たとえ世界に誰もいなくなっても、きみの音だけは 忘れない

 久しぶりに会った本間とお茶をして帰るという母親と別れ、演奏が途切れたタイミングでホールへ入ろうと蓮がドアを開けたところで、中から雛子が飛び出してきた。その表情は、泣く寸前のように歪んでいる。

「蓮……っ、詩音が……」

「え?」

「来て」

 雛子に腕を引かれ、蓮は詩音の座る座席へと向かう。
 振り返った相馬が、唇を噛んで視線で詩音を見ろと促した。
 ゆっくりと詩音の方に視線を向けた蓮は、思わず息をのむ。

 座席にもたれかかるようにして、穏やかな表情で眠る詩音。その頬には、幾筋もの涙の跡が残っている。

「蓮くんの演奏が終わってすぐ、眠ってしまった」

 相馬の言葉を聞きながら、蓮は詩音の隣に座ってその手を握った。あたたかいけれど、握り返してくれることのない手に、胸が詰まる。
 昨晩は一睡もしていないのだから、きっと限界だったのだろう。蓮の演奏が終わるまではと、必死に起きていてくれたのかもしれない。
 だけどきっと、目覚めた詩音は、蓮のことを覚えていないだろう。
 最後に向けられた、泣き笑いのような表情を思い出して、蓮はこみ上げた涙を堪えてうつむいた。