たとえ世界に誰もいなくなっても、きみの音だけは 忘れない

「詩音、ちゃん」

 ハッと振り返った先、歩道橋の上に青いワンピースを着た小さな姿が見える。顔までは見えないけれど、夜の闇に溶けそうな黒髪も、細く華奢な姿も、間違いない。
 恐らく蓮のことには気づいていないであろう詩音は、眼下を駆け抜ける車のライトに吸い寄せられるように手すりから身を乗り出した。

「待っ……!」

 その瞬間、蓮は無我夢中で駆け出した。
 相当な距離があったはずなのに、気がつけば歩道橋の階段を二段飛ばしで駆け上がっている。


「詩音ちゃん……っ!」

 目の前に迫った青いワンピースの裾が、風に踊るように浮き上がったような気がして一気に血の気が引く。
 必死に手を伸ばし、細い腕を掴んだ瞬間、詩音の小さな悲鳴が聞こえた気がした。

「蓮、くん?」

 驚いたような声がすぐ近くで聞こえて、腕の中にしっかりと詩音を抱き込んでいることに気づいた蓮は、慌てて身体を離す。

「ごめん……、あの、俺」

「探しに来てくれたの? 見つかっちゃったな」

 少し残念そうに笑う詩音は、やはりわざと姿を消したのだろう。

「ごめんね、何かモヤモヤして勝手に出てきちゃった」

 そうつぶやいて、詩音は手にしたコーヒーショップの紙袋を掲げてみせた。

「この前蓮くんと飲んだやつ、もう販売期間終わってた。新しい限定のを買ってみたけど、一人だと美味しくないね」

「あ……、うん」

 曖昧な相槌を打つ蓮を見て、詩音はくすりと笑う。

「……飛び降りるかと、思った?」

 心の内を言い当てられて、蓮は思わず言葉に詰まる。詩音は小さく笑って下の道路を見つめた。

「それもいいかなって、思ったけどね。でも、色々と迷惑かけそうだからやめたの」

 痛そうだし、とつぶやいて、詩音は手すりをそっと撫でる。

「だけどもう、消えちゃいたいなとは思う。皆のこと忘れる前に、私が消えてしまえば、これ以上誰も忘れないじゃない」

 震える声で小さく叫ぶように言って、詩音は手すりを握りしめる。彼女が今にも手すりを乗り越えてしまいそうな気がして、蓮は上からその手を強く握った。