「道中、大変でございましたでしょう」
中年の女が深く頭を下げる。
「大丈夫よ八重、ほら下乃浜の徳三さんに送ってもらったから」
その徳三はどこか居心地が悪そうに頭をかく、そしてあわててお辞儀をした。
ここは武家屋敷だ、自分が暮らす漁師の苫屋とは別格の構えだった。
八重と呼ばれた女は紫音を部屋に招いた。
御几帳を下ろし手早く旅装を解く。
山越えの脚絆や手甲を取って、短くはしょっていた腰紐をほどいた。
「せめて御髪に櫛を入れましょう」
やや乱れていた黒髪を手早く直す。
「ありがとう、でもこれから行く所はあの建屋なのだから」
「そこへはたぶん鹿島・・様の配下が来ておりましょう。そのまま鹿島様のお屋敷に行くことになるのでは?」
八重が、かしま・・さまと微妙な言い方をした。
紫音はつかの間黙っていたが、
「そうかも知れない、でも長居はしないわ。挨拶をしたらすぐ下乃浜に帰るつもりよ」
八重がじっと紫音を見た。
「すぐ? すぐに鹿島の屋敷から解放されたらいいのですが」
「大丈夫よ、私はこの堺から所払いになっているんですもの。用が済んだら早々に出ていかなくちゃね」
ふふふとおかしそうに笑う。
「お嬢さま」
八重が切なそうに眉根を寄せた。
「これを亡き篠沢様がお聞きになったら、紫音様のお父上が知ったらどんなに悲しまれることか」
「それはもう言わないで。とにかく私に課せられた仕事をしなくては」
と言ってから、
「この付近もまだ水が引いていないわね。低い土地はまだ川のようになっていたわ」
ここに来るまでの道中を思い浮かべた。
「はい、この間の嵐はひどうございましたから。まだ春だというのに台風のようになって、だから備えが出来ていなかったのです」
「これだと田畑にも影響があるでしょうね。一刻も早くあの建屋に行きましょう」
紫音が上がり框で草鞋を履こうとした。
それを見た徳三が駆け寄ってくる。庭に控えていた彼はどこまでも彼女の供をするつもりだ。
それを見て八重も二人について行こうとする。
「あなたはここにいてもいいのよ」
「いえいえ、紫音さまは篠沢のご令嬢でございます。この者と二人で出かけるなど、とんでもないことでございます」
そういわれて徳三は何とも言えない顔になる。
紫音がわらった。
「それなら徳三さんと二人で山越えをした道中はいったい何だったの」
「そ、それは・・。この方には感謝しているんですよ、お嬢さまをここまで連れてきてもらって」
あわてて言い直した。
紫音が再びわらった。いや正確には二人じゃなかった、マシューとサジットと四人だったけれども。
彼らはどうしているのだろう。初めての土地、この堺でうまく立ち回れているのだろうか。
下乃浜でマシューという青年と数日を過ごした。
異国の人でありながら意外にすぐ打ち解けたのだ。
なにか不思議なものを感じる日々だった。
そのときのやり取りが、鮮やかに思い出された。
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