たとえ世界に誰もいなくなっても、きみの音だけは 忘れない

 そう想いを込めて鳴らした一音目は、低く深い音を響かせる。
 静かなホールに広がっていく、アルペジオ。
 と同時に、客席が微かにざわついたのが分かり、蓮は小さく苦笑を浮かべた。

 蓮が弾き始めたのはコンクールの課題曲ではなく、詩音が好きな、リストの『ため息』。
 途中で止められる可能性だってある。本間や母親にはきっと怒られるだろう。
 だけど、詩音に最後に聴いてもらう曲は、やっぱりどうしてもこの曲でありたかったのだ。

 切なく美しいメロディに、蓮は詩音への想いを乗せて奏でる。
 出会った時からずっと、いつも輝くような笑顔を見せてくれていた詩音。記憶を失くすという恐怖に怯えないはずはないのに、ほとんど涙を見せずに明るく生きていた詩音。

 彼女が蓮の名前を呼ぶ時の柔らかな声が、たまらなく好きだ。
 蓮の弾くピアノを、頬を紅潮させて喜んでくれるその笑顔に、どれほど心を奪われたことか。

 詩音のために蓮ができることなんて、ほとんどない。
 だから、せめてこの音だけは彼女の心に残るように。
 きらきらとした光のような音だと言ってくれた詩音のためだけに、蓮は鍵盤の上に指を走らせる。
 指先が奏でた音は、きらきらと輝きながら詩音の方へと向かっていく。まるで光の粒が転がるような、美しく魅力的な音。

 あぁ、この響きだ。これを求めていたのだと蓮は笑みを浮かべた。
ありったけの想いを込めたこの音が、詩音の心の中に染み込んでいくようにと願いながら、蓮は壊れそうなほどに繊細な響きで高音を鳴らす。

――俺のことを忘れても、この音だけは覚えていて。