.
その後、西山先生の家庭教師が始まり、友香里さんや羽純さんに遭遇することもなく、塾や家でひたすら勉強をする日々。
夏休みに入ると、受験勉強もさらに進む。
西山先生に、「生活のリズムはなるべく崩さないように」と言われて朝は学校に行く時と同じ位に起きる様にして家庭教師の日でも一旦塾の自習室に行って勉強をして夕方帰ってくる生活。
ヒロにいも、バイト三昧になっているのか、やっぱり会えない日が多かったけれど、朝、バイトの時間が私が塾に行く時間と重なりそうな時は声をかけてくれて一緒に駅まで行ったり、水曜日のお迎えも必ず来てくれていた。
ヒロにいといる時は、あまり勉強の話はしなくて、「来年は花火に行きたい」とか「北海道は6月くらいがいいよね」とか…受験が終わった後の話しをたくさんしてくれて。ヒロにいは無意識なのかもしれないけれど、二人で一緒に何をするって話がほとんどで、それが私にはすごく嬉しかった。
『来年も私と一緒に居ようって思ってくれている』って。
そのせいかもしれないけれど、気合が入り、より勉強に集中できていたんだと思う。
「お、今回の模試はかなり点数良かったね。いい調子。」
夏休み半ばを過ぎた頃、家庭教師に来てくれた、西山先生に模試の結果を見せたら、嬉しそうに褒めてくれた。
「頑張ってるもんね、山本さん。」
「はい!西山先生の教え方が上手だからやりがいあります!」
「それは、ホントそう。」
西山先生の得意げな表情に思わず私もふふッと笑う。
「とはいえ、まだまだ頑張らないとね、相央大学法学部の判定は相変わらずEだし。」
「そうなんですよね…。第二希望の望星大学はC判定まで来てるのになあ。」
「大丈夫。まだまだ時間はあるから。目の前の事からやっていこうか。」
「はい!」
気合を入れて腕まくりをした、私に「そういえばさ」と西山先生はコーヒーカップを片手で持ちながら思い出したように話す。
「俺、この前大学の図書館で山本さんの彼氏見かけたかも。同じ大学だからね。今までもすれ違ってたかもしれないけどさ。」
「確かに、そうですね…。」
「この前会った時は暗がりだったけど、明るい所で見ると、すげーイケメンだね。」
「…そうですかね。」
「うん。なんかね、オーラがキラキラーって。」
西山先生の長い腕が半円を描くように大きく振られ宙を仰ぐ。
「時々思うんですけど、西山先生って、教えるのがすごく上手なのに、勉強から離れると言葉が適当になりますよね。」
「え?!本当に?自分ではよくわからないかも。ごめん。」
「あ、違うんです。不快って事じゃなくて、寧ろ逆で…なんて言うか、話しやすくて良いなあって感じです。」
そう…オープンキャンパスの時もこのギャップに惹かれた。
あんなに授業の時は真面目なのに、そこから離れた時の柔らかい表情。かっこいいなって…純粋に思った。
私もそんな風になりたいって…。
ニコニコしている私に、西山先生は何故か若干苦笑い。
それから、コップをコトリと机に置くと、「まあ、とにかくさ」とそのままひじをそこにつき、私を少し下から小首を傾げて除くように見る。
相変わらず…優しく微笑んでいるその表情。
「…山本さんに好印象なのは嬉しいかも。」
「っ?!そ、そういう事じゃなくて!」
「えー?違うの?なんだ、てっきり俺にときめいてくれたのかと思った。」
あははと今度は大きく笑って、それからポンとその大きな厚めの手のひらを私の頭に乗せる。
「ほら、続きやるよ。今日は古文のここ、できるまで終われないから。」
「え…」
「勉強はスパルタなんで。」
「うっ…」
顔の赤いまま俯いている私をまた勉強の方へと導く西山先生。
勉強を再開した途端にその表情は、また引き締まる。本当にこういうところが素敵な人だと思う。
…頑張ろう。せっかく凄い人が勉強を見てくれているんだから。絶対に受からなきゃ。
そんな気合と共に過ごした夏休みは、あっという間にお盆が過ぎて、ヒロにいの免許合宿初日になった。
その前からヒロにいはバイトのシフトの関係であまり会えなくなっていて、水曜日も結局西山先生が送ってくれる日が増えていた。
本当は、免許合宿に行く前にヒロにいに会いたかったけど…仕方ないよね。
出発予定の朝、早起きしてすぐに「行ってらっしゃい」とメッセージを打ったら、「ありがと。行ってくる」と簡単なメッセージが帰ってくる。
『とりあえず、親の車だけど、そのうち買うから。何の車が良いか考えといて』
『オープンカー』
『寒いから却下』
他愛もないやり取りに思わず顔がにやけて、慌てて顔を隠して誤魔化した。
受験勉強は確かに辛い。
西山先生に家庭教師に入ってもらって、弱気になる瞬間がとても少なくなったって実感しているけれど。
本当に、大学に受かることができるのだろうかという、漠然とした不安は払拭しきれなくて。
何となく、薄暗い出口が見えないトンネルの中をずっと歩いている様な感覚になる時もあるけれど。
それでも、そんな暗闇に、ヒロにいが暖かい燈をくれている、そんな感覚。
だからこそ、進もうって思える。
塾の前の信号が青になって、「よし」と気合を入れて、一歩を踏み出した。
今日も、頑張ろう。目の前の課題を一つ一つクリアしていくしかないんだから。
「あ!陽菜ちゃん!会えた!」
聞いたことのある声が横から聞こえてきて、塾の入っているビルに入る足をふと止めた。
そんな私の元に、少し小走りで近づいてきた人。
友香里…さん…。
「陽菜ちゃん、久しぶり!」
「お、おはようございます…。」
思わずたじろいだ私を気にすることもなく近づいてくる。
「良かった〜!会えるか不安だったけど。この時間くらいに塾に行く様なこと、聞いてたからさ。」
「そ、そうですか…」
わざわざ、待ち伏せしてまで何を…。
より警戒心を強めた私にも、臆することはなく、ニコッと小首を傾げて見せる友香里さん。
「今日からヒロって、免許合宿じゃん?」
「あ…はい…」
「実は、それ、“羽純と一緒に二人で”行ってるんだよね。」
……え?
「そ、そう…なんですか?」
「ああ、やっぱり知らなかった?ヒロも流石にそこまでは言えないよね。
だって、二人きりだよ?周りはもちろん知らない人ばっかり。
あの二人、本当に仲良いっていうか…もう、恋人みたいなもんじゃない?陽菜ちゃんがそれを知らないのもねって思ってさ…。」
それってつまり…ヒロにいと羽純さんが、一緒に申し込みして、行くことにしてたってこと?
表情を固めたまま、瞬きも忘れて友香里さんの顔を見ている私に、ふうと少し呆れ顔をする。
「…ショックを受けてるとこ申し訳ないけど、『今更?』って思うけどな。」
今…更…。
「前から私、言ってたよね?羽純とヒロは仲がいいとか、ニコイチだって。特別なんだって。その位、側から見たら、一目瞭然なの。ヒロが羽純を好きだっていうのは。本人が気が付いてないだけでね。」
本人が…気が付いてない…。
ようやく少し動いたのは、瞼と首で、目線を少し友香里さんから外すことができたけれど。
その代わり脳裏に蘇る、今までのヒロにいの羽純さんへの言動。
…羽純さんの『特別』を否定しなかった。
羽純さんが「もっと話したい」と言えば、はっきりと断らなかった。
「困ってるから助けたい」とはっきりと言っていた。
羽純さんが謝った時も、「羽純は悪くない」って…。
ぐるぐると渦巻く記憶と気持ちに、さらに友香里さんの言葉が混ざり込む。
「…陽菜ちゃんもヒロにとっては特別なんだろうけどさ。それは単に幼馴染で長い時間一緒にいたから生まれた情みたいなもんだと思う。陽菜ちゃんは知らないだろうけど、羽純と一緒に居る時のヒロは本当に優しい良い顔してる。でもきっと、ヒロ自身は気が付いていない。陽菜ちゃんて存在がそこにあるから。
陽菜ちゃんはそれでいいの?大好きな『ヒロにい』が自分という壁があることでこの先ちゃんと真っ当な恋愛できなくても構わないの?それをわかっていても、ヒロを独占していたいわけ?」
不意に思い出した、旅行の時の羽純さんの言葉。
『開放してあげてほしい』
本当は…惹かれあっているのに…私が居るから、恋人になれない?
そうやって、今までもヒロにいの恋愛を無意識に邪魔してたって、こと…?
私は…ヒロにいにとって、邪魔な存在……だった。
目頭が熱くなって、目の前がぼやける。落ちそうになっている涙を唇に力を入れることで何とか耐えた。
ああ…私、本当にダメな奴だ。
ただ、自分の気持ちばっかり考えて、ヒロにいが大好きだから一緒に居たいからって甘えて。「卒業する」なんていいながら、ヒロにいの優しさにまた甘えて……何やってるの、本当に。
私は…ヒロにいのお荷物でしかなかったのに。
「山本さん?どうしたの?」
不意に、入り込んできた西山先生の声。
「え…?!うそ!法学部の西山さん?!」
友香里さんのキンとした声が頭に響いて痛みを覚えてハッとした。
「私も相央大学なんです!えー!陽菜ちゃん、西山さんと知り合いだったんだ!言ってよー!」
私の顔色なんて、気にしないのか友香里さんはテンションが上がり嬉しそうに私の背中をバシバシ叩く。
そんな私と友香里さんを西山先生は交互に見ると、穏やかではあるけれど真顔でゆっくりと口を開いた。
「…俺は、山本さんの勉強を見てる塾講師なだけなんで。」
「そうなんですね!私は…「山本さん、大丈夫?行こうか。」
友香里さんの言葉を遮って、私の背中をそっと押す西山先生。それから少し振り返って、やっぱり笑顔は見せずに友香里さんの方を向く。
「…悪いけど、こんなビルの前で騒がれたら、迷惑だから。」
「す、すみません!西山さんにお会いできてお話できるなんて夢にも思わなかったから、興奮してしまって。陽菜ちゃんまたね!あ、私、陽菜ちゃんと仲良しなんです!」
「そうなんだ。仲良しな割に、山本さんの状況がちゃんと見えていない様だけど。とにかく、今日はここまでにしてもらえる?」
友香里さんを残し、私をビルの中へと押して入る西山先生。私は、ただ、その少し背中を押してくれる大きな手のひらにしたがって歩を進めた。
「…大丈夫?」
西山先生は、そのまま教室ではなく、まだ開放されていない自習室へと私を連れていって椅子に座らせると、自分は机に寄りかかり、小首を傾げた。
い、いけない…迷惑かけちゃった…。
少し下を向いて、キュッと唇を硬く結んだ。
「す、すみません…その…思いがけない人と遭遇して、ボーッとしてしまって…。」
「今の子に何か言われたんじゃなくて?」
「い、いえ…その…」
ど、どうしよう…言葉を発してしまうと…涙が溢れてきてしまう…。
「…今日はとりあえず帰ったら?」
「そ、それはだめ!」
思わず、顔を上げて勢いよく言ったら、西山先生は、一瞬目を見開いた後、苦笑い。
「…真面目過ぎ。」
もたれていた机から体を起こすと、私の頭に大きな手のひらをポンと乗せた。
「良いんだって、不安定でも。人間なんだから…ってなんか俺、某有名詩人みたいなこと言った?パクリ疑惑。」
柔らかいその微笑みに気持ちが溢れて、口がへの字になって、涙がぽたんて落ちた。
その長めの指が、私の髪をスルスルと撫でる感触に、余計に涙が溢れ出る。
また下を向いてスンと鼻を少しすすった。
「…前に俺が『受験勉強って過酷』って言ったの覚えてる?今の山本さんは、その渦中にいるわけじゃん。でも、それにも関わらず辛いなんて言わずにここまですげー頑張ってたわけでさ。だから一回くらい気が抜ける瞬間があっても良いんじゃない?って話。」
「で、でも…まだ、相央大学A判定に全然届いてないし、休むわけには…。」
「精神的に不安定なまま勉強しても効率悪いって俺は思うけど。それこそ、そんな片手間でやって成績上がるほど受験は甘くないって話でね。」
「それは…」
「うん。」
「…その通りです。」
口を尖らせながら、答えた私にハハって笑う西山先生。ポンとまた軽やかに私の頭を撫でる。
「んじゃ、今日は帰りな。明日は家庭教師の日だし休みでも良いけど、とりあえず様子見に行かせて。先生、心配。」
「…はい。」
お、良い返事。と笑いながら、「塾長には言っておくからね。」と先に自習室を出ていく西山先生。
その背中を見送ってふうとため息をついて気が付いた。
あんなに悲しくて、現実が嫌でどうしようもなかったのに。
今は、涙が止まってる。
スッと静かに席を立って、椅子を戻す。
…どうしたら良いかまだ全然わからないけど、とにかく今日は一旦家に帰って休もう。
家に帰ると、リモートワーク中だったお母さんが、驚いて出てきてくれて。
それに、「ちょっと体調悪くて帰ってきちゃった。寝不足かも」と笑顔で答えたけど。
心配の色だったお母さんの表情は、穏やかな笑顔に変わって、私のそばにくると、背中を撫でて「そっか。頑張ってるもんね。休みな」とそれだけ言って、「お母さんもヒナを見習って頑張る!」とまた自室に戻って行った。
その優しさが嬉しくて、鼻の奥がツンとする。
…ありがとう、お母さん…西山先生も。
部屋に入ってドアを閉めて、ベッドに腰を下ろしてふうとまたため息。そのままゴロンと寝っ転がった。
何の変哲もない天井に、私を上から見下ろす去年の夏のヒロにいを思い出す。
“お前は俺のでしょ?”
形の良い小ぶりな薄めの唇が綺麗に弧を描き、まっすぐ私を見ていたヒロにいの目は確かに穏やかだった。
…あの言葉は真実で、事実。
その事に疑う余地はなく、今まで過ごしてきた。
私は、ずっとヒロにいが大好きで、ヒロにいが世界の中心で…ずっとずっと…。
けれど、側から見ればそれは狭き世界の出来事。
そして違和感しかない関係で…ヒロにいは感覚が麻痺しているって…。
目頭が熱くなって、視界がぼやけ、唇がまたへの字に曲がる。
咄嗟に、腕で目を覆った。
「…っ」
それでも、溢れ出てくる涙。
“羽純とヒロ、今二人で合宿行ってる”
…もちろん、それ自体もショックな事ではあるけれど。
一番ショックなのは、ヒロにいが私にそれを言わなかったという事実。
友香里さんの、“本人が気がついていないだけでヒロは羽純が好き”と言う言葉を裏付けるだけの出来事。
きっと…ヒロにいは、羽純さんと居たいと思ってる。けれど私を優先すると言う感情が支配していて、どこかで無理をしているんじゃないのかな。
やっぱり…私が邪魔者…なんだ。
いくら拭っても出てくる涙。
堪えようと思っても、余計に溢れ出てきて、悲しさが込み上げる。
ぼやけた視界の中に、ヒロにいの笑顔がどんどん鮮明に蘇って、結局その日は、布団を被ったまま何もできずに夜を明かした。
.
「…さん?」
「…菜?」
どの位時間が経っていたかは定かじゃなくて、暗い布団の中で、数人の声が耳に聞こえてきて意識を取り戻す。
あれ…私……。
そうか…泣いたまま…布団かぶって寝ちゃったんだ。
「…陽菜?」
あ…お父さんの声だ。
お夕飯にも降りて行かなかったから、心配したよね、きっと。
「お父さ…」
ばさっと掛け布団をあげて起き上がった途端、ハッとした。
「に、西山先生!」
慌ててまた布団の中に逆戻り。
私今、絶対酷い顔してるし、髪もボサボサだし…
「お、お父さん!どうして一緒に来ちゃったの?!」
「ああ…ごめん。家庭教師の時間だし、昨日から陽菜の様子がおかしいから、西山先生も心配しててね。西山先生が居た方が陽菜が色々話をしやすいかと思って。」
「………。」
…さすが、お父さん。私が西山先生には色々話しやすいってちゃんとわかってたんだ。
だ、だけど…泣き腫らして瞼が腫れまくってて、顔も浮腫んでるだろうし…こんな姿を西山先生に見られるのは恥ずかしすぎる。
出るに出られない私を見かねてか、西山先生が、「僕、ちょっと出てきますね」とお父さんに話している。
「…山本さん、また1時間位したら来るから。」
そういうと、「すみませんね」と言うお父さんと一緒に部屋を出て行く。
パタンと言うドアの閉まる音を確認した後、むくりと起き上がった。
…やばい。本気で目が途中までしか開かない。
ふうとため息をついてからぽつりと呟く。
「…冷やそ。」
立ち上がると、昨日よりは何となくその一歩が軽い気がする。
けれど、やっぱり昨日の友香里さんの言葉とヒロにいのことを思い出すと気持ちがズシンと重たくなる。
今頃…羽純さんとヒロにいは私に邪魔されることなく、心置きなく楽しめてるのかな…。
また目頭が熱くなってきて、思わずスンと鼻を啜った。
…とにかく支度しなきゃ。私は受験生なんだから。昨日は西山先生の提案に甘えたけれど、そう何日も甘んじているわけには行かない。
自分で決めたんだから。
ヒロにいを卒業して、自分の世界を切り開くって。
だったら、ちょうど良い機会じゃん。
私は、ヒロにいから離れて、ヒロにいは私から解放されて、本当に恋人にしたい人と一緒にいられる。
視界が勝手にぼやけて、躊躇なくポタポタと涙が溢れ出てくる。
そうだよ…私は、ヒロにいが大好きだもん。ヒロにいが幸せになるならそれが一番じゃん。
私は…私の道を頑張らないと。
ヒロにいが…私の事なんて忘れる位に…ならないと…。
「く…っ…ううっ…」
ヒロにいが私の存在を忘れるということに、もの凄い絶望感と悲しさが襲ってきて、そのまままたラグマットの上に崩れ落ち、床に突っ伏した。
溢れ出てくる涙をそのままに、両手をギュッとこぶしに変える。
頑張れ…頑張るんだ。
私がここで頑張らないと、ヒロにいはいつまで経っても、今のまま…だもん。
自分にそう何度も言い聞かせて。
そのまま30分ほどいただろうか。もう何度目かわからない息をふうと吐いたところでようやく体を起こせた。
…大丈夫。こうやって一つずつ進もう。
立ち上がると、そのまま下へと降りていって冷水で顔を何度も洗う。その間も目頭が熱くなって溢れ出てくる涙。
洗面台の鏡に映る顔を見て、自嘲気味に笑う。
「…すっごいブス。」
また涙が落ちてきて、思わずタオルで顔を覆った。
…今日は無理だな。西山先生に会うの。こんなみっともない姿を見られたらちょっと嫌かも。
とりあえず、肌と髪を整えはしたけれど、散々なその顔にふうとまたため息。
部屋に戻り、扉を閉めるとスマホを手に取った。そのまま、西山先生にメッセージを打つ。
『すみません、やっぱり今日はお休みさせてください。』
『そっか。わかった。けど、もうそこまで帰って来ちゃってるから、少しだけドア越しで話してもいい?』
ドア越し…。
とはいえ、今日は誰かと話せるような気分でもないんだよな…でも、来てもらってるのを追い返すのも失礼かな…。
『5分だけ話したら、今日は帰るから。』
『わかりました』
返事をすると、いつも西山先生が使っている“了解”と言う馬と鹿の面白いスタンプがポンと帰ってきて、何となくそれにホッとした気がした。
程なくして、自室の部屋のドアがコンコンとノックされる。
『山本さん、話しても大丈夫?』
別に、そうした方がいいわけではなかったのかもしれないけれど、何となく西山先生のいつも通りの優しく柔らかい声色に吸い寄せられるようにドアへと体が向かった。そのまま、ドアの前に腰を下ろす。
「西山先生…すみません、ご迷惑をおかけして」
『いや?それは大丈夫。おかげで、この1時間で、気になってた近くのケーキ屋で買い物できた。』
思いがけない返答に、思わずキョトンとして、その後『返しが西山先生らしいな』と頬が緩む。
「…もしかして“coco”って言うケーキ屋さんですか?」
「そう!すごいよね、今時、個人のケーキ屋でショートケーキが350円てさ…って、ケーキ全部一律350円なんだね、あそこ。シュークリームは200円だったけど。」
「私のお勧めはシブーストです」
「おっ!そうなんだ。買って来たから後で堪能するわ。」
ふふふと思わず笑ったら、「山本さん」とまた優しい声がドアの向こうから聞こえる。
『山本さんはさ、“何のための受験か”よく考えた方がいいよ。』
少し浮上していた気持ちがズキンと少し痛みを覚え、また少し目頭に熱さを覚えた。
…けれど。
「そ、それは…」
『“自分の為の受験”って答える?』
…え?
西山先生の問いにその熱さは引っ込む。
「えっと……」
だって、進路だから。誰のものでもない、私の進路…。
私が、自分の為に受験をするのであって、それを他の誰かの為だなんて言ってはいけない…よ…ね………。
西山先生が言わんとしていることが、いまいちわからなくて、小首を思わず傾げてしまう。
答えの出ない私をしばらく待ってくれていた西山先生が「じゃあさ」と先に言葉を発した。
『山本さんに宿題』
「は、はい…」
『今日が金曜日でしょ?次の家庭教師が月曜日だから…今日から三日間で、山本さんが“会いたい”と思う人に“複数”会ってきて』
え…?
「ど、どうして…」
『や、だから宿題だって。それとも、山本さんは、会いたい人は彼氏だけ?』
それは…
ふっと頭の中になつみやさあちゃん、早川や若菜ちゃんの顔が浮かぶ。
「…違います。」
『だったら、できるね、宿題。でもちょっと頑張らないと大変じゃない?3日間て結構短いよ?今日はすでに半日終わってるしね。月曜日の午前中も含めたらまあ、まる3日間になるか。』
た、確かに…私が会いたい人って、結構忙しいかも。なつみやさあちゃんは塾があるだろうし、早川は…何やってるのかよく知らない。若菜ちゃんに至っては、もっとわからない…。
『宿題だからね!終わらなかったら、もっと厳しい課題を用意するから。回避のためにも頑張って。』
じゃあ、今日は帰るねと言ってドアを離れ、階段を降りていく音がする。
私が“今”会いたい人…か…。
「………。」
“宿題ができなかったら、もっと厳しい課題を用意する”
西山先生がそう言うと言うことは、本当に多分、ものすごい課題になる…よね。
ここは、回避のためにも会いたい人に会わねば。
……よし。
意を決してスマホを手に取る。
「あ……」
昨日の日付でヒロにいから着信が何度か。
それとLINEのメッセージと教習所の中と思われる写真。
……当然だけど、羽純さんとのことは書いてないな。
「……。」
“会いたいのは彼氏だけ?”
……いや、どちらかというと、ヒロにいは今は会いたくないかも。
会って何を話したらいいかもわからないし…。
とりあえず、『電話に出られなくてごめんね。模試前で忙しいから電話は無理かも』と多少の嘘。
…まあ、9月に模試があるからそんなに嘘ではないけど。
『車の教習頑張ってね!』とメッセージを送り、そのままトーク画面を閉じる。
まずは…なつみとさあちゃんだな。
3人のトーク画面を開いて、二人に『会いたい!』とメッセージ。スタンプも押して予定を確認。
それから、早川と若菜ちゃん。
『二人に会いたいんだけど、若菜ちゃんて会えたりする?』
後は…中学時代の友達とか!そういや部活の友達に連絡してないな、最近…。
まあ、“スイーツ部”だったからゆるい部活ではあったけど。インスタで繋がってる子に連絡してみようかな。この前のバレンタインの時、ケーキ作りの話でめっちゃ盛り上がったし。
色々と考えて、浮かんだ“会いたいかも”と思った人達に連絡をして、それから立ち上がる。
…まず会いたい人は、やっぱり。
ドアを開けると、そのまま下へと降りていく。
リビングを開けると、ちょうどキッチンに飲み物をとりにきていたリモートワーク中のお父さんの姿。
「お父さん」
「おっ!陽菜。陽菜もコーヒー飲む?西山先生からシュークリームも頂いてるよ。」
ニコッと笑うと、「あー肩凝った」って頭を一回転。
そのいつもと変わらないやり取りと雰囲気にホッとして、鼻の奥がツンとする。
西山先生…シュークリームくださったんだ…。
「お母さんて、今日は遅いの?」
「いつも通りじゃない?」
「そっか…じゃあ、私が夕飯作るよ!」
「え…いいの?お前が一番忙しいだろ。」
そんなふうにサラリと言われて、思わず目を見開く。
お父さん…そう思ってくれてたんだ。
「でも作ってくれるなら嬉しいかも!」とニコニコしてるお父さんに、目頭が少し熱くなった。
『いつも頑張ってるから、休むのも大事ね』
昨日そう言ってたお母さんを思い出す。
そっか…私の頑張り、ちゃんと見てくれてるんだな。
「腕によりをかけて作る!」
「おお…じゃあ、肩凝ったとか言ってる場合じゃないじゃん!シュークリームも食後まで我慢だな。これから会議だけど、絶対、巻で終わらせるわ!」
そう言って、コーヒー片手に自室へと戻っていくお父さんに、ふふっと頬が緩んだ。
…よし、まずは二人はクリア。
お母さんにも今日の夕飯で会えるし。
お父さんが入れてくれたコーヒーのマグを持って、スマホを見ると、なつみとさあちゃんから返信が来ていた。
『お疲れ〜!』
『会いたーい!』
ハートいっぱいの二人のスタンプにまた頬が緩む。
『明日か明後日どう?』
『土日両方とも、昼間は予備校だなー』
『私も…あ、でもうち来る?』
さあちゃんが、猫がひらめきを得た表情のスタンプをぽこんとつけてくる。
『えー!行きたい!いいの?』
『うん!ぜひ!』
なつみも盛り上がって、「じゃあ、めっちゃ美味しいお菓子持ってく!」と意気込んでる。
嬉しい…かも。このタイミングでお泊まり。
もちろん、次の日も皆んな勉強があるから、徹夜で話すとかはできないだろうけど。
私も、わーい!ってスタンプを押したら、またスマホがメッセージの受信を知らせる。
あ…早川。
『ヒロにい居ないから暇なのかよ。甘えんな!…と言いたい所だけど、お前に会いたいって言ってる人が居るから丁度いいかも』
私に…会いたい人??
全く思い浮かばなくて、少し首を捻る。
誰…だろう??
『明日か明後日なら、明日の15時とかでも良い?申し訳ないけど、場所も指定で。』
送られてきた、URLを開いてみると…
あ…ここって、ヒロにいのバイト先……。
もしかして、早川、明日バイトなのかな。
そう思ってたら、また送られてくるメッセージ。
『それから、若菜と会うの、学校の図書館でよければ月曜日の午前中会えるよ』
…やった。若菜ちゃんにも会えるんだ。
嬉しくなって、スマホをギュッと握りしめる。
よし、じゃあとりあえず夕飯の買い出しに行こう…。
コーヒーカップを洗って伏せたらまたスマホが鳴る。
『久しぶり!』
今度は、中学の時の同級生…ちーちゃん。
それにまた、頬が緩んだ。
…皆、優しいなあ。返信すぐくれて。
.
その後、西山先生の家庭教師が始まり、友香里さんや羽純さんに遭遇することもなく、塾や家でひたすら勉強をする日々。
夏休みに入ると、受験勉強もさらに進む。
西山先生に、「生活のリズムはなるべく崩さないように」と言われて朝は学校に行く時と同じ位に起きる様にして家庭教師の日でも一旦塾の自習室に行って勉強をして夕方帰ってくる生活。
ヒロにいも、バイト三昧になっているのか、やっぱり会えない日が多かったけれど、朝、バイトの時間が私が塾に行く時間と重なりそうな時は声をかけてくれて一緒に駅まで行ったり、水曜日のお迎えも必ず来てくれていた。
ヒロにいといる時は、あまり勉強の話はしなくて、「来年は花火に行きたい」とか「北海道は6月くらいがいいよね」とか…受験が終わった後の話しをたくさんしてくれて。ヒロにいは無意識なのかもしれないけれど、二人で一緒に何をするって話がほとんどで、それが私にはすごく嬉しかった。
『来年も私と一緒に居ようって思ってくれている』って。
そのせいかもしれないけれど、気合が入り、より勉強に集中できていたんだと思う。
「お、今回の模試はかなり点数良かったね。いい調子。」
夏休み半ばを過ぎた頃、家庭教師に来てくれた、西山先生に模試の結果を見せたら、嬉しそうに褒めてくれた。
「頑張ってるもんね、山本さん。」
「はい!西山先生の教え方が上手だからやりがいあります!」
「それは、ホントそう。」
西山先生の得意げな表情に思わず私もふふッと笑う。
「とはいえ、まだまだ頑張らないとね、相央大学法学部の判定は相変わらずEだし。」
「そうなんですよね…。第二希望の望星大学はC判定まで来てるのになあ。」
「大丈夫。まだまだ時間はあるから。目の前の事からやっていこうか。」
「はい!」
気合を入れて腕まくりをした、私に「そういえばさ」と西山先生はコーヒーカップを片手で持ちながら思い出したように話す。
「俺、この前大学の図書館で山本さんの彼氏見かけたかも。同じ大学だからね。今までもすれ違ってたかもしれないけどさ。」
「確かに、そうですね…。」
「この前会った時は暗がりだったけど、明るい所で見ると、すげーイケメンだね。」
「…そうですかね。」
「うん。なんかね、オーラがキラキラーって。」
西山先生の長い腕が半円を描くように大きく振られ宙を仰ぐ。
「時々思うんですけど、西山先生って、教えるのがすごく上手なのに、勉強から離れると言葉が適当になりますよね。」
「え?!本当に?自分ではよくわからないかも。ごめん。」
「あ、違うんです。不快って事じゃなくて、寧ろ逆で…なんて言うか、話しやすくて良いなあって感じです。」
そう…オープンキャンパスの時もこのギャップに惹かれた。
あんなに授業の時は真面目なのに、そこから離れた時の柔らかい表情。かっこいいなって…純粋に思った。
私もそんな風になりたいって…。
ニコニコしている私に、西山先生は何故か若干苦笑い。
それから、コップをコトリと机に置くと、「まあ、とにかくさ」とそのままひじをそこにつき、私を少し下から小首を傾げて除くように見る。
相変わらず…優しく微笑んでいるその表情。
「…山本さんに好印象なのは嬉しいかも。」
「っ?!そ、そういう事じゃなくて!」
「えー?違うの?なんだ、てっきり俺にときめいてくれたのかと思った。」
あははと今度は大きく笑って、それからポンとその大きな厚めの手のひらを私の頭に乗せる。
「ほら、続きやるよ。今日は古文のここ、できるまで終われないから。」
「え…」
「勉強はスパルタなんで。」
「うっ…」
顔の赤いまま俯いている私をまた勉強の方へと導く西山先生。
勉強を再開した途端にその表情は、また引き締まる。本当にこういうところが素敵な人だと思う。
…頑張ろう。せっかく凄い人が勉強を見てくれているんだから。絶対に受からなきゃ。
そんな気合と共に過ごした夏休みは、あっという間にお盆が過ぎて、ヒロにいの免許合宿初日になった。
その前からヒロにいはバイトのシフトの関係であまり会えなくなっていて、水曜日も結局西山先生が送ってくれる日が増えていた。
本当は、免許合宿に行く前にヒロにいに会いたかったけど…仕方ないよね。
出発予定の朝、早起きしてすぐに「行ってらっしゃい」とメッセージを打ったら、「ありがと。行ってくる」と簡単なメッセージが帰ってくる。
『とりあえず、親の車だけど、そのうち買うから。何の車が良いか考えといて』
『オープンカー』
『寒いから却下』
他愛もないやり取りに思わず顔がにやけて、慌てて顔を隠して誤魔化した。
受験勉強は確かに辛い。
西山先生に家庭教師に入ってもらって、弱気になる瞬間がとても少なくなったって実感しているけれど。
本当に、大学に受かることができるのだろうかという、漠然とした不安は払拭しきれなくて。
何となく、薄暗い出口が見えないトンネルの中をずっと歩いている様な感覚になる時もあるけれど。
それでも、そんな暗闇に、ヒロにいが暖かい燈をくれている、そんな感覚。
だからこそ、進もうって思える。
塾の前の信号が青になって、「よし」と気合を入れて、一歩を踏み出した。
今日も、頑張ろう。目の前の課題を一つ一つクリアしていくしかないんだから。
「あ!陽菜ちゃん!会えた!」
聞いたことのある声が横から聞こえてきて、塾の入っているビルに入る足をふと止めた。
そんな私の元に、少し小走りで近づいてきた人。
友香里…さん…。
「陽菜ちゃん、久しぶり!」
「お、おはようございます…。」
思わずたじろいだ私を気にすることもなく近づいてくる。
「良かった〜!会えるか不安だったけど。この時間くらいに塾に行く様なこと、聞いてたからさ。」
「そ、そうですか…」
わざわざ、待ち伏せしてまで何を…。
より警戒心を強めた私にも、臆することはなく、ニコッと小首を傾げて見せる友香里さん。
「今日からヒロって、免許合宿じゃん?」
「あ…はい…」
「実は、それ、“羽純と一緒に二人で”行ってるんだよね。」
……え?
「そ、そう…なんですか?」
「ああ、やっぱり知らなかった?ヒロも流石にそこまでは言えないよね。
だって、二人きりだよ?周りはもちろん知らない人ばっかり。
あの二人、本当に仲良いっていうか…もう、恋人みたいなもんじゃない?陽菜ちゃんがそれを知らないのもねって思ってさ…。」
それってつまり…ヒロにいと羽純さんが、一緒に申し込みして、行くことにしてたってこと?
表情を固めたまま、瞬きも忘れて友香里さんの顔を見ている私に、ふうと少し呆れ顔をする。
「…ショックを受けてるとこ申し訳ないけど、『今更?』って思うけどな。」
今…更…。
「前から私、言ってたよね?羽純とヒロは仲がいいとか、ニコイチだって。特別なんだって。その位、側から見たら、一目瞭然なの。ヒロが羽純を好きだっていうのは。本人が気が付いてないだけでね。」
本人が…気が付いてない…。
ようやく少し動いたのは、瞼と首で、目線を少し友香里さんから外すことができたけれど。
その代わり脳裏に蘇る、今までのヒロにいの羽純さんへの言動。
…羽純さんの『特別』を否定しなかった。
羽純さんが「もっと話したい」と言えば、はっきりと断らなかった。
「困ってるから助けたい」とはっきりと言っていた。
羽純さんが謝った時も、「羽純は悪くない」って…。
ぐるぐると渦巻く記憶と気持ちに、さらに友香里さんの言葉が混ざり込む。
「…陽菜ちゃんもヒロにとっては特別なんだろうけどさ。それは単に幼馴染で長い時間一緒にいたから生まれた情みたいなもんだと思う。陽菜ちゃんは知らないだろうけど、羽純と一緒に居る時のヒロは本当に優しい良い顔してる。でもきっと、ヒロ自身は気が付いていない。陽菜ちゃんて存在がそこにあるから。
陽菜ちゃんはそれでいいの?大好きな『ヒロにい』が自分という壁があることでこの先ちゃんと真っ当な恋愛できなくても構わないの?それをわかっていても、ヒロを独占していたいわけ?」
不意に思い出した、旅行の時の羽純さんの言葉。
『開放してあげてほしい』
本当は…惹かれあっているのに…私が居るから、恋人になれない?
そうやって、今までもヒロにいの恋愛を無意識に邪魔してたって、こと…?
私は…ヒロにいにとって、邪魔な存在……だった。
目頭が熱くなって、目の前がぼやける。落ちそうになっている涙を唇に力を入れることで何とか耐えた。
ああ…私、本当にダメな奴だ。
ただ、自分の気持ちばっかり考えて、ヒロにいが大好きだから一緒に居たいからって甘えて。「卒業する」なんていいながら、ヒロにいの優しさにまた甘えて……何やってるの、本当に。
私は…ヒロにいのお荷物でしかなかったのに。
「山本さん?どうしたの?」
不意に、入り込んできた西山先生の声。
「え…?!うそ!法学部の西山さん?!」
友香里さんのキンとした声が頭に響いて痛みを覚えてハッとした。
「私も相央大学なんです!えー!陽菜ちゃん、西山さんと知り合いだったんだ!言ってよー!」
私の顔色なんて、気にしないのか友香里さんはテンションが上がり嬉しそうに私の背中をバシバシ叩く。
そんな私と友香里さんを西山先生は交互に見ると、穏やかではあるけれど真顔でゆっくりと口を開いた。
「…俺は、山本さんの勉強を見てる塾講師なだけなんで。」
「そうなんですね!私は…「山本さん、大丈夫?行こうか。」
友香里さんの言葉を遮って、私の背中をそっと押す西山先生。それから少し振り返って、やっぱり笑顔は見せずに友香里さんの方を向く。
「…悪いけど、こんなビルの前で騒がれたら、迷惑だから。」
「す、すみません!西山さんにお会いできてお話できるなんて夢にも思わなかったから、興奮してしまって。陽菜ちゃんまたね!あ、私、陽菜ちゃんと仲良しなんです!」
「そうなんだ。仲良しな割に、山本さんの状況がちゃんと見えていない様だけど。とにかく、今日はここまでにしてもらえる?」
友香里さんを残し、私をビルの中へと押して入る西山先生。私は、ただ、その少し背中を押してくれる大きな手のひらにしたがって歩を進めた。
「…大丈夫?」
西山先生は、そのまま教室ではなく、まだ開放されていない自習室へと私を連れていって椅子に座らせると、自分は机に寄りかかり、小首を傾げた。
い、いけない…迷惑かけちゃった…。
少し下を向いて、キュッと唇を硬く結んだ。
「す、すみません…その…思いがけない人と遭遇して、ボーッとしてしまって…。」
「今の子に何か言われたんじゃなくて?」
「い、いえ…その…」
ど、どうしよう…言葉を発してしまうと…涙が溢れてきてしまう…。
「…今日はとりあえず帰ったら?」
「そ、それはだめ!」
思わず、顔を上げて勢いよく言ったら、西山先生は、一瞬目を見開いた後、苦笑い。
「…真面目過ぎ。」
もたれていた机から体を起こすと、私の頭に大きな手のひらをポンと乗せた。
「良いんだって、不安定でも。人間なんだから…ってなんか俺、某有名詩人みたいなこと言った?パクリ疑惑。」
柔らかいその微笑みに気持ちが溢れて、口がへの字になって、涙がぽたんて落ちた。
その長めの指が、私の髪をスルスルと撫でる感触に、余計に涙が溢れ出る。
また下を向いてスンと鼻を少しすすった。
「…前に俺が『受験勉強って過酷』って言ったの覚えてる?今の山本さんは、その渦中にいるわけじゃん。でも、それにも関わらず辛いなんて言わずにここまですげー頑張ってたわけでさ。だから一回くらい気が抜ける瞬間があっても良いんじゃない?って話。」
「で、でも…まだ、相央大学A判定に全然届いてないし、休むわけには…。」
「精神的に不安定なまま勉強しても効率悪いって俺は思うけど。それこそ、そんな片手間でやって成績上がるほど受験は甘くないって話でね。」
「それは…」
「うん。」
「…その通りです。」
口を尖らせながら、答えた私にハハって笑う西山先生。ポンとまた軽やかに私の頭を撫でる。
「んじゃ、今日は帰りな。明日は家庭教師の日だし休みでも良いけど、とりあえず様子見に行かせて。先生、心配。」
「…はい。」
お、良い返事。と笑いながら、「塾長には言っておくからね。」と先に自習室を出ていく西山先生。
その背中を見送ってふうとため息をついて気が付いた。
あんなに悲しくて、現実が嫌でどうしようもなかったのに。
今は、涙が止まってる。
スッと静かに席を立って、椅子を戻す。
…どうしたら良いかまだ全然わからないけど、とにかく今日は一旦家に帰って休もう。
家に帰ると、リモートワーク中だったお母さんが、驚いて出てきてくれて。
それに、「ちょっと体調悪くて帰ってきちゃった。寝不足かも」と笑顔で答えたけど。
心配の色だったお母さんの表情は、穏やかな笑顔に変わって、私のそばにくると、背中を撫でて「そっか。頑張ってるもんね。休みな」とそれだけ言って、「お母さんもヒナを見習って頑張る!」とまた自室に戻って行った。
その優しさが嬉しくて、鼻の奥がツンとする。
…ありがとう、お母さん…西山先生も。
部屋に入ってドアを閉めて、ベッドに腰を下ろしてふうとまたため息。そのままゴロンと寝っ転がった。
何の変哲もない天井に、私を上から見下ろす去年の夏のヒロにいを思い出す。
“お前は俺のでしょ?”
形の良い小ぶりな薄めの唇が綺麗に弧を描き、まっすぐ私を見ていたヒロにいの目は確かに穏やかだった。
…あの言葉は真実で、事実。
その事に疑う余地はなく、今まで過ごしてきた。
私は、ずっとヒロにいが大好きで、ヒロにいが世界の中心で…ずっとずっと…。
けれど、側から見ればそれは狭き世界の出来事。
そして違和感しかない関係で…ヒロにいは感覚が麻痺しているって…。
目頭が熱くなって、視界がぼやけ、唇がまたへの字に曲がる。
咄嗟に、腕で目を覆った。
「…っ」
それでも、溢れ出てくる涙。
“羽純とヒロ、今二人で合宿行ってる”
…もちろん、それ自体もショックな事ではあるけれど。
一番ショックなのは、ヒロにいが私にそれを言わなかったという事実。
友香里さんの、“本人が気がついていないだけでヒロは羽純が好き”と言う言葉を裏付けるだけの出来事。
きっと…ヒロにいは、羽純さんと居たいと思ってる。けれど私を優先すると言う感情が支配していて、どこかで無理をしているんじゃないのかな。
やっぱり…私が邪魔者…なんだ。
いくら拭っても出てくる涙。
堪えようと思っても、余計に溢れ出てきて、悲しさが込み上げる。
ぼやけた視界の中に、ヒロにいの笑顔がどんどん鮮明に蘇って、結局その日は、布団を被ったまま何もできずに夜を明かした。
.
「…さん?」
「…菜?」
どの位時間が経っていたかは定かじゃなくて、暗い布団の中で、数人の声が耳に聞こえてきて意識を取り戻す。
あれ…私……。
そうか…泣いたまま…布団かぶって寝ちゃったんだ。
「…陽菜?」
あ…お父さんの声だ。
お夕飯にも降りて行かなかったから、心配したよね、きっと。
「お父さ…」
ばさっと掛け布団をあげて起き上がった途端、ハッとした。
「に、西山先生!」
慌ててまた布団の中に逆戻り。
私今、絶対酷い顔してるし、髪もボサボサだし…
「お、お父さん!どうして一緒に来ちゃったの?!」
「ああ…ごめん。家庭教師の時間だし、昨日から陽菜の様子がおかしいから、西山先生も心配しててね。西山先生が居た方が陽菜が色々話をしやすいかと思って。」
「………。」
…さすが、お父さん。私が西山先生には色々話しやすいってちゃんとわかってたんだ。
だ、だけど…泣き腫らして瞼が腫れまくってて、顔も浮腫んでるだろうし…こんな姿を西山先生に見られるのは恥ずかしすぎる。
出るに出られない私を見かねてか、西山先生が、「僕、ちょっと出てきますね」とお父さんに話している。
「…山本さん、また1時間位したら来るから。」
そういうと、「すみませんね」と言うお父さんと一緒に部屋を出て行く。
パタンと言うドアの閉まる音を確認した後、むくりと起き上がった。
…やばい。本気で目が途中までしか開かない。
ふうとため息をついてからぽつりと呟く。
「…冷やそ。」
立ち上がると、昨日よりは何となくその一歩が軽い気がする。
けれど、やっぱり昨日の友香里さんの言葉とヒロにいのことを思い出すと気持ちがズシンと重たくなる。
今頃…羽純さんとヒロにいは私に邪魔されることなく、心置きなく楽しめてるのかな…。
また目頭が熱くなってきて、思わずスンと鼻を啜った。
…とにかく支度しなきゃ。私は受験生なんだから。昨日は西山先生の提案に甘えたけれど、そう何日も甘んじているわけには行かない。
自分で決めたんだから。
ヒロにいを卒業して、自分の世界を切り開くって。
だったら、ちょうど良い機会じゃん。
私は、ヒロにいから離れて、ヒロにいは私から解放されて、本当に恋人にしたい人と一緒にいられる。
視界が勝手にぼやけて、躊躇なくポタポタと涙が溢れ出てくる。
そうだよ…私は、ヒロにいが大好きだもん。ヒロにいが幸せになるならそれが一番じゃん。
私は…私の道を頑張らないと。
ヒロにいが…私の事なんて忘れる位に…ならないと…。
「く…っ…ううっ…」
ヒロにいが私の存在を忘れるということに、もの凄い絶望感と悲しさが襲ってきて、そのまままたラグマットの上に崩れ落ち、床に突っ伏した。
溢れ出てくる涙をそのままに、両手をギュッとこぶしに変える。
頑張れ…頑張るんだ。
私がここで頑張らないと、ヒロにいはいつまで経っても、今のまま…だもん。
自分にそう何度も言い聞かせて。
そのまま30分ほどいただろうか。もう何度目かわからない息をふうと吐いたところでようやく体を起こせた。
…大丈夫。こうやって一つずつ進もう。
立ち上がると、そのまま下へと降りていって冷水で顔を何度も洗う。その間も目頭が熱くなって溢れ出てくる涙。
洗面台の鏡に映る顔を見て、自嘲気味に笑う。
「…すっごいブス。」
また涙が落ちてきて、思わずタオルで顔を覆った。
…今日は無理だな。西山先生に会うの。こんなみっともない姿を見られたらちょっと嫌かも。
とりあえず、肌と髪を整えはしたけれど、散々なその顔にふうとまたため息。
部屋に戻り、扉を閉めるとスマホを手に取った。そのまま、西山先生にメッセージを打つ。
『すみません、やっぱり今日はお休みさせてください。』
『そっか。わかった。けど、もうそこまで帰って来ちゃってるから、少しだけドア越しで話してもいい?』
ドア越し…。
とはいえ、今日は誰かと話せるような気分でもないんだよな…でも、来てもらってるのを追い返すのも失礼かな…。
『5分だけ話したら、今日は帰るから。』
『わかりました』
返事をすると、いつも西山先生が使っている“了解”と言う馬と鹿の面白いスタンプがポンと帰ってきて、何となくそれにホッとした気がした。
程なくして、自室の部屋のドアがコンコンとノックされる。
『山本さん、話しても大丈夫?』
別に、そうした方がいいわけではなかったのかもしれないけれど、何となく西山先生のいつも通りの優しく柔らかい声色に吸い寄せられるようにドアへと体が向かった。そのまま、ドアの前に腰を下ろす。
「西山先生…すみません、ご迷惑をおかけして」
『いや?それは大丈夫。おかげで、この1時間で、気になってた近くのケーキ屋で買い物できた。』
思いがけない返答に、思わずキョトンとして、その後『返しが西山先生らしいな』と頬が緩む。
「…もしかして“coco”って言うケーキ屋さんですか?」
「そう!すごいよね、今時、個人のケーキ屋でショートケーキが350円てさ…って、ケーキ全部一律350円なんだね、あそこ。シュークリームは200円だったけど。」
「私のお勧めはシブーストです」
「おっ!そうなんだ。買って来たから後で堪能するわ。」
ふふふと思わず笑ったら、「山本さん」とまた優しい声がドアの向こうから聞こえる。
『山本さんはさ、“何のための受験か”よく考えた方がいいよ。』
少し浮上していた気持ちがズキンと少し痛みを覚え、また少し目頭に熱さを覚えた。
…けれど。
「そ、それは…」
『“自分の為の受験”って答える?』
…え?
西山先生の問いにその熱さは引っ込む。
「えっと……」
だって、進路だから。誰のものでもない、私の進路…。
私が、自分の為に受験をするのであって、それを他の誰かの為だなんて言ってはいけない…よ…ね………。
西山先生が言わんとしていることが、いまいちわからなくて、小首を思わず傾げてしまう。
答えの出ない私をしばらく待ってくれていた西山先生が「じゃあさ」と先に言葉を発した。
『山本さんに宿題』
「は、はい…」
『今日が金曜日でしょ?次の家庭教師が月曜日だから…今日から三日間で、山本さんが“会いたい”と思う人に“複数”会ってきて』
え…?
「ど、どうして…」
『や、だから宿題だって。それとも、山本さんは、会いたい人は彼氏だけ?』
それは…
ふっと頭の中になつみやさあちゃん、早川や若菜ちゃんの顔が浮かぶ。
「…違います。」
『だったら、できるね、宿題。でもちょっと頑張らないと大変じゃない?3日間て結構短いよ?今日はすでに半日終わってるしね。月曜日の午前中も含めたらまあ、まる3日間になるか。』
た、確かに…私が会いたい人って、結構忙しいかも。なつみやさあちゃんは塾があるだろうし、早川は…何やってるのかよく知らない。若菜ちゃんに至っては、もっとわからない…。
『宿題だからね!終わらなかったら、もっと厳しい課題を用意するから。回避のためにも頑張って。』
じゃあ、今日は帰るねと言ってドアを離れ、階段を降りていく音がする。
私が“今”会いたい人…か…。
「………。」
“宿題ができなかったら、もっと厳しい課題を用意する”
西山先生がそう言うと言うことは、本当に多分、ものすごい課題になる…よね。
ここは、回避のためにも会いたい人に会わねば。
……よし。
意を決してスマホを手に取る。
「あ……」
昨日の日付でヒロにいから着信が何度か。
それとLINEのメッセージと教習所の中と思われる写真。
……当然だけど、羽純さんとのことは書いてないな。
「……。」
“会いたいのは彼氏だけ?”
……いや、どちらかというと、ヒロにいは今は会いたくないかも。
会って何を話したらいいかもわからないし…。
とりあえず、『電話に出られなくてごめんね。模試前で忙しいから電話は無理かも』と多少の嘘。
…まあ、9月に模試があるからそんなに嘘ではないけど。
『車の教習頑張ってね!』とメッセージを送り、そのままトーク画面を閉じる。
まずは…なつみとさあちゃんだな。
3人のトーク画面を開いて、二人に『会いたい!』とメッセージ。スタンプも押して予定を確認。
それから、早川と若菜ちゃん。
『二人に会いたいんだけど、若菜ちゃんて会えたりする?』
後は…中学時代の友達とか!そういや部活の友達に連絡してないな、最近…。
まあ、“スイーツ部”だったからゆるい部活ではあったけど。インスタで繋がってる子に連絡してみようかな。この前のバレンタインの時、ケーキ作りの話でめっちゃ盛り上がったし。
色々と考えて、浮かんだ“会いたいかも”と思った人達に連絡をして、それから立ち上がる。
…まず会いたい人は、やっぱり。
ドアを開けると、そのまま下へと降りていく。
リビングを開けると、ちょうどキッチンに飲み物をとりにきていたリモートワーク中のお父さんの姿。
「お父さん」
「おっ!陽菜。陽菜もコーヒー飲む?西山先生からシュークリームも頂いてるよ。」
ニコッと笑うと、「あー肩凝った」って頭を一回転。
そのいつもと変わらないやり取りと雰囲気にホッとして、鼻の奥がツンとする。
西山先生…シュークリームくださったんだ…。
「お母さんて、今日は遅いの?」
「いつも通りじゃない?」
「そっか…じゃあ、私が夕飯作るよ!」
「え…いいの?お前が一番忙しいだろ。」
そんなふうにサラリと言われて、思わず目を見開く。
お父さん…そう思ってくれてたんだ。
「でも作ってくれるなら嬉しいかも!」とニコニコしてるお父さんに、目頭が少し熱くなった。
『いつも頑張ってるから、休むのも大事ね』
昨日そう言ってたお母さんを思い出す。
そっか…私の頑張り、ちゃんと見てくれてるんだな。
「腕によりをかけて作る!」
「おお…じゃあ、肩凝ったとか言ってる場合じゃないじゃん!シュークリームも食後まで我慢だな。これから会議だけど、絶対、巻で終わらせるわ!」
そう言って、コーヒー片手に自室へと戻っていくお父さんに、ふふっと頬が緩んだ。
…よし、まずは二人はクリア。
お母さんにも今日の夕飯で会えるし。
お父さんが入れてくれたコーヒーのマグを持って、スマホを見ると、なつみとさあちゃんから返信が来ていた。
『お疲れ〜!』
『会いたーい!』
ハートいっぱいの二人のスタンプにまた頬が緩む。
『明日か明後日どう?』
『土日両方とも、昼間は予備校だなー』
『私も…あ、でもうち来る?』
さあちゃんが、猫がひらめきを得た表情のスタンプをぽこんとつけてくる。
『えー!行きたい!いいの?』
『うん!ぜひ!』
なつみも盛り上がって、「じゃあ、めっちゃ美味しいお菓子持ってく!」と意気込んでる。
嬉しい…かも。このタイミングでお泊まり。
もちろん、次の日も皆んな勉強があるから、徹夜で話すとかはできないだろうけど。
私も、わーい!ってスタンプを押したら、またスマホがメッセージの受信を知らせる。
あ…早川。
『ヒロにい居ないから暇なのかよ。甘えんな!…と言いたい所だけど、お前に会いたいって言ってる人が居るから丁度いいかも』
私に…会いたい人??
全く思い浮かばなくて、少し首を捻る。
誰…だろう??
『明日か明後日なら、明日の15時とかでも良い?申し訳ないけど、場所も指定で。』
送られてきた、URLを開いてみると…
あ…ここって、ヒロにいのバイト先……。
もしかして、早川、明日バイトなのかな。
そう思ってたら、また送られてくるメッセージ。
『それから、若菜と会うの、学校の図書館でよければ月曜日の午前中会えるよ』
…やった。若菜ちゃんにも会えるんだ。
嬉しくなって、スマホをギュッと握りしめる。
よし、じゃあとりあえず夕飯の買い出しに行こう…。
コーヒーカップを洗って伏せたらまたスマホが鳴る。
『久しぶり!』
今度は、中学の時の同級生…ちーちゃん。
それにまた、頬が緩んだ。
…皆、優しいなあ。返信すぐくれて。
.



