たとえ世界に誰もいなくなっても、きみの音だけは 忘れない

 バスに乗った蓮を見送って、詩音はゆっくりと病室へ向かう。
 もしかしたら雛子と悠太がいい雰囲気になっているかもしれないから、時間稼ぎのためにいつもより遠回りをして中庭を通っていくことにした。


「……蓮くんに会ったの、ここだったな」

 中庭のベンチを見つめて、詩音はつぶやく。

 記憶を失っていくばかりの中で、詩音が忘れることなく覚えていられた人。
 優しくて、ちょっとはにかんだ笑顔が可愛くて、だけど詩音よりもずっと大きな手は、やっぱり男の子なんだなと思う。
 あの指先が紡ぐ音は、詩音をいつだって魅了する。
 どんどん誰かの記憶と思い出を失って、誰もいなくなっていく詩音の世界を照らす、きらきらとした音。
 彼の弾くピアノを聴いていると、何も怖くないという気持ちになれる。

――まるで、蓮くんの音に包み込まれてるような気がする……なんてことは、絶対に言えないけど。

 ほのかな恋心を抱いていることだって、彼には決して告げられない。
 詩音は、いつ彼の記憶を失うかも分からないのだから。

――だけど、もしも好きだって告白したら。そうしたら蓮くんは、私のことをずっと覚えていてくれるかな。

 詩音が想いを告げれば、それは蓮を縛りつける呪いになる。
 想いは叶わなくとも、優しい彼はきっと詩音の気持ちを笑って受け止めてくれる。
 そうして、蓮の心のどこかに詩音の存在を刻み込みたい。
 自分はいつか蓮のことも綺麗さっぱり忘れてしまうのに、なんて自分本位な願いだろうと思うけれど。