぜか立ち止まってしまう自分がいる。
(……違う。考えすぎ)
気にしないふりをして、私は足を速めた。
だけど、耳は勝手に彼らの声を拾ってしまう。
「……傘、忘れちゃって」
「そっか。じゃあ、入る?」
――ドクン
相沢くんのその言葉に、心臓が大きく跳ねた。
(……あれ?)
それ、昨日私に言った言葉と同じじゃない?
「え、いいの? ありがとう!」
桜井さんが笑顔で答えるのを見て、さらに胸がざわついた。
(……なんで、こんなにモヤモヤするの)
ただの相合傘
昨日、私としたみたいに、今日も別の誰かとしているだけ。
なのに、まるで何か大切なものを取られたみたいな気分になってしまう。
(私、何考えてるんだろ……)
わけが分からなくなって、私は急いで校門を出た。
雨の中、一人で歩く
傘の下、ぽつぽつと落ちる雨の音だけが響いていた。
(バカみたい……)
誰が誰と相合傘しようと、私には関係ないのに。
それなのに、昨日はあんなに嬉しかった。
隣に相沢くんがいたことが、たったそれだけのことが。
(……やだ)
認めたくなかった。
この気持ちが何なのか、気づきたくなかった。
「……ばか」
雨音にかき消されるくらいの小さな声で呟く。
それでも、胸の奥のチクリとした痛みは、消えてくれなかった。
次の日も、雨が降った。
まるで、この雨がずっと続けばいいと言わんばかりに、灰色の雲が空を覆っている。
私の心も、それと同じようにどんよりとしていた。
(……また、降ってる)
登校途中、傘を差しながらぼんやりと空を見上げる。
昨日のことが頭から離れなくて、なんだか一日中ずっと気分が晴れない。
相沢くんが桜井さんと相合傘していた光景。
別に、それがどうしたって話だ。
彼が誰と帰ろうと、私には関係ない。
(……関係、ないはずなのに)
どうしても、心の奥がモヤモヤする。
気づきたくない、でも気づいてしまった。
――私、相沢くんのこと、気にしてる。
午前の授業は、まるで頭に入らなかった。
「……ねえ」
隣の席の友達が、小声で話しかけてくる。
「なんか、元気ないね」
「……そんなことないよ」
「ほんとに?」
嘘をつくのは苦手だ。
でも、今は正直に話すこともできなかった。
「うん、平気」
無理に笑ってみせる。
だけど、友達は納得していないような顔で私を見ていた。
放課後になった
雨はまだ降っている。
私はいつもよりゆっくりと昇降口へ向かった。
(……相沢くん、いるかな)
そんなことを考えてしまう自分に、またため息が出る。
――どうしたって、気になってしまう。
昇降口に着くと、案の定、相沢くんの姿があった。
でも、昨日とは違って、彼は一人だった。
(……桜井さん、いない)
なぜか、少しだけホッとする。
でも、それと同時に思う。
(私は……何を期待してるの?)
気づかれないように小さく息を吐いて、傘を開こうとする。
その瞬間――
「……また一人で帰るの?」
不意に声をかけられた。
「え……?」
振り向くと、相沢くんがこちらを見ていた。
「昨日、急いで帰っただろ」
「そ、それは……」
誤魔化そうとするけど、言葉が出てこない。
彼はふっと視線を落として、傘を開く。
「一緒に帰る?」
まるで、昨日のことなんて何もなかったみたいに。
いつも通りの声で、自然にそう言った。
でも――
「……今日はいい」
気づけば、私はそう答えていた。
一人で歩く帰り道。
相合傘の傘の中じゃなくて、自分の傘の中。
雨の音が、やけに大きく聞こえる。
(なんで、断ったんだろ)
本当は、一緒に帰りたかったのに。
相沢くんの隣にいるのが、なんだか当たり前みたいになっていたのに。
(……怖かったのかも)
昨日のことがあったから。
相沢くんにとって、相合傘は「特別なこと」じゃないのかもしれないって、そう思ってしまったから。
私は、ただ傘を差しているだけで、特別になれるなんて思ってしまっていたのかもしれない。
(……バカみたい)
自分の考えに、思わず苦笑する。
でも、やっぱり胸の奥がチクリと痛んだ。
次の日
雨は――止んでいた。
それなのに、私の心は昨日のまま、曇ったままだった。
学校に着いても、なんとなく気分が晴れなくて、授業中もずっとぼんやりとしていた。
(……相沢くん、今日は普通にしてるかな)
気づけば、そんなことを考えてしまう。
放課後
校舎を出ると、いつもよりも空が広く感じた。
――雨が降っていないだけで、こんなにも違うんだ。
そんなことを考えながら歩いていると、不意に背後から声がした。
「なあ」
「……!」
振り向くと、そこに相沢くんがいた。
「なんで昨日、一緒に帰らなかったの?」
突然の質問に、心臓が跳ねる。
「え……それは……」
理由なんて、言えるわけがない。
(あなたのことが特別に思えてしまいそうで、怖かったから)
(傘の中が、私だけのものじゃないんだって思ってしまったから)
そんなこと、絶対に言えない。
「……なんとなく」
そう答えるのが精一杯だった。
でも、相沢くんはじっと私を見ていた。
まるで、嘘を見抜かれているみたいに。
「そっか」
静かにそう言って、彼はポケットに手を突っ込んだ。
「……もう雨、降らないな」
その言葉が、やけに寂しそうに聞こえたのは、気のせいだったのだろうか。
次の日も、その次の日も、雨は降らなかった。
まるで、あの日を境に季節が変わったみたいに、朝から青空が広がっていた。
それなのに、私の気持ちはまだ晴れないままだった。
(……もう、相合傘することもないんだ)
そんなことを考えてしまう自分に、思わず苦笑する。
(なんで……こんなに気にしてるんだろ)
傘の中にいた時間が、思い出になるなんて思ってもいなかった。
ただ一緒に帰っていただけ。
ただそれだけだったのに。
昼休み、クラスメイトたちが相変わらず賑やかに話している。
「ねえねえ、聞いた?」
「え? 何を?」
「相沢くんのこと」
――ドクン。
名前を聞いただけで、心臓が跳ねる。
(また……)
自分でも呆れるくらい、彼のことが気になってしまう。
「なんかさ、最近よく桜井さんと一緒にいるよね」
「え、そうなの?」
「昨日もさ、一緒に帰ってたの見たよ」
――ザワッ。
胸の奥が、冷たくなる。
それを顔に出さないように、私はお弁当のフタを開けた。
(……別に、関係ない)
でも、どうしてだろう。
お弁当の味が、よく分からなかった。
放課後
校舎を出ると、まだ空は明るかった。
傘を持たずに歩く帰り道は、こんなにも軽やかだったんだと改めて思う。
でも――
(なんで、こんなに寂しいんだろう)
考えたくないのに、思い出してしまう。
雨の日、傘の中で感じた彼の隣の温度。
あの小さな空間の中で、心臓の音がうるさく響いていたこと。
それが、もう戻らないものだとしたら。
(……バカみたい)
そんなことを考えても、仕方ないのに。
次の日
朝から曇り空だった。
(……降るのかな)
そんなことを考えながら、登校する。
なんとなく、雨が降ったらいいのにと思ってしまう自分がいた。
相合傘がしたいわけじゃない。
ただ――雨が降れば、心の中のモヤモヤも流してくれる気がした。
「おはよう」
「……おはよう」
教室に入ると、相沢くんがこちらを見ていた。
でも、すぐに視線をそらす。
(……もう、前みたいには戻れないのかな)
そんな考えが頭をよぎって、胸が締めつけられた。
放課後
外に出ると、ぽつり、と冷たいものが頬に落ちた。
(……雨)
空を見上げると、灰色の雲がゆっくりと広がっている。
(降るなら……もう少し、強く降ってほしいな)
そう思っていたのに、雨はすぐに止んでしまった。
まるで、私の気持ちをからかうように。
(……なんで、降らないの)
本当は、雨のせいにしたかった。
傘がないから一緒に帰るしかないんだって、そういう理由がほしかった。
(もう、戻れないのかな)
そんなことを思いながら、ゆっくりと歩き出した。
すると――
「なあ」
背後から、聞き慣れた声がした。
「……!」
振り向くと、相沢くんがそこにいた。
「帰るの?」
「……うん」
「傘、持ってる?」
「え?」
問いかけられて、思わず自分のバッグを見る。
「持ってるけど……」
「そっか」
相沢くんは、少しだけ残念そうに笑った。
「……また、一緒に帰れるかと思ったのに」
――ドクン
心臓が、大きく跳ねる。
「え……」
何かを言おうとしたけど、言葉が出てこなかった。
相沢くんは、ゆっくりと傘を開く。
「……じゃあ、またな」
そう言って、歩き出した。
私は――
(なんで……?)
その背中を、ただ見つめることしかできなかった。
空を見上げる
さっきまで降っていたはずの雨は、もうどこにもなかった。
(……どうして、降らなかったの)
雨が降れば、またあの傘の中にいられたのに。
でも、そんなのはただの言い訳だ。
本当は、私の気持ち次第だった。
(……私が、傘に入れてって言えばよかったんだ)
なのに、言えなかった。
怖くて、踏み出せなかった。
雨が降らなかったせいじゃない。
私はただ――
(……この気持ちを、認めたくなかっただけ)
小さく息を吐いて、歩き出す。
まるで、降らなかった雨が心の中に降っているみたいに、胸の奥がじんわりと冷たかった。
雨が降らなくなって、一週間が過ぎた。
あの日、相沢くんが「また一緒に帰れるかと思ったのに」と言ったことが、ずっと頭から離れない。
何気ない言葉だったのかもしれない。
でも、私にとっては、ずるい言葉だった。
(……そんなの、期待しちゃうじゃん)
それなら、どうして私のことを避けるような態度をとるの?
授業中も、目が合いそうになるとすぐに逸らす。
廊下ですれ違っても、気づかないふりをする。
まるで、傘の中にいた時間なんてなかったみたいに。
(だったら、あんなこと言わなければいいのに)
そんなことを考えてしまう自分が嫌だった。
だって、きっと相沢くんも同じ。
私だって、素直に「一緒に帰りたい」って言えなかったくせに。
放課後
今日も、晴れていた。
昇降口で靴を履き替えていると、不意に声をかけられた。
「ねえ、ちょっといい?」
顔を上げると、そこに桜井さんがいた。
「……桜井さん?」
「少しだけ話したいことがあるの」
そう言って、彼女は微笑んだ。
嫌な予感がする。
だけど、逃げることもできなくて、そのまま彼女についていった。
人の少ない中庭に来ると、桜井さんはふっと息をついて、私を見た。
「……私ね、相沢くんのこと、好きなの」
その言葉を聞いた瞬間、心臓が止まりそうになった。
「……そっか」
やっとの思いで、それだけ答える。
桜井さんは、私の表情をじっと見つめた。
「驚かないんだ?」
「……なんとなく、そんな気はしてたから」
本当は、驚いた。
でも、そんなこと言えなかった。
「それで……お願いがあるの」
「……お願い?」
桜井さんは、少し困ったように笑った。
「相沢くん、最近ちょっと変なんだよね」
「……変?」
「なんか、ぼーっとしてることが多いっていうか……。もしかして、好きな人でもいるのかなって思って」
――ドクン
「それで……もし、あなたが相沢くんのこと、好きなら……」
桜井さんの言葉が、ゆっくりと胸に刺さっていく。
「……私、諦めるつもりはないから」
そう言って、彼女は微笑んだ。
それは、優しい笑顔だったけど、同時に強い決意が見える顔だった。
「……そっか」
私の声は、思った以上に小さかった。
桜井さんと別れて、一人になったとき、やっと息ができた気がした。
(……好きなら、って)
私は、相沢くんのことが好きなの?
(そんなの……)
認めたくない。
でも――
(……違う)
本当は、もうとっくに気づいてた。
雨の日に、相合傘をしたときから。
彼の傘の中が、居心地よく感じたときから。
(私……相沢くんのこと、好きなんだ)
認めた瞬間、胸が苦しくなった。
(でも、どうしたらいいの……?)
考えても、答えは出なかった。
その日の帰り道
もう、雨は降っていない。
傘のない帰り道は、こんなにも広くて、こんなにも寂しい。
(……相沢くん、今ごろ帰ってるかな)
そんなことを考えていると、不意に後ろから足音が聞こえた。
「なあ」
聞き慣れた声。
振り向くと、相沢くんが立っていた。
「……相沢くん?」
「お前、今日は遅かったな」
そんなの、初めて言われた。
「……うん、ちょっと」
桜井さんと話していたなんて、言えなかった。
相沢くんは、私の顔をじっと見つめる。
「なんか……お前、元気ないな」
――ッッッ
「そんなこと、ないよ」
無理に笑おうとする。
でも、ダメだった。
桜井さんの言葉が、頭の中で何度も繰り返される。
(私、諦めるつもりはないから)
私も、諦めたくない。
でも、相沢くんが桜井さんを好きだったら?
そんなの、耐えられない。
「……相沢くんは」
気づけば、口が動いていた。
「好きな人、いるの?」
言ってしまった。
相沢くんは、一瞬驚いたように目を見開いた。
「……どうして、そんなこと聞くんだよ」
少し困ったような顔をしている。
「ただ……気になって」
本当は、怖くて仕方なかった。
「……いるよ」
その一言で、胸が締めつけられた。
やっぱり、いたんだ。
相沢くんの好きな人。
桜井さん、なのかな――
「でも」
彼は続けた。
「その人、俺のことなんて何とも思ってないかもしれない」
「え……?」
「……だから、言えないんだよ」
相沢くんの表情が、少しだけ切なそうに見えた。
「でも、俺は……」
彼は何かを言いかけて、ふっと笑った。
「……なんでもない」
それ以上、何も言わなかった。
私も、何も言えなかった。
ただ――
雨が降らない帰り道を、並んで歩いた。
まるで、答えを見つけることを怖がるみたいに。
次の日、朝から空はどんよりと曇っていた。
天気予報では、午後から雨が降ると言っていた。
(……降ればいい)
自分の気持ちに素直になったはずなのに、まだ一歩踏み出せずにいる。
だから、雨が降ってほしいと思った。
傘が必要になるくらいの、ちゃんとした雨が。
そうしたら、またあの時みたいに相沢くんと一緒にいられるかもしれない。
でも、それは甘えなのかもしれなかった。
授業中も、相沢くんのことが気になって仕方なかった。
昨日の帰り道、彼は「好きな人がいる」と言った。
でも、その人には言えないとも言った。
(それって、誰のこと?)
桜井さん? それとも――
(……もし、私だったら?)
そんな期待をしてしまう自分がいる。
でも、期待して違ったら、きっと立ち直れない。
そんなことを考えていたら、あっという間に放課後になった。
窓の外を見ると、雨が降り始めていた。
最初はポツポツと小さかった雨粒が、だんだんと強くなっていく。
私は思わずカバンを探った。
――傘は、持ってきていない。
無意識のうちに、持たずに来ていた。
(どうしよう)
でも、どうしたいのかなんて、本当は分かっていた。
ただ、また一緒に帰りたかった。
相沢くんと、もう一度、傘の中にいたかった。
昇降口に向かうと、そこにはすでに相沢くんの姿があった。
彼は、自分の傘を開こうとしていた。
(このままじゃ……帰っちゃう)
気づいたら、私は駆け出していた。
「相沢くん!」
大きな声が響く。
彼は驚いたように振り返った。
「……どうした?」
「……傘、忘れちゃって」
相沢くんは、私の顔をじっと見つめた。
そして、ふっと笑う。
「またかよ」
「……うん」
なんとなく、気まずくて視線をそらす。
すると、彼は少しだけ迷った後、自分の傘を差し出した。
「入るか?」
「……うん」
私は、彼の隣に立った。
あの日と同じように、肩が触れそうな距離で。
雨の音が、静かに響く。
私たちは、しばらく無言のまま歩いた。
でも、このままじゃダメだと思った。
(言わなきゃ)
今言わなかったら、きっと一生後悔する。
そう思って、私は意を決した。
「ねえ……相沢くん」
「ん?」
「……好きな人って、誰?」
彼の歩みが、ふと止まる。
「……どうして、それ聞くんだよ」
「気になるから」
本当は、もっと違う言葉を準備していたはずなのに、うまく言葉が出てこなかった。
相沢くんは、少し考えるように視線を落とした。
「……もし、言ったらどうする?」
「……え?」
「お前が聞いたってことは……少しは期待してるってことだよな?」
――ドクン
心臓が跳ねる。
「私は……」
口がうまく動かない。
でも、今言わなきゃ。
ちゃんと、自分の気持ちを。
「私……相沢くんのこと、好き」
言った瞬間、心臓が壊れそうなくらいドキドキした。
相沢くんは、一瞬驚いたように目を見開いた。
そして、少しだけ笑った。
「……よかった」
「え?」
「俺の好きな人、高瀬だから」
頭が真っ白になる。
「え……?」
「……俺、ずっと高瀬のこと好きだった。でも、気づいてもらえないし、もしかして他に好きな人がいるのかもって思って……言えなかった」
「そんな……」
「でも、もう言うよ。高瀬が好きだ」
雨の音が、二人の間に響く。
相沢くんの言葉が、ゆっくりと胸に染み込んでいく。
気づいたら、涙がこぼれそうになっていた。
「……なんで泣くんだよ」
「だって……」
「嬉しいなら、笑えよ」
彼はそう言って、そっと私の頭を撫でた。
その手が、あたたかかった。
雨は、まだ降り続いていた。
でも、私の心の中は、ずっと晴れていた。
もう、雨に頼る必要なんてない。
だって、これからは――
どんな天気でも、私は相沢くんと一緒にいられるから。
手を伸ばすと、彼の指が優しく絡んできた。
私たちは、そのままゆっくりと歩き出した。
相合傘の下で。
