たとえ世界に誰もいなくなっても、きみの音だけは 忘れない

 重苦しい気持ちでレッスンに向かったものの、気持ちは音に出る。

「――もう、いいわ」

 弾いている最中に止められて、蓮は黙って鍵盤から手を離した。指摘されるまでもなく、腑抜けた音なのは分かっている。

「どうしたの、蓮。本番は来週なのよ。音だって濁ってしまってるし、ミスも酷いわ」

 ため息をついて蓮の顔をのぞき込んだのは、師の本間だ。彼女には、幼稚園の頃からずっと師事している。
 母親の音大時代の先輩だという本間は、ピアノの先生のイメージそのままの上品な人だ。決して声は荒げないけれど、厳しくも細やかな指導のおかげで蓮のピアノは上達した。
 だけど、頂点に立てない蓮は中途半端だと、いつ見限られるだろうと不安が尽きない。

 
「このところ、ずっと心ここにあらずといった感じだけど、何をそんなに悩んでいるの」

「すみません」

 詩音のことを話せるはずもなく、蓮はうつむいてぎゅっと手を握りしめる。頭の上から、本間のため息が降ってきた。

「賞をとることに必死になりすぎたかしら。もっとのびのびと、楽しく弾くことを意識した方がいいのかもしれないわね」

「え……」

 蓮は思わず顔を上げる。彼女は、何がなんでも賞を目指せと言うのかと思っていたから。
 そんな心の内が表情にも出ていたのだろうか。本間は小さく苦笑した。

「賞をとることが全てじゃないわ。だけど、将来の可能性を広げるのに賞をとることが大事なのも確かだもの。蓮には、賞をとれるだけの実力があるから言うのよ」

「それは……、分かってます」

 この先ピアノの腕で食べていこうと思ったら、受賞歴は無いよりあった方がいいに決まっている。だけど、蓮の実力ではピアノで食べていくことが難しいであろうことも、分かるのだ。世の中にはもっとすごい天才がたくさんいるから。それこそ、十にも満たない年で蓮よりもよっぽど難しい曲を弾きこなす子だって、両手では足りないほど存在している。

「少し賞を目指すことは忘れて、弾きたいように弾いてみれば? 例えば、誰かに向けて弾くとか」

「誰かに……」

 その言葉に脳裏を過ぎるのは、詩音しかいない。

「あら、その顔。誰か思い当たる人がいるのかしら」

「……っ」

 揶揄うような本間の言葉に微かに赤面しつつ、詩音のことを想って弾けば、この音は変わるだろうかと蓮はぼんやり考えていた。