たとえ世界に誰もいなくなっても、きみの音だけは 忘れない

 翌日、蓮は病院の正面玄関で雛子と待ち合わせをした。
 先に着いた蓮のもとに、酷く緊張した表情を浮かべた雛子がゆっくりと近づいてくる。

「おはよ、蓮」

「ん、おはよ」

 短く挨拶を交わして、二人は詩音の病室へと向かう。
 コンクールの時でもこんなに緊張しないのに、心臓が今にも口から飛び出してきそうだ。

 詩音は、二人どちらかの記憶を失っているだろう。そしてそれはきっと、蓮だ。詩音と雛子の間には深い絆があることはよく分かっているし、共に過ごした時間の長さが圧倒的に違う。
 だけど、詩音が蓮のことを忘れていても、また初対面から始めればいい。そして彼女の笑顔のために、何度だってピアノを聴いてもらおう。
 昨夜、相馬に話を聞いてから、蓮はそう覚悟を決めていた。

 
「多分ね、詩音はヒナのこと忘れてると思う」

 エレベーターの中で、お互い前を向きながら雛子がぽつりとつぶやいた。
 思わず雛子の方を見ると、彼女は淡々とした表情のまま階数表示を見つめている。

「蓮は、詩音にとって特別だから。あたしにとっての悠太くんと同じ。意味、分かるでしょ」

「それは……」

 言葉に詰まった蓮が口を開く前に、エレベーターは最上階へと到着する。
 蓮と同じように覚悟を決めた表情の雛子は、先に歩き出した。
 それでも、扉の前でノックのために握りしめた手は、微かに震えている。
 いつも通り三回ノックしたあと、雛子はゆっくりと扉を開けた。