『玉木吉乃様。もう卒業式だね。玉木さんにお見せしたいものがあります。放課後、体育館裏で待ってます。神楽冷』
わたし、玉木吉乃、小学六年生。あだ名はたぬきち──苗字がたまきで名前が『吉』乃だから。
そんなわたしの十二年の人生で、生まれて初めて男子からもらった手紙が、まさか告白──かもしれない──の手紙だなんて。
それも卒業式の今日で。それも差出人があの子だなんて。
あの! 吸血鬼の一族だってウワサの神楽くんだなんて!
そう、だから今日なら教えてくれるかもしれない。
あの子が、わたしだけに見せてくれる、そのわけを──。
◇
一年前。六年生の四月。
神楽くんはとってもきれいだ。
ましろな肌は、図工の教科書で見た陶器のお人形さんみたいだ。
青いひとみは、夜の青さを閉じ込めたように澄んでいる。
まぶしいくらいの金髪は、ふわふわパーマでお月様のにおいがしそうなくらい。
目鼻立ちも外国のモデルさんみたいで、実際お母さんはロシア人らしい。
黒髪、茶色の瞳、ザ・日本人な細い目のわたしとは、何から何まで反対で。男の子なのにしっとしちゃうよ、まったく。
でも、気になるのは、いつもひとりぼっちでいること。
でもでも、もっと気になるのは、いつもマスクをしているということ。
◇
「ねえ、知ってる? たぬきち」
「もー、その呼び方やめてよう、彩乃ー」
「はいはい。神楽くんってさ、なんでいつもマスクしてるのか、知ってる?」
「へっ?」
気だるい水曜日、体育の後の中休み。保健室前の廊下で。わたしの気持ちなんてお構い無し。幼馴染の大沢彩乃がわたしをゆする。まったく、日にあたり過ぎてアレルギーを起こしちゃった神楽くんを、保健がかりのわたしが送ったばかりだってのに……。
……って、えっ?
一年中マスクの神楽くんが、マスクな理由だってーっ?
「知りたい知りたい!」
「じゃあたぬきちが調べてね!」
「へ、なにそれ?」
「さっき、女子の中で誰が調べるか、話題になってたんだよねえ? そんなに気になるならさ、たぬきちが調べなよ。……って、玲香が」
げっ。わたしは思わず口に出そうになる。
九条玲香。お嬢様の中のお嬢様。クラスの実質的な支配者で、刃向かえるひとなんて一人もいない。
わたしは、保健室の窓をのぞく。柔らかな金色のかみのけ。細いかた。
誰がどう見てもおんなの子にしか見えない。今は、保健の黒乃先生が、あちこち真っ赤になってしまった肌に、塗りぐすりを塗っている。くりくりしたお目目がきゅっと閉じられる。きっと、痛いんだ。
と。
がらっ。
「こらー、女子共ー! なーに覗いてんのー!」
「きゃー、黒乃先生ごめんなさいー!」
「あ、待って──」
彩乃の裏切り者ー、わたしを置いて行ってしまった。
スタイル抜群、サイドテールが眩しい黒乃先生がじろりとわたしを睨む。
「で、貴女はどしてまだそこにいるの」
「あ、いや、その」
保健がかりだから。ちっちゃな声でそう言うと、黒乃先生は保健室にまた入れてくれた。
◇
しいんとした保健室。中休みで校庭に出て遊ぶ子たちの笑い声や叫び声が遠くに聞こえる。
……。
わたしは、あちこち真っ赤に腫れた神楽くんに話し掛けることにした。というか、間が持たないよう、恥ずかしくて。
「それ、痛い?」
「うん、痛い」
静かな保健室に、バイオリンみたいな音色の声が響く。はあ。きれいな音だなあ。わたしはもっと、その演奏を聴きたくなった。
「あのさ」
「うん」
「なんで……いつもマスクなの?」
「……」
四月の空気は暖かい。まさに春うららって感じ。心なしか、彼のふんわりヘアも、歌っているようにに見える。……と、その時だった。
「見たい?」
「え?」
「玉木さんになら見せてもいいかな。ボクの、マスクの下」
「──どして」
あんまりびっくりしたんで、それしか言葉が喉を通ってくれなかった。
きーんこーんかーんこーん。ここで、チャイムがなってしまった。
「ねえ、どうしてわたしなの──」
「いこ? 三時間目が始まるよ」
結局、その時は理由を聞くことが出来なかった。
あ、でも、そっかぁ!
わたしは、良いことを思いついた。
これから、神楽くんにとっても、とっても優しくしよう。もう、わたしなしじゃ居られなくなっちゃうくらい。
そしたら教えてくれるかもしれない。
──わたしになら見せてくれる、その理由を。
「いこ、神楽くん!」
わたしは彼の手を取って、教室に向かって歩き始めた。その手は信じられないくらい、ひんやりとしていた。
◇
五月。
神楽くんはいじめられっこだ。
「オイ、神楽。なんでいつもマスクなんだよ」
「外せよー」
「取ってやるよ、辛気臭いからさ」
「臭いからさー」
おっ、あれは川口と友坂!
いつも何かにつけて神楽くんにインネンつけてぶったりけったりする、典型的ないじめっこだ。そこはもちろんわたしが駆けつける。
「こぉらー! 川口、友坂っ! やめなさいよっ」
「あ? なんだたぬきち。やんのか?」
「やんのかー?」
うっ、本当は中学生にしか見えないデカい川口なんかには関わりたくない。でも、今だけは。今だけはわたしは、神楽くんを守るスーパーガールなんだっ!
「はっはっはー、君たち、弱いものいじめは、このヒーローガールのたぬきちが許さないぞっ?」
きらーん。決まった……! どうだ、川口、ヒーローポーズまで決めたわたしにかなうはずが……。
「……」
「……」
……あれ?
「あほくさ。いくぞ、友坂」
「あほくさー」
……。
二人は何もせずに去って、あとに残るはあほみたいなポーズを決めて立ち尽くすわたしと神楽くんだけ。
「……ぷっ」
何かと思って振り返ると、神楽くんが笑っている。
「あははは、玉木さんって、面白いんだね……。あははは」
「そ、そんなに変だったかな?」
がーん。わたしはヒーローポーズのまま、がっくしと下を向いた。……でも。
「ふふふふ。ううん。嬉しいの。ありがとう、玉木さん」
女の子みたいな神楽くんは、嬉しそうに目を細めた。
よかった、嫌われたわけじゃなかったみたい。
嫌われたら、どうして見せてくれるか、わかんなくなっちゃうからね。
◇
七月。
プールの時間も、神楽くんは見学だ。
日光アレルギーだから、長袖長ズボン。サングラスまでしている。
もちろん、わたしも見学するのだ。
「なんだ、たぬきち、水着忘れたんだって?」
担任の小笠原先生はイケメンだ。だからきっと、許してくれるはずっ!
お願い、見学させてっ。
「じゃあ、教室で補習な。さんすうのプリントをやってきなさい」
がーん。そんなぁ、一緒に見学しようと思ったのにぃ……。
「先生、ボクも教室で自習でいいですか」
あれ。神楽くんが自分から先生に物言うことなんて、ほとんどなかったのに。
六年一組の教室に戻って、二人で──神楽くんはわたしの隣なのだ──さんすうのプリントをやる。
「苦手なんだ」
「苦手?」
泳げないのかな。わたしとおんなじだね、そう言おうと思っていると。
「水が苦手なの。近くにいると吐き気がするんだ」
そうなんだ。どうしてそうなんだろうって思ったけど、神楽くんなら別にそれでもいいと思えた。
「そうだ、わたしのこと、たぬきちって呼んでいいよ。玉木さんじゃなくて」
「たぬきち……?」
「ほら、わたし、苗字がたまきで名前が『吉』乃だから、だからさ、神楽くんも──」
「ううん」
神楽くんは首を振った。
「玉木さんの名前はとっても大切だから。玉木さんで、いい」
静かな静かな教室で。彼はまた幸せそうに目を細めた。
まあいっか。
嫌われたら、どうして見せてくれるか、わかんなくなっちゃうからね。
◇
八月。
夏休みも後半。
今日は神楽くんと神社で虫取りに行くのだ!
もうすぐ待ち合わせの時間。わたしは虫取りなのに、気合いの入ったワンピースで来た。
神楽くんには、可愛い子だって思われたいから。
そしたら、どうして見せてくれるのか、わかるかもしれないからね。
待ち合わせの午後二時。茹だるような暑さの中、多摩川の堤防の上で待つ。
遠くの対岸で、野球の練習をする人達の声が聞こえてくる。
神楽くんは、時間ぴったりにきた。
鳥かごを持って。
「ごめん、かごって、これしか無かったの」
ひー、笑った笑った。虫かごをって伝えたのに。でも、そんなズレたところも、神楽くんらしくて。そんな男の子が居たっていいんじゃないかって、思えるようになっていた。
「じゃあ、行こっか……って、神楽くん、自転車は?」
「……乗れないんだ」
◇
わたしはペダルを漕ぐ。後ろに神楽くんを乗っけて。汗まみれになりながら。
「暑いねー」
「そうだね」
神楽くんが笑う。
わたしも、笑う。
神楽くんはとても軽い。まるで宙に浮かんでいるかのよう。
虫かごがなくたって。自転車に乗れなくたって。
わたしは、神楽くんが。神楽くんの事が。
そうか。
わたしは今、分かった。
これが大人がよく言う、青春なんじゃないか、と。
これが。
──生きているってことなんじゃないか、と。
◇
三月。卒業式の日。
『玉木吉乃様。もう卒業式だね。玉木さんにお見せしたいものがあります。放課後、体育館裏で待ってます。神楽冷』
──きた。遂にこの日が来た。
わたしの一年がかりの計画が実を結ぶ時が来た。
今日なら、教えてくれるはず。
どうして、わたしになら教えてくれるのか。
そのマスクの下に隠したモノがなんなのか。
彼は、中庭の桜の木の下で待っていた。
「やあ。来たね。玉木さん」
「ねえ、あのさ、教えて欲しいんだけどさ──」
「うん。……その前にね」
わたしは、心臓の音が鳴り響いて止まない。早く、早く教えて──。
「見せてあげる。ボクの、マスクの下」
そう言うと、彼は右耳にかけたゴムひもを、ゆっくりと外した。
「──あ」
「はじめまして。玉木吉乃さん。レイ・カーミラです」
そのマスクの下には。
──長い犬歯が二対。上下に並んでいる。
「きみは本当にボクに優しくしてくれた。一年かけて。だから、お母さんに、会ってもらおうかなって、そう思うんだ」
わたしは怖くて動けない。
「え、え──?」
「お母さんも、きっと家族に迎えてくれる。僕たちはひとつになるんだ」
何を言っているの? 家族? ひとつ? ……え?
「それじゃあ、美味しそうなその首筋、頂くね」
口を開けた神楽くんが近付いてくる。ゆっくり、とてもゆっくりと。
「あ、あの、わたし、そうじゃなくて」
三歩、二歩、一歩──。
その時。
「きゃああああっ、バケモノよー!」
いつから見ていたのか、彩乃と玲香が校舎の影から叫んだ。
バッと神楽くんはしゃがんで口を隠した。
「ちょ、ちょっと二人とも!」
「たぬきち、早く逃げなさいな!」
「そいつに食べられちゃうよー」
心の中の秘密をバラされたくないわたしは、必死に取り繕った。
けど、全部は手遅れだった。
「やめなよ、二人とも!」
「何言ってんのよたぬきち!」
「そいつの秘密を暴くため一年間がんばって来たんでしょう!」
◇
彩乃と玲香と、喧嘩になった。
やめて、そんな事言わないで。
たしか、そんな事を言っていたような気がする。
ともかく。そして。
──神楽くんは、どこかに消えてしまった。
「神楽くん?」
初めはわからなかった。
いや、初めから分かっていなかった。
『それ』を見た時、自分がいかにバカだったか。何も分かってなかったか。
わたしは走った。
「神楽くん! 神楽くーん!」
一部始終を見ていた黒乃先生が、呟く。
「バーカ。もう遅いわよ」
◇
探さなきゃ。探さなきゃ。
神楽くんを。探さなきゃ。
きっと骨が折れる。
神楽くんはふわふわしているから。
どこに飛んで行ってしまったのか。
探さなきゃ。探さなきゃ。
わたしの恋が終わる。
わたしの青春が終わる。
その前に。その前に──。
◇
誰もいなくなった中庭に、マスクが一枚、落ちている。
『大好きでした』
そう書かれた、古びたマスクが。
わたし、玉木吉乃、小学六年生。あだ名はたぬきち──苗字がたまきで名前が『吉』乃だから。
そんなわたしの十二年の人生で、生まれて初めて男子からもらった手紙が、まさか告白──かもしれない──の手紙だなんて。
それも卒業式の今日で。それも差出人があの子だなんて。
あの! 吸血鬼の一族だってウワサの神楽くんだなんて!
そう、だから今日なら教えてくれるかもしれない。
あの子が、わたしだけに見せてくれる、そのわけを──。
◇
一年前。六年生の四月。
神楽くんはとってもきれいだ。
ましろな肌は、図工の教科書で見た陶器のお人形さんみたいだ。
青いひとみは、夜の青さを閉じ込めたように澄んでいる。
まぶしいくらいの金髪は、ふわふわパーマでお月様のにおいがしそうなくらい。
目鼻立ちも外国のモデルさんみたいで、実際お母さんはロシア人らしい。
黒髪、茶色の瞳、ザ・日本人な細い目のわたしとは、何から何まで反対で。男の子なのにしっとしちゃうよ、まったく。
でも、気になるのは、いつもひとりぼっちでいること。
でもでも、もっと気になるのは、いつもマスクをしているということ。
◇
「ねえ、知ってる? たぬきち」
「もー、その呼び方やめてよう、彩乃ー」
「はいはい。神楽くんってさ、なんでいつもマスクしてるのか、知ってる?」
「へっ?」
気だるい水曜日、体育の後の中休み。保健室前の廊下で。わたしの気持ちなんてお構い無し。幼馴染の大沢彩乃がわたしをゆする。まったく、日にあたり過ぎてアレルギーを起こしちゃった神楽くんを、保健がかりのわたしが送ったばかりだってのに……。
……って、えっ?
一年中マスクの神楽くんが、マスクな理由だってーっ?
「知りたい知りたい!」
「じゃあたぬきちが調べてね!」
「へ、なにそれ?」
「さっき、女子の中で誰が調べるか、話題になってたんだよねえ? そんなに気になるならさ、たぬきちが調べなよ。……って、玲香が」
げっ。わたしは思わず口に出そうになる。
九条玲香。お嬢様の中のお嬢様。クラスの実質的な支配者で、刃向かえるひとなんて一人もいない。
わたしは、保健室の窓をのぞく。柔らかな金色のかみのけ。細いかた。
誰がどう見てもおんなの子にしか見えない。今は、保健の黒乃先生が、あちこち真っ赤になってしまった肌に、塗りぐすりを塗っている。くりくりしたお目目がきゅっと閉じられる。きっと、痛いんだ。
と。
がらっ。
「こらー、女子共ー! なーに覗いてんのー!」
「きゃー、黒乃先生ごめんなさいー!」
「あ、待って──」
彩乃の裏切り者ー、わたしを置いて行ってしまった。
スタイル抜群、サイドテールが眩しい黒乃先生がじろりとわたしを睨む。
「で、貴女はどしてまだそこにいるの」
「あ、いや、その」
保健がかりだから。ちっちゃな声でそう言うと、黒乃先生は保健室にまた入れてくれた。
◇
しいんとした保健室。中休みで校庭に出て遊ぶ子たちの笑い声や叫び声が遠くに聞こえる。
……。
わたしは、あちこち真っ赤に腫れた神楽くんに話し掛けることにした。というか、間が持たないよう、恥ずかしくて。
「それ、痛い?」
「うん、痛い」
静かな保健室に、バイオリンみたいな音色の声が響く。はあ。きれいな音だなあ。わたしはもっと、その演奏を聴きたくなった。
「あのさ」
「うん」
「なんで……いつもマスクなの?」
「……」
四月の空気は暖かい。まさに春うららって感じ。心なしか、彼のふんわりヘアも、歌っているようにに見える。……と、その時だった。
「見たい?」
「え?」
「玉木さんになら見せてもいいかな。ボクの、マスクの下」
「──どして」
あんまりびっくりしたんで、それしか言葉が喉を通ってくれなかった。
きーんこーんかーんこーん。ここで、チャイムがなってしまった。
「ねえ、どうしてわたしなの──」
「いこ? 三時間目が始まるよ」
結局、その時は理由を聞くことが出来なかった。
あ、でも、そっかぁ!
わたしは、良いことを思いついた。
これから、神楽くんにとっても、とっても優しくしよう。もう、わたしなしじゃ居られなくなっちゃうくらい。
そしたら教えてくれるかもしれない。
──わたしになら見せてくれる、その理由を。
「いこ、神楽くん!」
わたしは彼の手を取って、教室に向かって歩き始めた。その手は信じられないくらい、ひんやりとしていた。
◇
五月。
神楽くんはいじめられっこだ。
「オイ、神楽。なんでいつもマスクなんだよ」
「外せよー」
「取ってやるよ、辛気臭いからさ」
「臭いからさー」
おっ、あれは川口と友坂!
いつも何かにつけて神楽くんにインネンつけてぶったりけったりする、典型的ないじめっこだ。そこはもちろんわたしが駆けつける。
「こぉらー! 川口、友坂っ! やめなさいよっ」
「あ? なんだたぬきち。やんのか?」
「やんのかー?」
うっ、本当は中学生にしか見えないデカい川口なんかには関わりたくない。でも、今だけは。今だけはわたしは、神楽くんを守るスーパーガールなんだっ!
「はっはっはー、君たち、弱いものいじめは、このヒーローガールのたぬきちが許さないぞっ?」
きらーん。決まった……! どうだ、川口、ヒーローポーズまで決めたわたしにかなうはずが……。
「……」
「……」
……あれ?
「あほくさ。いくぞ、友坂」
「あほくさー」
……。
二人は何もせずに去って、あとに残るはあほみたいなポーズを決めて立ち尽くすわたしと神楽くんだけ。
「……ぷっ」
何かと思って振り返ると、神楽くんが笑っている。
「あははは、玉木さんって、面白いんだね……。あははは」
「そ、そんなに変だったかな?」
がーん。わたしはヒーローポーズのまま、がっくしと下を向いた。……でも。
「ふふふふ。ううん。嬉しいの。ありがとう、玉木さん」
女の子みたいな神楽くんは、嬉しそうに目を細めた。
よかった、嫌われたわけじゃなかったみたい。
嫌われたら、どうして見せてくれるか、わかんなくなっちゃうからね。
◇
七月。
プールの時間も、神楽くんは見学だ。
日光アレルギーだから、長袖長ズボン。サングラスまでしている。
もちろん、わたしも見学するのだ。
「なんだ、たぬきち、水着忘れたんだって?」
担任の小笠原先生はイケメンだ。だからきっと、許してくれるはずっ!
お願い、見学させてっ。
「じゃあ、教室で補習な。さんすうのプリントをやってきなさい」
がーん。そんなぁ、一緒に見学しようと思ったのにぃ……。
「先生、ボクも教室で自習でいいですか」
あれ。神楽くんが自分から先生に物言うことなんて、ほとんどなかったのに。
六年一組の教室に戻って、二人で──神楽くんはわたしの隣なのだ──さんすうのプリントをやる。
「苦手なんだ」
「苦手?」
泳げないのかな。わたしとおんなじだね、そう言おうと思っていると。
「水が苦手なの。近くにいると吐き気がするんだ」
そうなんだ。どうしてそうなんだろうって思ったけど、神楽くんなら別にそれでもいいと思えた。
「そうだ、わたしのこと、たぬきちって呼んでいいよ。玉木さんじゃなくて」
「たぬきち……?」
「ほら、わたし、苗字がたまきで名前が『吉』乃だから、だからさ、神楽くんも──」
「ううん」
神楽くんは首を振った。
「玉木さんの名前はとっても大切だから。玉木さんで、いい」
静かな静かな教室で。彼はまた幸せそうに目を細めた。
まあいっか。
嫌われたら、どうして見せてくれるか、わかんなくなっちゃうからね。
◇
八月。
夏休みも後半。
今日は神楽くんと神社で虫取りに行くのだ!
もうすぐ待ち合わせの時間。わたしは虫取りなのに、気合いの入ったワンピースで来た。
神楽くんには、可愛い子だって思われたいから。
そしたら、どうして見せてくれるのか、わかるかもしれないからね。
待ち合わせの午後二時。茹だるような暑さの中、多摩川の堤防の上で待つ。
遠くの対岸で、野球の練習をする人達の声が聞こえてくる。
神楽くんは、時間ぴったりにきた。
鳥かごを持って。
「ごめん、かごって、これしか無かったの」
ひー、笑った笑った。虫かごをって伝えたのに。でも、そんなズレたところも、神楽くんらしくて。そんな男の子が居たっていいんじゃないかって、思えるようになっていた。
「じゃあ、行こっか……って、神楽くん、自転車は?」
「……乗れないんだ」
◇
わたしはペダルを漕ぐ。後ろに神楽くんを乗っけて。汗まみれになりながら。
「暑いねー」
「そうだね」
神楽くんが笑う。
わたしも、笑う。
神楽くんはとても軽い。まるで宙に浮かんでいるかのよう。
虫かごがなくたって。自転車に乗れなくたって。
わたしは、神楽くんが。神楽くんの事が。
そうか。
わたしは今、分かった。
これが大人がよく言う、青春なんじゃないか、と。
これが。
──生きているってことなんじゃないか、と。
◇
三月。卒業式の日。
『玉木吉乃様。もう卒業式だね。玉木さんにお見せしたいものがあります。放課後、体育館裏で待ってます。神楽冷』
──きた。遂にこの日が来た。
わたしの一年がかりの計画が実を結ぶ時が来た。
今日なら、教えてくれるはず。
どうして、わたしになら教えてくれるのか。
そのマスクの下に隠したモノがなんなのか。
彼は、中庭の桜の木の下で待っていた。
「やあ。来たね。玉木さん」
「ねえ、あのさ、教えて欲しいんだけどさ──」
「うん。……その前にね」
わたしは、心臓の音が鳴り響いて止まない。早く、早く教えて──。
「見せてあげる。ボクの、マスクの下」
そう言うと、彼は右耳にかけたゴムひもを、ゆっくりと外した。
「──あ」
「はじめまして。玉木吉乃さん。レイ・カーミラです」
そのマスクの下には。
──長い犬歯が二対。上下に並んでいる。
「きみは本当にボクに優しくしてくれた。一年かけて。だから、お母さんに、会ってもらおうかなって、そう思うんだ」
わたしは怖くて動けない。
「え、え──?」
「お母さんも、きっと家族に迎えてくれる。僕たちはひとつになるんだ」
何を言っているの? 家族? ひとつ? ……え?
「それじゃあ、美味しそうなその首筋、頂くね」
口を開けた神楽くんが近付いてくる。ゆっくり、とてもゆっくりと。
「あ、あの、わたし、そうじゃなくて」
三歩、二歩、一歩──。
その時。
「きゃああああっ、バケモノよー!」
いつから見ていたのか、彩乃と玲香が校舎の影から叫んだ。
バッと神楽くんはしゃがんで口を隠した。
「ちょ、ちょっと二人とも!」
「たぬきち、早く逃げなさいな!」
「そいつに食べられちゃうよー」
心の中の秘密をバラされたくないわたしは、必死に取り繕った。
けど、全部は手遅れだった。
「やめなよ、二人とも!」
「何言ってんのよたぬきち!」
「そいつの秘密を暴くため一年間がんばって来たんでしょう!」
◇
彩乃と玲香と、喧嘩になった。
やめて、そんな事言わないで。
たしか、そんな事を言っていたような気がする。
ともかく。そして。
──神楽くんは、どこかに消えてしまった。
「神楽くん?」
初めはわからなかった。
いや、初めから分かっていなかった。
『それ』を見た時、自分がいかにバカだったか。何も分かってなかったか。
わたしは走った。
「神楽くん! 神楽くーん!」
一部始終を見ていた黒乃先生が、呟く。
「バーカ。もう遅いわよ」
◇
探さなきゃ。探さなきゃ。
神楽くんを。探さなきゃ。
きっと骨が折れる。
神楽くんはふわふわしているから。
どこに飛んで行ってしまったのか。
探さなきゃ。探さなきゃ。
わたしの恋が終わる。
わたしの青春が終わる。
その前に。その前に──。
◇
誰もいなくなった中庭に、マスクが一枚、落ちている。
『大好きでした』
そう書かれた、古びたマスクが。

