私は犬が嫌いだ。

 ヤツは噛み付く、吠える。

 こちらが何もしなくても、全力で追いかけて来る。

 何に腹を立てているのか皆目見当がつかないが、牙を剥いた形相はまるで悪鬼だ。

 言い換えれば、嫌いというより私は犬が怖い。

 なのに、よりによって引っ越し先には白くて巨大な犬がいた。

 私たち家族は私の高校入学と同時に、新しい家に引っ越してきた。

 小高い住宅地の山の斜面に立つ、借家だが眺めの良い一戸建て。

 近所に家はたくさんあるが、我が家は坂道のてっぺんにあって、とても静かだ。

 だが問題があった。

 その坂道のちょうど突き当たりに、大きな犬が飼われていたのだ。

 そこには、自動車整備工場の格納庫兼仕事場があった。

 問題の犬はそこの番犬だったのだ。

 広い格納庫の入口に、犬小屋と首輪に繋がった鎖、そしてその鎖を固定する、地面に打ち込まれた杭がある。

 だがこの木製の杭、見るからに頼りない。

 足でポンと蹴るとグラッと倒れそうな危うさを感じる。

 この巨大な犬が怒りに任せて私に飛びかかって来たら、とてもではないが犬を制止してはくれないだろう。

 私を追いかけ回す犬の鎖に、意気地なく引きずり回される杭の姿が目に浮かぶ。

 この建物を避けて往き来できればいいのだが、迂回路も抜け道もない。

 私は家に帰るにも、高校に行くにも、必ずこの坂道の建物の前を通らなければならなかった。

 しかも私はこの犬が、犬小屋で寝ている姿を見たことがない。

 犬小屋の中で知らん顔をして寝てくれていればいいものを、登校時も下校時も、いつも4本足ですっくと立ち上がって、私をじいっと見つめてくる。

 この犬、雄だということはわかるが、名前も犬種もわからない。

 今にして思えば、秋田犬かチャウチャウか何かの雑種のような感じだった。

 体格は大きく立派で顔はこれまた大きな丸顔。

 それに比べて目は黒くて小さい。

 だがとにかく目を引くのは、なんと言ってもボリュームのある、豊かな毛皮だった。

 ふさふさとした見事な毛並みが、まるでタンポポの綿毛のように風に揺れている。

 顔もしっぽもモコモコしていて、しっぽはふさふさの白い箒のようだった。

 これで体毛が綺麗な純白なら、コロコロしたぬいぐるみに見えなくもないのだが、残念ながら純白とはお世辞にも言えない、ビミョーなねずみ色であった。

 きっと外で飼われているため、暇な時は、ゴロンゴロンと地面を転がり回って遊んでいるのだろう。

 土埃で何となく毛色が変わってしまった、野性味溢れる番犬であった。

 「鎖で繋がれているんだもん!怖く何かないよ!!」

 私は必死に自分に言い聞かせる。

 だが、怖いものは本当に怖い。

 毎日あの犬の目の前を通らなければいけないと思うだけで、足がすくむ。

 自分の本心はなかなか誤魔化せない。

 私が如何に意志の強い女子高生だとしても、自制心には限界がある。

 せっかくの新生活のスタートなのだ。

 何とか快適に登下校する妙案はないものか?

 「シロちゃん、おはよう」

 渾身の巨大犬懐柔作戦決行だ!

 何のことはない。

 恥も外聞も投げ捨て、私は敵に好かれるべく、とにかく愛想を振り撒く作戦に打って出た。

 だがどうか、こんな私を腰抜けだと笑わないで欲しい。

 何せ私の中では、このモコモコの犬は怪獣と変わらぬ巨大さなのだ。

 見知らぬ女子高生から、勝手にシロと名付けられたねずみ色の犬は声をかけられても、ただ私をじいっと見ていた。

 私はなるべくシロと目を合わせないようにして、そそくさと彼の眼前を通り抜けた。

 その日から、朝はおはよう、夕方はただいま、と私は犬を相手に、先生や級友たちに挨拶するよりぐっと愛想よく、シロに声をかけ続けた。

 そんな毎日が続くうちに、私は不思議なことに気づいた。

 シロは私をじいっと見つめてくるがまったく吠えない。

 そもそも、シロの声を聞いたことすらない。

 シロはそれほど、大人しい犬だった。

 何かといえば、形相を変えて吠え掛かってくる、私の記憶にある犬たちとは大違いだ。

 「ただいま、シロ。今日はいい天気だったね」

 私のシロへの警戒心と恐怖心は少しずつ薄れていった。

 それまでは、ただシロの機嫌を取るためだけに、嫌らしい猫なで声で挨拶するだけだったのが、少しだけ学校や友たちの話をするようになった。

 その頃だろうか?

 シロもふさふさの箒のようなしっぽをゆらりゆらりと振りながら、私の話をじいっと聞き入ってくれるようになっていた。

 「おはよう!シロ!今日も暑くなりそうだね」

 その日も私はご機嫌にモコモコのシロに話しかけた。

 季節は7月の終わり。そろそろ待ちに待った、夏休みだ。

 その朝のシロもいつもと変わりなく、ふさふさのしっぽをゆらりゆらりと振りながら、ふかふかの真ん丸い耳を立て、私の話に聞き入っていた。

 4本足でしっかり地面に踏ん張りながら、『いってらっしゃ~い』と言うように、ただ黙ってしっぽを振っていた。

 そしてそれがこの夏、シロを見た最後の姿だった。

 「あれ?いない?朝はいたのにな」

 朝、挨拶して夕方に帰宅して見ると、いつも繋がれている格納庫の前にシロがいない。

 こんなことは初めてだ。

 いつも私がこの建物の前を通る時には、犬小屋の前で今か今かと私を待ち構えているのに。

 「きっと、散歩にでも行ってるんだよね」

 私は何だか拍子抜けしながらも、大して深く考えもせずにそのまま、我が家へと帰った。

 しかし、その翌朝もシロの姿はなかった。

 第一、散歩にしては昨日から鎖は地面に置かれたままだ。とにかくシロの飼い主が散歩に連れて行くところを私は一度も見たことはなかった。

 この自動車整備工場はほとんど人の出入りがなかった。

 白の繋ぎを着た経営者らしき年配の男性と、若い整備士の男性二人がたまに出入りしているだけだった。

 だが私は朝と夕方しかこの建物の前を通らないし、格納庫の裏手にシロの犬小屋はあったから、たまたま私が人の出入りを知らなかっただけかもしれない。

 何せこれから夏が始まるのだ。

 建物の裏手とはいえ、日が高くなればかなり暑い。

 ゴージャスな毛皮を纏ったシロには辛い季節到来だ。

 散歩でないなら、きっと飼い主がシロを涼しい自宅にでも移動させてくれたのだろう。

 私は胸騒ぎがしながらも、良い方向に考えながら、シロのいない建物の前を登下校した。

 そしてシロが戻らないまま夏休みが始まった。

 私は夏期講習と友人と遊びに行く以外は、夏休み中はあまりこの建物の前を通らなかった。

 それでも通る時は必ずシロの姿を探したが、やはり彼はいなかった。

 そして夏休みの中頃、夏期講習から帰るとシロの犬小屋と鎖は片付けられてしまっていた。

 私は茫然として、ガランとした格納庫の前に立ち尽くした。

 私がこの建物の前に足を止めたのはこれが初めてだった。

 今まではただ通り過ぎるだけ。

 ただ、シロが怖くて……迷惑で……。

 思い返せば、自分の機嫌がいい時だけ、気紛れに話しかけていただけだったんだ……。

 やはり、シロは死んだのだ。

 私はそんなことも知らないで、今まで何の気なしにこの道を往復していたなんて……!

 いや、違う!

 私は気が付いていた。

 シロは本当は死んだかもしれないことを……。

 でも、そんなことは信じたくなかった。

 信じたくなかったからずっと気づかない振りをしていたんだ!!

 どうしてもシロの生死が知りたいなら、飼い主に尋ねればいい。

 後から知ったことだが、この自動車整備工場は自宅の敷地に併設されていた。

 少しわかりにくい場所だったが飼い主の自宅を訪ね、シロの安否を確認することくらいは、高校生の私でも簡単にできたはずだった。

 でも、私はしなかった。

 昼間に人がいないとか、家がどこにあるのかわからないとか、色々な言い訳を自分の心の中に勝手に並べて……。

 シロは、シロの一生は幸せだったのだろうか……?

 一緒に遊ぶ仲間はいない。

 飼い主が遊んでくれる訳でもない。

 “シロ”という、何の工夫も愛情もない名前を、勝手に自分に怯える女の子に付けられて、それで満足していただろうか?

 誰もいない1日の大半の時間をシロは何を見て、過ごしたのだろう?

 重い鎖に繋がれて自由に遠出することもできず、ただただ目の前の風景を眺めていただけなのか。


 シロが見つめていた風景はどんなだったのか。


 私はその夜、眠れないままベッドの中でシロのことを考え続けた。

 灯りを消した部屋の天井を見つめながら、シロが見ていた風景を想像してみた。

 格納庫の裏手に家はない。

 ただ切り立った山の斜面が道を挟んで見えるだけだ。

 風が強い日には土埃を立てるだけの殺風景な風景が広がるだけだった。

 シロの視界からは山の緑は見えない。

 住宅地を抜ければ、田んぼに囲まれた静かな地方都市で、シロの見ていた世界はあまりにも狭く、小さい。

 雨が降れば草木の薫りを小さな鼻で感じ、陽が差せば蝉時雨にフカフカの耳を立てて聞き入ったことだろう。


 シロの寿命が尽きる、その日まで……。


 平和だが退屈な1日をずっと何度も繰り返しながら。


 そこまで考えて、私はハッと気が付いた。

 そんな代わり映えのしないシロの日常に、突然現れたのが私だったんだ!

 『おどおどした変な人間。話しかけるだけで、美味しい物もくれないし、撫でてもくれない。でもイヤなこともしないニコニコした不思議な人間だよ。面白いなあ。また来るかな?』

 シロはきっと、私のことをそんなふうに考えて、いつも自分の目の前を通るのを、犬小屋から出て立ち上がって待っててくれたていたんだ!!

 「いつも待っててくれた……?あたしを……?1日中……?」

 シロのその時の気持ちを思うと、不意に涙がこぼれそうになった。

 私は慌ててベッドの中で寝返りを打つ。

 その視界に網戸に映る、木々の枝葉の影が見えた。

 夜の湿った夏草の匂いが、夜風に乗って部屋に入って来る。

 草の匂いを嗅ぐと、なぜか春のあの日を思い出す。

 それは私が4歳の頃だった。

 当時私は米軍基地のある小さな町に住んでいた。

 この町には軍人と彼らの家族が住んでいた。

 アメリカ人の住宅は基地の外にもあり、日本家屋の外壁や柵を、グリーンやピンクなどの色とりどりのペンキで塗り直したものだった。

 彼らとその家族は地元住民とも友好的であり、そんなアメリカ人家庭に飼われていたのがジョンだった。

 ジョンは雄の中型犬で毛色は茶色。

 繋がれることはなく、いつも放し飼いだった。

 私は道で出会うと、名前を呼んでいつも頭を撫でていた。

 それから間もなく、米軍基地は閉鎖され米軍は撤退した。

 その際、ペットの犬たちのほとんどが日本に置き去りにされた。


 そんなある日だった。

 春が始まったばかりのポカポカと暖かい昼のことだ。

 私は母に連れられて近所に買い物に出た。

 スーパーで買い物を済ませ、母と手を繋いで家路に着こうとしていた。

 その途中で近所の知り合いに出会い、母はその人と立ち話を始めた。

 大人の世間話は退屈だ。

 私は母の手を放し、トコトコ歩いて探検に出掛けた。

 母が立ち話をしている表通りからすぐの脇道に入る。

 舗装された表通りから一歩、脇道に入ると道の両側には菜の花が咲き乱れていた。

 黄色い菜の花には白いモンシロチョウが戯れ、私はその1匹を追ってぐんぐん脇道の奥へと歩いて行った。

 「あ!ジョン!」

 その時だった。

 林へと続く、脇道の奥からあのジョンが現れた。

 「ジョン、おいでおいで!」

 私はジョンに会えたのが嬉しくて、彼に近寄って行った。

 ジョンは私を見つけると、じっと立ち止まって動かない。

 ただ私の顔を見据え、鼻の頭に幾重にも黒く深い皺を寄せた。

 そして、いつものように頭を撫でようと、私が手を差し出した瞬間。

 「ギャアアア!!」

 幼児が絞り出せる精一杯の大声で、私は悲鳴を上げた。

 ジョンは私に襲いかかり右腕に噛みついたのだ。

 私はジョンに馬乗りになられながらも悲鳴を上げ続けた。

 だが死に物狂いで右腕を振り回しても、ジョンはガッチリと腕をくわえ込んで離れない。

 私を抑え込んだあの時のジョンの顔を、今もはっきりと覚えている。

 怒りで瞳は爛々と輝き、両眼は憎しみで醜く吊り上がっていた。

 こんな恐ろしい顔の生き物を、私は生まれて初めて間近で見たのだった。

 私の悲鳴を聞きつけ、母はすぐさま駆けつけた。

 手に持った日傘で腕に食いついたままのジョンを、何度も打ち据える。

 「グウウ!」

 ジョンは1度手にした獲物を手放すのがよほど惜しかったのか、不気味な唸り声を残して林の奥へと逃げ去って行った。

 すぐに母は泣き叫ぶ私を家に連れ帰ると、咬まれた傷口を流水で洗い、消毒した。

 その後、狂犬病の感染を恐れて病院にも行った。

 注射を打たれ、傷口に包帯を巻かれながら、私はただ泣いていた。

 右手にはくっきりと歯形が残り、犬歯の1本が手首の骨のすぐそばまで食い込んでいた。

 「野犬になったけんね。ジョンはあんたの顔ば、忘れたっちゃろうね」

 母の言う通り、人間に捨てられ野犬になったジョンは、毎日のように頭を撫でていた私の顔を忘れてしまった。

 そして、自分を捨てた飼い主への恨みと憎しみを私へぶつけたのだ。

 体も小さく、非力な幼児だった私を狙って。

 犬はとても賢い。

 飼い主に捨てられ、棲みかと餌を一瞬にして失ったジョンは人間への不信感と警戒心で一杯だったのだろう。

 それ以来、私は犬を恐れた。

 賢く計算高い犬を忌み嫌った。

 結局、噛み痕が綺麗に消えるまで丸1年掛かった。

 咬まれた痛みもさることながら、理由もなく愛する者から一方的に攻撃された衝撃の方が大きかった。

 「シロみたいな犬は、いなかったんだよ。今まで」

 私はベッドの中で小さく呟く。

 私が通りかかる一瞬を、毎日楽しみに待っていた健気で可愛いシロ。

 まるで、束の間の一生涯の中の、ただひとつの生き甲斐のように。


 私はその夜、夏山の緑の薫りに包まれて泣きながら眠りに着いた。



 長い夏休みも終わり、また坂道の下にある格納庫の前を登下校する毎日が始まった。

 高校生活はそれなりに充実していたが、登下校の道のりはさして楽しいものではなかった。

 シロがいた頃はドキドキしながらこの建物の前を通り、ワクワクしながら話しかけていたんだ。

 そんなことに今頃気づく。

 そんな日々がしばらく続いた9月のある日。

 シロの代わりに新しい犬がやって来たのだ。

 ようやく残暑も和らぎ始めたその日、私が例の建物の前を通り掛かると見知らぬ犬が立っていた。

 犬小屋も元の場所に戻り、鎖で杭に繋がれていた。

 ここの飼い主はよほど白い犬が好きなのか毛色はやはり白。

 しかしシロとの共通点は色だけで、新人の番犬は何から何まで、シロとは正反対だった。

 まず、体格がかなり小さい。

 シロの二分の一か、三分の一くらいしかない。

 しかも、かなりのやせっぽちだ。

 4本の足はほっそりとして長く、コロコロしていて走るより転がった方が速そうなシロとは大違いだ。

 その上、短毛でシャープな体のラインは、あばら骨の位置まではっきりと見える。

 ふさふさモコモコして、肝心な顔がどこにあるのかさえわかりにくかった、シロとは全然違う。

 唯一シロと同じところは、初対面の私にまったく吠えないことだ。

 尖った三角の耳をピンと立て、黒くて小さな瞳で私を見つめてくる。

 そして、ゴボウのような細くて頼りないしっぽをゆらゆらと振っているのだ。

 だが、私はその犬の姿を見てカッとなった。

 「シロが死んでまだ1年も経っていないのに!もう新しい代わりの犬を飼うなんて!!」

 この犬は何も悪くない。

 私が怒っているのはシロを簡単に忘れ去った飼い主にだった。

 仕事場の番犬として一生重い鎖に繋がれ、何の楽しみも喜びもなく死んでしまった可哀想なシロ。

 噛みつくことも吠えることもなく、ただ大人しく私だけを待っていてくれた穏やかなシロ。

 不満や怒りに任せて、平気で子供だった私を傷つけてきた犬たちと比べた時、シロはなんて温かく優しい犬だったのだろう。

 一体、そんなシロがどんな悪い事をしたというのだ!?

 私まで、シロを忘れるのは絶対にイヤだ!!

 だから私はこの新しい犬がどんなにしっぽを振っても、決して声を掛けなかった。

 一生懸命にしっぽを振っている真剣な姿に後ろめたさを感じながらも、私は口を真一文字に結んで、ただ黙々と犬小屋の前を往復する毎日が続いた。


 そんなある日。

 「あれ?毛が生えてる?」

 毎日見ているのでそれほど変化を感じていなかったが、この犬は短毛種ではなかったらしい。

 その証拠にポツポツと体のあちこちに白い綿毛が生え始めていた。

 「変なの……?」

 「……」

 初めて足を止めて見つめる私に、無言でしっぽを振る新しい犬。

 だが、この変化はほんの始まりに過ぎなかった。

 それからのこの犬の発毛スピードは驚くべきものだった。

 最初は顔や胴体にポツポツと生える程度だったがすぐに足や耳、しっぽにまで急速にふわふわした綿毛が生え始めた。

 タンポポの綿毛のような小さな毛玉は、すぐさま真っ白な毛皮の群落を作り、その群落が次々と隣の群落と合体して行く。

 一体、どうやったらこんなに速く発毛できるのか、まるで魔法みたいだ。

 私が見ている間も『ポッポ!ポッポポッポ!ポッポ!』と毛玉が出来上がる音が聞こえて来そうな勢いだった。

 そして、連休明けに久しぶりに犬小屋の前を通った私はあまりの驚きに、我が目を疑った。

 新しい犬はすっかり毛が生え揃っていた。

 もう、やせっぽちの小さな短毛種ではない。

 体が裕に2、3倍は大きくなっている。

 しかも毛皮はビミョーなねずみ色。

 堂々たる大きな丸顔に黒くて小さな瞳。

 そして、何と言ってもボリュームたっぷりのフカフカモコモコの立派な体型。

 そして、あの頃と変わらず決して犬小屋に入らず、4本足ですっくと立ち上がった立派な姿。


 これは……この犬はまさか……。


 「シロ……!」

 シロは生きていた!

 生きていたんだ!!

 涙がとめどなく、あふれてくる。

 どうしようもなく、うれしい。

 今まで生きてきて、最高の日だ。

 「シロ、今までどこにいたの!?どうして、あんな姿になっていたの?」

 私が興奮気味に話しかけても、肝心のシロは吠えたりじゃれ着いたりすることもなく、「今頃気づいたの?」と、ばかりに超然とモコモコの箒のしっぽを振っていた。

 シロは本当は、この夏どこにいたのだろう?



 ここからは私の推測だが、シロは完璧なまでの毛刈りをされていたことから、重度の皮膚病に侵されていたのではないか?

 耳としっぽの毛まで丁寧に刈られていることからも、とても素人の仕事とは思えない。

 恐らく、シロは立派な毛皮が仇となり、皮膚病になった。

 何せ、九州の夏は人間でも耐えられないほどの高温多湿だ。

 どう見ても、寒冷地仕様のシロには辛すぎる。

 獣医師に毛刈りされ、軟膏を塗られ、皮膚病が完治するまでの間、涼しい自宅に犬小屋と鎖ごと引っ越したのではないか?

 そして、転地療養の結果、病気も治り秋になったのでまた元の場所に戻された。

 私はシロの飼い主を愛情のないひどい人だと思い込んでいたが、きちんとペットを獣医師に見せて治療する立派な人だと知って、申し訳ない気持ちで一杯になった。

 けれど、戻ってきたシロはきっと不思議に思っていたにちがいない。

 「あれ?この子、いつもの女の子だよね?どうして知らん顔してるんだろ?あれ?あれ?」

 シロにはもちろん、毛刈りしてまったくの別犬になってしまった自分の姿はわからない。

 自分はいつもの姿のつもりで、ゆらりゆらりとしっぽを振っていたシロ。

 その時のシロの気持ちを想像すると可笑しいような、可哀想なような気がして、私はなぜかまた涙がこぼれた。