たとえ世界に誰もいなくなっても、きみの音だけは 忘れない

 鍵を開けた中は、診察室よりも少し広い部屋。窓際にアップライトピアノが置いてあって、詩音はまっすぐにそこへと向かった。

「ね、ピアノあったでしょ? 何か聴かせて」

 蓋を開けてキーカバーを除け、椅子まで引いて詩音は蓮を手招きする。

「……入院、してるんだ」

 ぽつりとつぶやいた蓮の声に、詩音は唇に人差し指を当ててみせた。

「ふふ、今はまだ秘密。ピアノ弾いてくれたら、教えてあげる」

 悪戯っぽい笑顔を見せる詩音は細く華奢ではあるものの、不健康そうには見えない。だけど、先程の看護師は『午後の検査には部屋に戻っていて』と言っていた。
 何か事情はあるにせよ、先程の看護師との会話を考えれば深刻な病状ではないのだろう。重病人を、こんな風に一人で自由にうろつかせるとは思えないから。

「……何がいい?」

 蓮の言葉に、詩音は目を輝かせた。

「あれ、あれがいい! リストの『ため息』!」

「いきなりすげぇ難しいのもってきたな」

「……だめ? 弾けない?」

 詩音が少し残念そうな表情になったのを見て、蓮の負けん気に火がついた。最近弾いていないけど、指が覚えているはずだ。

「弾ける。――聴いてて」

 短くそう言って、蓮は椅子に座る。そして一度深く息を吸うと目を閉じた。
 ゆっくりと、低く流れるように響くアルペジオに、すぐそばに立つ詩音が息をのんだのが分かる。
 してやったり、という気持ちになって、思わず小さく笑みが浮かんだ。

 うねるような伴奏と、甘く切ないメロディ。
 時に激しく、時には壊れそうなほどに儚く。
 蓮の指は、鍵盤の上を自由に駆け回る。

 最後の和音をゆっくりと鳴らして鍵盤から指を離した瞬間、大きな拍手が響いた。

「すごい……! 泣きそう! めちゃくちゃ素敵だった……!」

 興奮で頬を赤らめた美少女に全力で絶賛されて、蓮も悪い気はしない。

「前に弾いて、俺も好きな曲だったから」

 照れ隠しでそっけなくつぶやくも、詩音はまっすぐに蓮を見つめて微笑む。

「私も大好きな曲なの。手がくるくる動いて、やっぱり魔法みたいだった! 本当にありがとう。えぇと……」

 詩音が首をかしげ、名前を聞かれていることに気づいた蓮は、小さく笑って詩音を見上げた。