たとえ世界に誰もいなくなっても、きみの音だけは 忘れない

 金居の記憶を失くして以降、詩音は時々沈み込んだ表情を見せることが増えた。もちろん蓮や雛子の前では明るく振る舞っているものの、ふとした瞬間に暗く陰のある遠い目をするのだ。
 そして、まるでこれ以上誰の記憶も失いたくないというように、詩音は手帳を肌身離さず持ち歩くようになった。中身は誰にも見せようとしないけれど、恐らくは今覚えている人たちとの思い出を、必死に書き留めているのだろう。


「じゃあ、そろそろ俺、行くね」

 時計を確認して蓮が立ちあがろうとすると、詩音が酷く不安そうな顔をした。だけど蓮と目が合った瞬間その表情はかき消えて、代わりに明るい笑顔が浮かぶ。

「忙しいのにありがとね、蓮くん」

「また明日も、来るから」

「うん。約束」

 差し出された小指を絡めて、お互い何度か上下に振る。
 いつもより指先が離れていくのが遅くて、名残を惜しむようなその仕草がまるで離れたくないと言われているような気がした蓮は、思わず小さく首をかしげた。

「詩音ちゃん?」

「何でもない、また明日ね」

 にこりと笑った詩音が、ぱっと手を離す。指先に残ったぬくもりを、蓮はそっと握りしめる。
 笑顔で手を振る詩音に見送られながらも、その顔は泣く手前のように見えて、蓮は妙に騒ぐ胸を押さえながら病院をあとにした。