ウトウトとしたまどろみの中、手にしたスマホを落としそうになって目が覚めた。
電車の中だった。
高校生になってから始めた詩吟部は週三回の活動ではあるが、発声練習から始まり、腹式呼吸をマスターするためのトレーニングメニューは、想像していたよりきつくて、帰るころにはへとへとだった。
いつの間にか眠ってしまったらしい。
どこまで帰ってきただろうかと、座ったまま体をひねり、窓の外を見やった。
すでに日は落ちて辺りは暗闇に溶け込んでいる。
ふと奇妙な既視感に見舞われた。
どこかで見たことがある風景。
田舎であるからさして代わり映えのしない田園の中を走っているのだが、いつもと違う路線を通っているような気もするのだった。
そうか。この辺りはちょっと前までは繋がっていた路線だ。
大災害に遭って途中の区間が走行できなくなり、いまだ開通していないはずだったのだが……。
再開したんだっけ?
そんな話しは聞かないんだけど。
いつも利用している駅からはさらにバスを乗り継いで帰宅しなけらばならなかったが、開通したのであれば、最寄り駅からは徒歩で帰れる距離だった。
スマホで情報を得ようとアプリを立ち上げるが、接続状況が悪いらしくネットに繋がらない。
このあたりは携帯基地局も被害に遭ってまだ回復していないのだろうか。
何度かトライしているうちに電車が止まってドアが開いた。
そこから見えたのは『きさらぎ』と書かれた駅名の看板だった。
これって――。
ネットの書き込みに端を発した都市伝説の異界駅名ではないか。
誰かがイタズラ書きをしたのだろうか。
それとも映画かなにかの撮影で使っているのか。
興味本位に駅へと降り立った。
思いがけず古びた駅名標だった。ホームに一つだけある明かりに照らされている。前後の駅名も書かれていない。
作り物といったら作り物っぽくもあるが、こんな場面に遭遇することなどまずないからとりあえず写真を撮っておいた。
自撮りでもおさめておきたいとアングルを探っていると、何の前触れもなく電車のドアが閉まった。
「え? ちょっと。待って、乗ります!」
トレーニングで鍛えた声を張り上げて電車に走り寄り、ドアを叩く。
きょろきょろと車掌を探しているうちに静かに電車は走り出した。
どうにかしなくてはと短いホームの端まで併走したが、なすすべもなく、電車はいってしまった。
電車の明かりが遠く消えていく。
次に電車が来るのはいつだったか。
終電にはまだ早いはずだが、田舎とあって、一時間は待つことになるだろう。
駅員もいないホームでひたすら待つのは恐怖さえ抱く。
だいたい、ここはどこだろうかと周りを見渡す。
線路の向こう側は背丈ぐらいにまで高くなった雑草でほかには何も見えない。
小屋のような無人駅にも明かりさえなく、その裏側は雑木林になっていて、妖しく風に揺れる音が聞こえるだけだ。
ほんの数分前までは見知ったつもりでいたけど、取り残されてみれば、まったく見覚えがない駅だった。
改札口もなにもない駅舎に立ち入る。
背もたれが欠けたベンチと、使えるのかわからない石油ストーブがあるだけで、時刻表もなかった。
どうしよう。
ネットも電話も通じない。誰とも連絡を取りようがなかった。
どこかで電話を借りようか。駅があるのだから、人家はあるはずだ。
駅舎からひと筋の道が伸びていた。その先に街灯がぽつんと立っている。
どうせ一時間は次の電車は来ない。あの明かりまで歩いてそこから先がどうなっているか、それを確かめてから次の行動を取ってもいいだろう。
道なりに歩き出した。
降り立った駅が無人とはいえ、本当になにもないところだった。
葉が揺れるたび、暗がりの隙間から何者かが出てきそうな気配を感じてしまう。
自然と足が速くなる。何度も駅を振り返ってはそこにまだ見えていることを確認した。
街灯まで近づくと、緩くカーブした先に、また街灯が立っていた。
もう少し先まで行ってみよう。
そうやって街灯を頼りに進んでいくと、木立の陰から急に家の明かりが見えた。
近づけば家中の明かりがついているのではないかというほど明るい。
カーテンも閉まっていないのは、ほとんど通りかかる人もいないからなのか。
そういえば、父の田舎の家もそんなかんじだったと思い出した。
門には表札もインターフォンもなかった。
飛石をたどって玄関まで行く。
磨りガラスから中の明かりが漏れていて、外まで充分に明るい。
やはり、玄関にも呼び鈴のようなものはなかった。
思い切って扉を叩いてみる。
「すみません!」
大きな声で呼びかけるも、中からはなにも聞こえない。テレビの音も、話し声も、物音ひとつ聞こえない。人の気配がまったくなかった。
防犯のために明かりがついているだけだろうか。
少し戻って中庭越しに掃き出し窓をのぞく。
広い畳の部屋にお膳が四組ほど用意されていた。
小さなテーブルのような台の上に、お椀や皿がのっており、湯気が立っているように見える。
料理が用意されたばかりだとするなら、誰かがいるはずなのだが……。
「あの……」
突然後ろから声をかけられて飛び上がるほど驚いた。
振り返ると自分よりも年上に見える女性が立っていた。レモンイエローのシャツに紺のパンツ。革製のトートバッグを肩に提げて、持ち手を両手でギュッと握りしめている。
仕事帰りだろうか。
不審そうにこちらを見ている彼女に頭を下げた。
「すみません、勝手に。あの、わたし、電話をお借りしたくて」
どうにか伝えると、女性は「いやいや」と顔の前で手を振った。
「わたしも、ここの住人じゃないから」
「そうなんですか」
「なんか、電車がへんなところに着いちゃって」
「わたしもです!」
安堵から思わず大きな声を上げていた。
巻き込まれたのが自分だけでないのなら、心強い。
「そうなんだ。電柱にも街灯にもどこにも住所が書いてないし、まったく覚えのない場所なんだけど、ここがどこか知ってる?」
「わからないです。携帯も通じなくて」
話しを聞けば、ほとんど自分と同じような状況でここへたどり着いたようだった。
彼女が乗ってきた鉄道と行き先の駅名は聞いたことがなく、遠い他県のローカル線だというので、にわかに信じがたかったが、彼女にしてみても、同様のことを感じたかもしれなかった。
「それにしたって、誰もいないのは不思議だね。料理を作っている人くらいはいそうだし、そもそも誰もいないのに温かい料理を用意するっておかしいよね」
彼女はずかずかと中庭に入り込んでいった。
その大胆さにわたしはついていけず、その場にとどまることしかできなかった。
彼女は縁先に膝をつき、窓を開けた。
「ごめんください」
静寂しかない室内からはなんの反応もない。やはり、誰もいないようだった。
そのとき、砂利を踏む音が聞こえて振り返った。
リュックを肩にかけた大学生くらいの男性がこちらへ向かって歩いてきている。
わたしは今度こそ住人だと思って慌てて頭を下げた。
「すみません。勝手に入り込んでしまって」
「あ、違います。なんか、迷っちゃって」
どういうことなのか、彼も見覚えのない土地にやってきて、ここへたどり着いたというのだった。
そしてひとけのない家屋に興味を示し、彼もまた無断で庭に立ち入る。
あの駅名に惹かれて降り立つような人は、こういう状況を面白がるくらいの人間性なのかもしれない。
他人の家だということが気にかかっていたが、ふたりがそちら側に行くのなら、自分もそうしなければいけないような気がして、わたしもその男性について庭の中へ入っていった。
「へぇ。これって、マヨイガじゃないですかね?」
男性は部屋を見渡すとそういった。
「マヨイガ?」
なんのことかわからなかったが、聞き返した女性の方も知らない言葉のようだった。
「遠野物語って知りません? 岩手県遠野市の民間信仰とか伝承とか、そんな古い話をまとめた物語に、マヨイガってのがあって。誰もいない家なんだけど、ほっかほかの食事が用意されていたり、火鉢の上に置いてある茶瓶がぶんぶん沸いてたり。さっきまで人がいたみたいな家なんだけど、探しても誰もいないっていう」
男性がそう説明すると女性はあいまいにうなずいた。
「まぁ、まさにそういう状況だけど」
「マヨイガには滅多に来られるものじゃなくて、そこから漆塗りのお椀を持ち帰ると幸せになるって言い伝えがあるらしい」
「へぇ。今ならそんな話しも信じられるかも」
女性は俄然興味を持ち始めた。
「でしょ? 俺、思ったんですけど、お椀を持って帰るなら、お椀に入ってる汁物を捨てるわけにもいかないし、食べていくのが正解だと思うんですよね」
「そうよね。きっと、わたしたちのような客がやってくるとわかって、用意してくれてるんだと思うわ」
到底納得できるような理由ではなかったが、ふたりは意気揚々と縁側から座敷に上がり込んだ。
お膳の前に座ると、「いただきます」といって、勝手に料理を食べ始めてしまったのである。
女性はお椀を手にしながら「あなたも食べたら?」と声をかけてきたが、わたしは「いいです」と断ってその場を離れた。
あのふたりが、ちょっとこわかった。
いくらなんでも、勝手に上がり込んで食べられない。
仕方なく駅に戻って電車を待つことにした。
戻ってくるとちょうど電車が入ってくるところだった。ドアが開くなり飛び乗る。一刻も早くここから出たかった。
すると、隣のドアから誰かが降りるのが見えた。
中学生くらいの女の子だ。
彼女はこちらに気づかず、あの『きさらぎ』と書かれた駅名標に夢中だった。わたしと同じようにスマホで撮影している。
呼んだ方がいいだろうか。
でも――。
自分と入れ替わりでこの異界へやってきたように思えて、声をかけることができなかった。
彼女だって引き返したらまた電車に乗れるはず――そう思い込ませてわたしはシートに腰掛けた。
やがて音もなくドアが閉まり、電車が走り出す。
女の子が何か叫ぶ声が聞こえたが、わたしは両手で耳をふさいでうずくまるだけだった。
「もしもし……」
ふさいだ手をすり抜けて呼びかける声が耳に届いた。
――だれ?
じっとしていたら、伏せた視線の先にカーテンのように揺れるスカートが現れた。
――わたし以外にも乗客が?
「あなた、食べなかったのね」
見上げると髪の長い女性が立ってた。
グレーのワンピースを着ていて、まさに影が薄いってこういうことじゃないかと思うほどに、寂しそうな顔をしていた。
「どうして知ってるんですか」
「よもつへぐいの匂いがしたの」
「よもつへぐい?」
「あの世の食べ物のことよ。それを口にするとこの世には戻ってこられないの」
女性はそれだけをいうと去って行った。
「あの……」
立ち止まる様子もなく、隣の車両に移る。
帰れるのか聞こうと追いかけようとしたが、とどまった。
彼女が、すぅっと消えたような気がしたから。
そうしているうちに電車は減速し、駅に止まった。
ハッと顔を上げるといつもの駅だった。
アナウンスが流れ、先ほどまでだれもいないと思っていたのに乗り降りしている人たちがいる。
――夢だった、とか?
みょうにリアルだった。
夢だとしても――
その淵に迷い込み、試され、戻ってくることができたとするなら――
間違った行動を取らなくてよかったと、胸をなで下ろしたのだった。
電車の中だった。
高校生になってから始めた詩吟部は週三回の活動ではあるが、発声練習から始まり、腹式呼吸をマスターするためのトレーニングメニューは、想像していたよりきつくて、帰るころにはへとへとだった。
いつの間にか眠ってしまったらしい。
どこまで帰ってきただろうかと、座ったまま体をひねり、窓の外を見やった。
すでに日は落ちて辺りは暗闇に溶け込んでいる。
ふと奇妙な既視感に見舞われた。
どこかで見たことがある風景。
田舎であるからさして代わり映えのしない田園の中を走っているのだが、いつもと違う路線を通っているような気もするのだった。
そうか。この辺りはちょっと前までは繋がっていた路線だ。
大災害に遭って途中の区間が走行できなくなり、いまだ開通していないはずだったのだが……。
再開したんだっけ?
そんな話しは聞かないんだけど。
いつも利用している駅からはさらにバスを乗り継いで帰宅しなけらばならなかったが、開通したのであれば、最寄り駅からは徒歩で帰れる距離だった。
スマホで情報を得ようとアプリを立ち上げるが、接続状況が悪いらしくネットに繋がらない。
このあたりは携帯基地局も被害に遭ってまだ回復していないのだろうか。
何度かトライしているうちに電車が止まってドアが開いた。
そこから見えたのは『きさらぎ』と書かれた駅名の看板だった。
これって――。
ネットの書き込みに端を発した都市伝説の異界駅名ではないか。
誰かがイタズラ書きをしたのだろうか。
それとも映画かなにかの撮影で使っているのか。
興味本位に駅へと降り立った。
思いがけず古びた駅名標だった。ホームに一つだけある明かりに照らされている。前後の駅名も書かれていない。
作り物といったら作り物っぽくもあるが、こんな場面に遭遇することなどまずないからとりあえず写真を撮っておいた。
自撮りでもおさめておきたいとアングルを探っていると、何の前触れもなく電車のドアが閉まった。
「え? ちょっと。待って、乗ります!」
トレーニングで鍛えた声を張り上げて電車に走り寄り、ドアを叩く。
きょろきょろと車掌を探しているうちに静かに電車は走り出した。
どうにかしなくてはと短いホームの端まで併走したが、なすすべもなく、電車はいってしまった。
電車の明かりが遠く消えていく。
次に電車が来るのはいつだったか。
終電にはまだ早いはずだが、田舎とあって、一時間は待つことになるだろう。
駅員もいないホームでひたすら待つのは恐怖さえ抱く。
だいたい、ここはどこだろうかと周りを見渡す。
線路の向こう側は背丈ぐらいにまで高くなった雑草でほかには何も見えない。
小屋のような無人駅にも明かりさえなく、その裏側は雑木林になっていて、妖しく風に揺れる音が聞こえるだけだ。
ほんの数分前までは見知ったつもりでいたけど、取り残されてみれば、まったく見覚えがない駅だった。
改札口もなにもない駅舎に立ち入る。
背もたれが欠けたベンチと、使えるのかわからない石油ストーブがあるだけで、時刻表もなかった。
どうしよう。
ネットも電話も通じない。誰とも連絡を取りようがなかった。
どこかで電話を借りようか。駅があるのだから、人家はあるはずだ。
駅舎からひと筋の道が伸びていた。その先に街灯がぽつんと立っている。
どうせ一時間は次の電車は来ない。あの明かりまで歩いてそこから先がどうなっているか、それを確かめてから次の行動を取ってもいいだろう。
道なりに歩き出した。
降り立った駅が無人とはいえ、本当になにもないところだった。
葉が揺れるたび、暗がりの隙間から何者かが出てきそうな気配を感じてしまう。
自然と足が速くなる。何度も駅を振り返ってはそこにまだ見えていることを確認した。
街灯まで近づくと、緩くカーブした先に、また街灯が立っていた。
もう少し先まで行ってみよう。
そうやって街灯を頼りに進んでいくと、木立の陰から急に家の明かりが見えた。
近づけば家中の明かりがついているのではないかというほど明るい。
カーテンも閉まっていないのは、ほとんど通りかかる人もいないからなのか。
そういえば、父の田舎の家もそんなかんじだったと思い出した。
門には表札もインターフォンもなかった。
飛石をたどって玄関まで行く。
磨りガラスから中の明かりが漏れていて、外まで充分に明るい。
やはり、玄関にも呼び鈴のようなものはなかった。
思い切って扉を叩いてみる。
「すみません!」
大きな声で呼びかけるも、中からはなにも聞こえない。テレビの音も、話し声も、物音ひとつ聞こえない。人の気配がまったくなかった。
防犯のために明かりがついているだけだろうか。
少し戻って中庭越しに掃き出し窓をのぞく。
広い畳の部屋にお膳が四組ほど用意されていた。
小さなテーブルのような台の上に、お椀や皿がのっており、湯気が立っているように見える。
料理が用意されたばかりだとするなら、誰かがいるはずなのだが……。
「あの……」
突然後ろから声をかけられて飛び上がるほど驚いた。
振り返ると自分よりも年上に見える女性が立っていた。レモンイエローのシャツに紺のパンツ。革製のトートバッグを肩に提げて、持ち手を両手でギュッと握りしめている。
仕事帰りだろうか。
不審そうにこちらを見ている彼女に頭を下げた。
「すみません、勝手に。あの、わたし、電話をお借りしたくて」
どうにか伝えると、女性は「いやいや」と顔の前で手を振った。
「わたしも、ここの住人じゃないから」
「そうなんですか」
「なんか、電車がへんなところに着いちゃって」
「わたしもです!」
安堵から思わず大きな声を上げていた。
巻き込まれたのが自分だけでないのなら、心強い。
「そうなんだ。電柱にも街灯にもどこにも住所が書いてないし、まったく覚えのない場所なんだけど、ここがどこか知ってる?」
「わからないです。携帯も通じなくて」
話しを聞けば、ほとんど自分と同じような状況でここへたどり着いたようだった。
彼女が乗ってきた鉄道と行き先の駅名は聞いたことがなく、遠い他県のローカル線だというので、にわかに信じがたかったが、彼女にしてみても、同様のことを感じたかもしれなかった。
「それにしたって、誰もいないのは不思議だね。料理を作っている人くらいはいそうだし、そもそも誰もいないのに温かい料理を用意するっておかしいよね」
彼女はずかずかと中庭に入り込んでいった。
その大胆さにわたしはついていけず、その場にとどまることしかできなかった。
彼女は縁先に膝をつき、窓を開けた。
「ごめんください」
静寂しかない室内からはなんの反応もない。やはり、誰もいないようだった。
そのとき、砂利を踏む音が聞こえて振り返った。
リュックを肩にかけた大学生くらいの男性がこちらへ向かって歩いてきている。
わたしは今度こそ住人だと思って慌てて頭を下げた。
「すみません。勝手に入り込んでしまって」
「あ、違います。なんか、迷っちゃって」
どういうことなのか、彼も見覚えのない土地にやってきて、ここへたどり着いたというのだった。
そしてひとけのない家屋に興味を示し、彼もまた無断で庭に立ち入る。
あの駅名に惹かれて降り立つような人は、こういう状況を面白がるくらいの人間性なのかもしれない。
他人の家だということが気にかかっていたが、ふたりがそちら側に行くのなら、自分もそうしなければいけないような気がして、わたしもその男性について庭の中へ入っていった。
「へぇ。これって、マヨイガじゃないですかね?」
男性は部屋を見渡すとそういった。
「マヨイガ?」
なんのことかわからなかったが、聞き返した女性の方も知らない言葉のようだった。
「遠野物語って知りません? 岩手県遠野市の民間信仰とか伝承とか、そんな古い話をまとめた物語に、マヨイガってのがあって。誰もいない家なんだけど、ほっかほかの食事が用意されていたり、火鉢の上に置いてある茶瓶がぶんぶん沸いてたり。さっきまで人がいたみたいな家なんだけど、探しても誰もいないっていう」
男性がそう説明すると女性はあいまいにうなずいた。
「まぁ、まさにそういう状況だけど」
「マヨイガには滅多に来られるものじゃなくて、そこから漆塗りのお椀を持ち帰ると幸せになるって言い伝えがあるらしい」
「へぇ。今ならそんな話しも信じられるかも」
女性は俄然興味を持ち始めた。
「でしょ? 俺、思ったんですけど、お椀を持って帰るなら、お椀に入ってる汁物を捨てるわけにもいかないし、食べていくのが正解だと思うんですよね」
「そうよね。きっと、わたしたちのような客がやってくるとわかって、用意してくれてるんだと思うわ」
到底納得できるような理由ではなかったが、ふたりは意気揚々と縁側から座敷に上がり込んだ。
お膳の前に座ると、「いただきます」といって、勝手に料理を食べ始めてしまったのである。
女性はお椀を手にしながら「あなたも食べたら?」と声をかけてきたが、わたしは「いいです」と断ってその場を離れた。
あのふたりが、ちょっとこわかった。
いくらなんでも、勝手に上がり込んで食べられない。
仕方なく駅に戻って電車を待つことにした。
戻ってくるとちょうど電車が入ってくるところだった。ドアが開くなり飛び乗る。一刻も早くここから出たかった。
すると、隣のドアから誰かが降りるのが見えた。
中学生くらいの女の子だ。
彼女はこちらに気づかず、あの『きさらぎ』と書かれた駅名標に夢中だった。わたしと同じようにスマホで撮影している。
呼んだ方がいいだろうか。
でも――。
自分と入れ替わりでこの異界へやってきたように思えて、声をかけることができなかった。
彼女だって引き返したらまた電車に乗れるはず――そう思い込ませてわたしはシートに腰掛けた。
やがて音もなくドアが閉まり、電車が走り出す。
女の子が何か叫ぶ声が聞こえたが、わたしは両手で耳をふさいでうずくまるだけだった。
「もしもし……」
ふさいだ手をすり抜けて呼びかける声が耳に届いた。
――だれ?
じっとしていたら、伏せた視線の先にカーテンのように揺れるスカートが現れた。
――わたし以外にも乗客が?
「あなた、食べなかったのね」
見上げると髪の長い女性が立ってた。
グレーのワンピースを着ていて、まさに影が薄いってこういうことじゃないかと思うほどに、寂しそうな顔をしていた。
「どうして知ってるんですか」
「よもつへぐいの匂いがしたの」
「よもつへぐい?」
「あの世の食べ物のことよ。それを口にするとこの世には戻ってこられないの」
女性はそれだけをいうと去って行った。
「あの……」
立ち止まる様子もなく、隣の車両に移る。
帰れるのか聞こうと追いかけようとしたが、とどまった。
彼女が、すぅっと消えたような気がしたから。
そうしているうちに電車は減速し、駅に止まった。
ハッと顔を上げるといつもの駅だった。
アナウンスが流れ、先ほどまでだれもいないと思っていたのに乗り降りしている人たちがいる。
――夢だった、とか?
みょうにリアルだった。
夢だとしても――
その淵に迷い込み、試され、戻ってくることができたとするなら――
間違った行動を取らなくてよかったと、胸をなで下ろしたのだった。



