「坊っちゃん、多恵です。お元気そうで安心いたしました」
『うん、元気だよ。そっちは楽しそうだね。僕も混ぜてほしいくらいだ。東京はすっかり猛暑でね。ホント参ってるよ』
「愛美ですけど。純也さん、こっちにはいつごろ来られそうですか? 夏休みの初日にメッセージ送ったのに、既読スルーされちゃってるから」
愛美はちょっと口を尖らせて彼に訊ねた。まだ付き合ってもいないのに(と、愛美本人は思っている)、これじゃ彼氏に知らん顔されている彼女みたいだ。
『あー、ゴメン! 仕事に忙殺されてて、ついうっかり返信するの忘れてたんだ。明日から休暇を取ったから、明日の……そうだな、午後にはそっちに着くと思う。ドライブがてら、車で行くから』
「分かりました。坊っちゃん、こちらではゆっくりおできになるんですか?」とは、多恵さんの言葉。
『さあ、どうだろう? それはそっちに着き次第かな。でも、愛美ちゃんもいるならすぐに東京に帰っちゃうのはもったいないな』
つまり、純也さんはできるだけ長い時間を愛美と一緒に過ごしたいということだろうか。
「……そんな、もったいないお言葉です。じゃあ明日、お待ちしてますね。失礼しまーす」
愛美は通話終了のボタンを押した後も、ドキドキしていた。
(明日、純也さんがこの家に来る……)
* * * *
パン作りが終わってから、千藤家は愛美も含めて総動員で家の大掃除をして、翌日の何時ごろに純也さんが来ても大丈夫な状態になった。
そして翌日の午後二時ごろ。準備万端整った千藤家の前に、一台の車が停まった。国産のシルバーのSRV車。
その運転席から颯爽と降りてきたのは――。
「やあ、愛美ちゃん!」
「純也さん! いらっしゃい!」
笑顔で片手を挙げた大好きな男性を、玄関先で待っていた愛美も満面の笑みで迎えた。
純也さんは大きなスーツケースと、これまた重そうなボストンバッグを持っている。愛美の荷物ほどではないにしても、男性にしては荷物が多い気がするけれど……。
「愛美ちゃん、悪いんだけど車のトランク開けてもらっていいかな? 今ロックを外すから」
「えっ? ……ああ、はい」
愛美は戸惑いながらも、彼のお願いを聞いた。
(……もしかして、まだ荷物が?)
愛美がトランクを開けると、そこには信じられないものが積まれていた。
「これって……、バイク?」
「そうだよ。もう一台の僕の愛車。――愛美ちゃん、ありがとう。あと降ろすのは自分でやるから」
純也さんが車から降ろしたのは、ライトグリーンの中型のオフロードバイク。
愛美はバイクのことはまったく分からないけれど、純也さんの話では二五〇ccサイズらしい。
「これで、愛美ちゃんを後ろに乗せて山道とか走れたら楽しいだろうな……と思って積んできたんだ。……あ、ちなみに僕、大型二輪の免許持ってるから」
「へえ……、スゴいですね。なんかカッコいいなぁ」
愛美はそう言いながら、頬を染めた。思わず、バイクの後部座席で彼の背中にしがみついている自分の姿を想像してしまったのだ。
「――あらあら! 純也坊っちゃん、いらっしゃいまし! まあまあ、こんなにご立派になられて……」
そこへ、多恵さんも飛んできた。家の中で家事でもしていたのか、エプロンを着けたままだ。
「多恵さんも、元気そうだね。急な頼みをしてすまないね。僕の部屋は空いてるかな?」
「はい、もちろんでございます! いつ坊っちゃんがいらっしゃってもいいように、ずっとそのままにしてございますよ。さあさ、坊っちゃん! お上がり下さいまし!」
多恵さんはもみ手しながら、純也さんを家の中へと促した。
「……どうでもいいけど。多恵さん、僕のことを『坊っちゃん』って呼ぶの、いい加減やめてくれないかな? もう三十なんだけど」
純也さんは困惑気味に、多恵さんに物申していた。
いくら相手が元家政婦さんでも、アラサーの男性が「坊っちゃん」呼ばわりされるのは恥ずかしいんだろう。
「何をおっしゃいます! 私と夫にとっては、坊っちゃんはいつまでも坊っちゃんのままですよ。ええ、私はやめませんよ! いくら坊っちゃんのお願いでも」
「……ダメだこりゃ」
やめるどころか、多恵さんの「坊っちゃん」呼びは余計にひどくなっている。もう意地なのかもしれない。
「多恵さんはきっと、いくつになっても純也さんが可愛くて仕方ないんですね。ほら、お子さんいらっしゃらないでしょ? だから純也さんのこと、自分の息子さんみたいに思ってるんですよ」
「はあ。そんなモンかね」
愛美の意見に、純也さんは困ったように肩をすくめてみせた。
善三さんと多恵さんの夫婦に子供がいないことは、愛美も去年の夏休みに聞いていた。それも、本人から聞くのは忍びなくて、佳織さんから聞き出したのだ。――多恵さんは昔、病気によって子供ができない体になってしまったんだ、と。
だから余計に、昔自分がお世話をしていた、我が子くらいの年頃の純也さんのことを今でも息子のように思っているんだろう。
「純也さん、暑かったでしょ? お部屋に上がる前に、ダイニングで冷たいものでもどうですか? っていっても麦茶しかないですけど」
「悪いね、愛美ちゃん。ありがとう。じゃあもらおうかな」
「はい!」
――愛美はキッチンへ行くと、お客様用のグラスによく冷えた麦茶を注ぎ、「どうぞ」と言ってダイニングの椅子に座っている純也さんの前にそっと置いた。
「ありがとう。いただくよ」
「坊っちゃん、よかったらお菓子でも召し上がります? 確か戸棚に、頂きもののお饅頭が――」
彼がお茶を飲み始めた途端、またもや多恵さんがもみ手しながら純也さんにすり寄ってきた。
すかさず、純也さんが眉をひそめる。
『うん、元気だよ。そっちは楽しそうだね。僕も混ぜてほしいくらいだ。東京はすっかり猛暑でね。ホント参ってるよ』
「愛美ですけど。純也さん、こっちにはいつごろ来られそうですか? 夏休みの初日にメッセージ送ったのに、既読スルーされちゃってるから」
愛美はちょっと口を尖らせて彼に訊ねた。まだ付き合ってもいないのに(と、愛美本人は思っている)、これじゃ彼氏に知らん顔されている彼女みたいだ。
『あー、ゴメン! 仕事に忙殺されてて、ついうっかり返信するの忘れてたんだ。明日から休暇を取ったから、明日の……そうだな、午後にはそっちに着くと思う。ドライブがてら、車で行くから』
「分かりました。坊っちゃん、こちらではゆっくりおできになるんですか?」とは、多恵さんの言葉。
『さあ、どうだろう? それはそっちに着き次第かな。でも、愛美ちゃんもいるならすぐに東京に帰っちゃうのはもったいないな』
つまり、純也さんはできるだけ長い時間を愛美と一緒に過ごしたいということだろうか。
「……そんな、もったいないお言葉です。じゃあ明日、お待ちしてますね。失礼しまーす」
愛美は通話終了のボタンを押した後も、ドキドキしていた。
(明日、純也さんがこの家に来る……)
* * * *
パン作りが終わってから、千藤家は愛美も含めて総動員で家の大掃除をして、翌日の何時ごろに純也さんが来ても大丈夫な状態になった。
そして翌日の午後二時ごろ。準備万端整った千藤家の前に、一台の車が停まった。国産のシルバーのSRV車。
その運転席から颯爽と降りてきたのは――。
「やあ、愛美ちゃん!」
「純也さん! いらっしゃい!」
笑顔で片手を挙げた大好きな男性を、玄関先で待っていた愛美も満面の笑みで迎えた。
純也さんは大きなスーツケースと、これまた重そうなボストンバッグを持っている。愛美の荷物ほどではないにしても、男性にしては荷物が多い気がするけれど……。
「愛美ちゃん、悪いんだけど車のトランク開けてもらっていいかな? 今ロックを外すから」
「えっ? ……ああ、はい」
愛美は戸惑いながらも、彼のお願いを聞いた。
(……もしかして、まだ荷物が?)
愛美がトランクを開けると、そこには信じられないものが積まれていた。
「これって……、バイク?」
「そうだよ。もう一台の僕の愛車。――愛美ちゃん、ありがとう。あと降ろすのは自分でやるから」
純也さんが車から降ろしたのは、ライトグリーンの中型のオフロードバイク。
愛美はバイクのことはまったく分からないけれど、純也さんの話では二五〇ccサイズらしい。
「これで、愛美ちゃんを後ろに乗せて山道とか走れたら楽しいだろうな……と思って積んできたんだ。……あ、ちなみに僕、大型二輪の免許持ってるから」
「へえ……、スゴいですね。なんかカッコいいなぁ」
愛美はそう言いながら、頬を染めた。思わず、バイクの後部座席で彼の背中にしがみついている自分の姿を想像してしまったのだ。
「――あらあら! 純也坊っちゃん、いらっしゃいまし! まあまあ、こんなにご立派になられて……」
そこへ、多恵さんも飛んできた。家の中で家事でもしていたのか、エプロンを着けたままだ。
「多恵さんも、元気そうだね。急な頼みをしてすまないね。僕の部屋は空いてるかな?」
「はい、もちろんでございます! いつ坊っちゃんがいらっしゃってもいいように、ずっとそのままにしてございますよ。さあさ、坊っちゃん! お上がり下さいまし!」
多恵さんはもみ手しながら、純也さんを家の中へと促した。
「……どうでもいいけど。多恵さん、僕のことを『坊っちゃん』って呼ぶの、いい加減やめてくれないかな? もう三十なんだけど」
純也さんは困惑気味に、多恵さんに物申していた。
いくら相手が元家政婦さんでも、アラサーの男性が「坊っちゃん」呼ばわりされるのは恥ずかしいんだろう。
「何をおっしゃいます! 私と夫にとっては、坊っちゃんはいつまでも坊っちゃんのままですよ。ええ、私はやめませんよ! いくら坊っちゃんのお願いでも」
「……ダメだこりゃ」
やめるどころか、多恵さんの「坊っちゃん」呼びは余計にひどくなっている。もう意地なのかもしれない。
「多恵さんはきっと、いくつになっても純也さんが可愛くて仕方ないんですね。ほら、お子さんいらっしゃらないでしょ? だから純也さんのこと、自分の息子さんみたいに思ってるんですよ」
「はあ。そんなモンかね」
愛美の意見に、純也さんは困ったように肩をすくめてみせた。
善三さんと多恵さんの夫婦に子供がいないことは、愛美も去年の夏休みに聞いていた。それも、本人から聞くのは忍びなくて、佳織さんから聞き出したのだ。――多恵さんは昔、病気によって子供ができない体になってしまったんだ、と。
だから余計に、昔自分がお世話をしていた、我が子くらいの年頃の純也さんのことを今でも息子のように思っているんだろう。
「純也さん、暑かったでしょ? お部屋に上がる前に、ダイニングで冷たいものでもどうですか? っていっても麦茶しかないですけど」
「悪いね、愛美ちゃん。ありがとう。じゃあもらおうかな」
「はい!」
――愛美はキッチンへ行くと、お客様用のグラスによく冷えた麦茶を注ぎ、「どうぞ」と言ってダイニングの椅子に座っている純也さんの前にそっと置いた。
「ありがとう。いただくよ」
「坊っちゃん、よかったらお菓子でも召し上がります? 確か戸棚に、頂きもののお饅頭が――」
彼がお茶を飲み始めた途端、またもや多恵さんがもみ手しながら純也さんにすり寄ってきた。
すかさず、純也さんが眉をひそめる。



