たとえ世界に誰もいなくなっても、きみの音だけは 忘れない

 触れ合った唇は驚くほどに柔らかくて、どこかいい匂いがした。
 緊張のあまり頬が震えるのを感じて、蓮はそっと詩音から離れると口元を覆った。
 そうしていないと、にやけた顔を彼女に晒してしまう。

「えへへ、ファーストキスの思い出、もらっちゃった」

 詩音も照れたように笑ってそんなことを言う。
 だけど、すぐにうつむいてため息をついた。

「あーあ、覚えていたいな、蓮くんのこと。忘れちゃうなんて、嫌だな。こんなに大好きって気持ちが身体中にあふれてるのに、それがなくなっちゃうのが怖いよ。なんでこんな病気になっちゃったのかなぁ」

 必死に明るく振る舞おうとする詩音が痛々しくて、蓮は黙って首を横に振ることしかできない。
 想いが通じ合って幸せなはずなのに、二人の未来には別れしかない。近い将来、詩音は蓮のことを存在ごと忘れてしまう。どんなに願っても、それを止める術は、ないのだから。

「先に謝っておくね、蓮くん。ごめんね。本当は、この気持ちも伝えるべきじゃなかったよね。だけど、好きなの。黙っていられなかったの」

 さっき見せた笑みは、もう消えてしまった。詩音はふたたび涙をこぼし始める。
 彼女の心は、もう限界に近いのだろう。
 蓮は、もう一度詩音を抱き寄せた。

「謝らないで、詩音ちゃん。俺のことを好きになってくれて、それを教えてくれて、嬉しかったから」

「どうか、私が蓮くんのことを忘れても……嫌いにならないで」

 しゃくりあげながら伝えられた言葉に、蓮は唇を噛む。
 そして、冷たい詩音の手を両手で握りしめた。

「嫌いになんて、ならない。ずっと好きだから」

「私、蓮くんのことも忘れちゃうのに? きっと、あなた誰って言ってしまうのに?」

 涙声で言い募る詩音に、蓮は笑ってうなずくと、震えている彼女の身体を安心させるように抱きしめた。

「それでもいい。毎日、俺と出会って。はじめましてって挨拶して、それから仲良くなろう。大好きだって、何度でも伝えるよ」 

「ピアノも聴かせてくれる?」

 まだ涙声で、願うように詩音は囁く。

「もちろん」

 強くうなずいた蓮を見て、詩音の顔にわずかに笑みが浮かんだ。

「蓮くんの音なら、忘れないと思う。誰が弾いてくれたかは忘れちゃうかもしれないけど、きらきらした光みたいな蓮くんの音は、きっとずっと覚えてる」

「うん。俺のピアノは、詩音ちゃんのために弾くから」

 その言葉に、詩音は小さく声をあげて笑った。

「蓮くんのピアノをひとりじめしちゃうなんて、贅沢で素敵」

 ようやく戻った笑顔を引き止めるように手を握り、蓮は詩音をじっと見つめる。

「明後日さ、聴きにきてよ。俺、頑張るから」

「コンクール?」

「そう。詩音ちゃんが泣いちゃうくらい、きらきらした音で弾くって約束する」

 蓮は、そう言って小指を差し出した。詩音は驚いたように一瞬目を見開いたあと小さくうなずき、おずおずと細い指を絡めた。

「うん。楽しみにしてる。絶対に忘れないから」

 その言葉がどれほど頼りない約束か、お互い分かっているけれど、二人は黙って強く小指を絡ませた。
 そして指を繋いだまま、約束を誓うようにもう一度だけキスをした。