たとえ世界に誰もいなくなっても、きみの音だけは 忘れない

「療法室のピアノを借りたから、一緒に行こう」

 蓮が手を差し出すと、詩音は嬉しそうに笑ってその手を取ってくれた。以前よりも細くなったその指を、蓮はしっかりと握り返した。

 
 車椅子に詩音を乗せて、蓮はゆっくりと療法室を目指す。出会う人全てが初対面という世界で、詩音は今日も生きている。一人きりの世界が詩音の目にどう映っているのかは分からないけれど、彼女はいつも穏やかな笑みを浮かべて日々を過ごしている。
 それでも全ての人の記憶を失って以来、詩音はうとうとと眠っている時間が増えた。体調に変わりはないけれど、活動量が減ったからか、もともと華奢な身体は更に細くなったように思う。
 
 いずれは、眠りから目覚めなくなる日が来るかもしれないというのは、主治医の金居の見立て。
 このまま詩音が眠り続ける日が来るのが先か、それともこの病の治療法が見つかる日が先か。
 どちらにしても、蓮は出来る限り詩音のもとを訪ねると決めている。


「詩音ちゃん、聴いててね。きみのために弾くから」

「うん、ありがとう」

 詩音の笑顔にうなずいて、蓮はピアノに向かう。毎日のように繰り返される、このやりとり。
 だけど、詩音にとっては初めての経験なのだ。

 低く深い音から始まるアルペジオも、儚く消えてしまいそうに美しいメロディも。
 蓮は毎回、心を込めて音を紡ぐ。言葉で伝えきれないほどの想いを、音に乗せて。