たとえ世界に誰もいなくなっても、きみの音だけは 忘れない

 足を止めた詩音の気配に驚いたのか、庭木に止まっていた蝉が耳障りな音を響かせて飛び立っていく。
 ぼんやりとそれを見送って、詩音は唇を歪めた。

「……なんて、そんな重荷を背負わせるわけにはいかないよねぇ。ただでさえ、負担かけてるのに」

 誰に聞かせるでもなく明るい声でそう言って、詩音はふうっと息を吐いた。
 蓮にはこれから輝かしい未来が待っているはずで、詩音が引き止めていいはずがない。

 あの笑顔も、優しい声も、きらきらした音も、いつか違う誰かのものになるのだ。
 分かっていても、胸が痛む。
 彼のそばに自分ではない誰かが寄り添うことなんて、考えたくもない。
 でも、どんなに苦しくても、蓮のことを忘れてしまうよりはずっとましだ。


「ずっと、このままでいたいなぁ」

 ほとんど吐息のような声で、詩音はつぶやいた。
 時間が止まればいいのにと、何度願ったことだろう。

 蓮も、雛子も、そして悠太も。皆、詩音に会う時にはとても緊張した顔をしている。
 自分のことをまだ覚えているのだろうかと探るような視線に、いつもいたたまれない気持ちになる。

 そして、先程病室を訪ねてきた医師は、恐らく詩音が記憶を失った相手。
 金居と名乗ったあの男性医師の顔に見覚えはないし、全くの初対面だと思うけれど、蓮や雛子の顔が微かにこわばったことから、彼が親しい相手であったことは想像できる。

 きっとあの医師のことも、詩音は傷つけたのだろう。
 詩音が医師のことを忘れていることに気づかないよう、普段通りに振る舞ってくれる二人の優しさに感謝しながら、同時に申し訳なくてたまらなくなる。

 いつか、あの二人のことも忘れてしまうのだから、本当は距離を置くべきなのだと思う。
 会わなければ詩音は彼らの記憶を失ったところで気づかないし、『あなたは誰?』なんて酷い言葉をかけずにすむ。
 だけど、大好きな人に会える喜びを、共に笑い合えるこの貴重な時間を、どうしても詩音は手放すことができなかった。
 近い将来、二人を深く傷つけることが分かっているのに、それでも会いに来てくれる彼らの優しさに、詩音は甘え続けている。
 手のひらからこぼれ落ちていくような、詩音の記憶。
 もう、残っているのはあとわずか。