たとえ世界に誰もいなくなっても、きみの音だけは 忘れない

「あ、ごめんなさい。目にも止まらぬ速さで指が動くから、びっくりして声かけちゃった」

 目の前に見たことのない顔があって、蓮は思わず無言で観察してしまう。
 顎のラインですっきりと切り揃えられた黒髪に、きらきらと好奇心に輝く猫のような瞳。
 初めて見る顔だけど、かなりの美少女だ。恐らくは蓮と同世代であろう彼女は、平日の午前中だというのに白いワンピースに小さなポシェットだけという身軽な格好をしている。誰かの見舞いに来たのだろうか。
 
「ねぇ、ピアノ弾けるの?」

 少女は、小さく首をかしげた。絹糸のような髪がさらりと揺れるのに、思わず目を奪われる。

「あ、うん。一応……」

 無邪気に話しかけてくる美少女に若干気後れしつつうなずくと、彼女はわぁっと歓声をあげて輝くような笑顔を浮かべた。

「やっぱり! すごいなぁ、ねぇねぇ、もう一度指動かしてみせて」

「いや、さっきのは無意識っていうか……、人に見せるもんじゃないし」

 慌てて首を振る蓮を見て、少女はそっと蓮の手に触れた。ひんやりとした細い指先の感触に、思わず小さく息をのむ。女子と手が触れ合うなんて、小学校以来だ。
 蓮の動揺など知らない彼女は、上目遣いで微笑んだ。至近距離でそんな表情を見せられたら、異性に免疫のない蓮はあっという間に真っ赤になってしまう。

「だって、魔法みたいだったの。鍵盤もないのに、指先からきらきらした音が流れ出しているように見えたよ」

「……きらきらした、音」

 少女の言葉は、蓮の心の深いところに突き刺さった。彼女には、蓮の理想の音が聴こえたのだろうか。
 戸惑う蓮に気づかない彼女は、にこにこと笑いながら顔をのぞき込んできた。

「ね、実際に弾いてみせてよ」

「えっ」

 握った手をぐいっと引っ張られて、蓮は思わずベンチから立ち上がる。

「や、弾くったって、ピアノなんかどこにも」

「大丈夫、来て!」

 少女は蓮の手を引いたまま、軽やかに駆け出す。

「待っ……」

 止める間もなく、蓮も少女に引っ張られるようにして走り出した。