たとえ世界に誰もいなくなっても、きみの音だけは 忘れない

 病室に戻ってしばらくすると、相馬が詩音の母親が到着したようだと告げて部屋を出て行った。
 蓮は、そわそわと落ち着かない様子の詩音を見つめる。

「詩音ちゃん、座ったら?」

「うん、そうなんだけど、なんか落ち着かないんだもん」

 そう言って詩音はうろうろと部屋の中を歩き回る。
 やがて足音と人の気配と共にドアがノックされ、詩音がびくりと身体を震わせた。


 ゆっくりと部屋に入ってきたのはやはり千尋で、酷く緊張しているように見える。『母親の代理人』として会うことはあっても、母親として会うのは久しぶりだからだろうか。

「詩音、この人がお母さん」

 相馬の言葉に、詩音はぺこりと頭を下げた。

「お誕生日、おめでとう。……あの、何も覚えてない娘で、ごめんなさい」

 やはり、つい先日『母親の代理人』として会ったことも、詩音は覚えていないらしい。
 娘の口から覚えていないとはっきり言われても、千尋の表情は変わらない。部屋に入ってきた時から、ずっと穏やかな微笑みのままだ。

「ありがとう、綺麗なお花ね。大切にするわ」

 差し出された花を受け取って、千尋は柔らかく笑った。やはり二人並ぶとよく似ている。

「そのお花ね、ここにいる蓮くんと一緒に選んだの。私の大切なお友達なの」

「そうなの。詩音と仲良くしてくれているのね。どうもありがとう」

 お互い初対面を装って、蓮と千尋は会釈を交わす。
 

「あの、……お母さん」

 酷く自信なさげな声で詩音がつぶやくから、部屋にいる全員の視線が彼女に集まる。それに萎縮したように身体を縮めながら、詩音は躊躇いがちに口を開いたり閉じたりを繰り返した。

「なあに?」

 千尋が穏やかな声で首をかしげると、詩音は意を決したように顔を上げた。

「あのね、手を……握ってもいい?」 

「えぇ、もちろん」

 戸惑いつつも笑顔で差し出した千尋の右手に、詩音は恐る恐るといった様子で手を伸ばす。
 最初は軽く、そして確かめるように何度かぎゅうっと握りしめたあと、詩音は儚い笑みを浮かべて手を離した。

「ありがとうございます。記憶はなくても、手を繋いだ時の感覚なら覚えてるかなって思ったけど……、だめだった」

「……きっとそれは、私のせいね。仕事の忙しさを理由に、あなたと手を繋いで歩いたことなんてほとんどなかったから。今更だけど、ごめんなさい、詩音」

 ため息混じりに千尋がつぶやく。微かに震えた語尾に、詩音は気づいただろうか。