はるけき きみに  ー 彼方より -

「丹波様は・・」

 小声で話しかけられた。
 石川が紫音の側へ来ていた。

「ほんとうに操舵輪というものを作られたのですね」

 ヒゲの男は、鹿島を呼んでくると退席していた。
 その隙間を縫うように会話を進める。

「いかにも丹波様らしいご発想です。地区のために排水の装置を作られるなどと」

「そうです、あの方はいつも民のことを考えておられたのだ」
 別の青年が言った。

 紫音が彼を見る。
「・・あなたは、確か」

 役所からの用事で篠沢邸を訪れる侍が何人かいた。
 その中に彼もいたのだと思い出した。

「そうです、田中と申します」
 彼は頭をかいて、
「でもちょっとつらいな、石川のことは覚えていたのに私のことは・・」

「おい田中、お嬢さまに向かってなんという口の利き方だ」
 石川が諭して互いを見る、そしてふっと笑い合った。

「田中の他にも同志は大勢いるのです、それほど丹波様は人望がおありでしたから」
「そうです、それは時が経っても変わるものではありません」
 ほかの侍も続ける。
 
 紫音の声がつまった。
 涙が込み上げてきて、それを必死でおさえた。

 彼らは居住まいをただした。
 頭を下げて、

「紫音さま、この一年の不遇をお察しいたします」
「我われの力が及ばず、丹波様はあのような不当な扱いを受けられて・・」
「誠に申し訳なく、この通りでございます」

 ヒゲの前では言えない思いを吐露していた。


『なかには気のいい連中もいるのだよ』
 前に父が言っていた。

『役人とは民の上に立って罪を裁くこともある。だが、温情ゆえに冷徹になり切れない者がいる。職務上はどうかとも思う、しかし彼らがいてこそ民が息をつく場所が出来る、そういうことなのだ』
 と。


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