たとえ世界に誰もいなくなっても、きみの音だけは 忘れない

「……誰?」

 少し強張った表情で、不安気に胸の前で手を握りしめる詩音。
 その様子に気づいた金居は、一瞬ハッとしたように目を見開いたものの、すぐに穏やかな表情を取り戻した。

「こんにちは、詩音さん。医師の金居です。少しお話したかったんだけど、お友達が来てるみたいだし、また出直しますね」

「金居、先生」

 当惑したような表情で首をかしげる詩音は、やはり金居のことを覚えていないようだ。

「ごめんね、来客中に。また来ます」

 にこりと笑い、金居は部屋を出て行く。黙って見送る雛子と蓮には、彼が微かに苦い笑みを浮かべているのが見えた。


「ヒナ、行こっか」

 何事もなかったかのように財布を持つ詩音を見て、雛子が慌ててうなずく。

「う、うん。今日は暑いから、さっぱりしたシャーベットとか食べたい気分だよね。詩音、何食べる?」

「そうだなぁ。フルーツ系もいいけど、甘いバニラも捨てがたいねぇ。さっぱりっていうなら、チョコミントもいいなぁ」

 少しうわずったような雛子の声に気づかず、詩音はニコニコと楽しそうにあれこれと候補を挙げていく。彼女だけが何も変わらない日常を生きていることに、蓮は言葉を失う。
 ふと雛子と目が合った瞬間、その表情が歪んだ。それでも雛子は、何度も瞬きを繰り返して泣くのを堪えているようだ。
 

 あんなに懐いていた金居の記憶すら失うなんて。つい一昨日にも、課題に苦労していたところを優しく教えてくれたのに。
 だけど、金居の記憶を失ったことを詩音に気づかせるわけにはいかない。蓮と雛子は一瞬視線を絡ませて、普段通りに振る舞うことをお互い確認しあった。