たとえ世界に誰もいなくなっても、きみの音だけは 忘れない

「今の私は、あの子にとっては母親じゃないの。身の回りのことや金銭関係のことを、母親から依頼された人……って立ち位置なのよ。だから私のこと、お母さんって呼ばないでね。私はただの、千尋さんって決めてるの」

 きっと毎回、詩音に会うたびにそう説明しているのだろう。彼女――千尋の口調に淀みはない。
 

「本当はね、蓮くんのことだって直接詩音から聞いてみたかったけど、それはもう望めないことだから」

 ため息をついたあと、千尋は悪戯っぽい笑みを浮かべた。

「蓮くんは、ピアノがとっても上手なんでしょう? 詩音のために弾いてくれてるって聞いたわ」

 詩音のために、とあらためて言葉にされると照れるけれど、蓮はうなずいた。本番を来月に控えて、本当は寝る時間も惜しんで練習をしなければならないところなのだけど、蓮は時間を見つけては詩音のもとに通っている。
 以前よりもコンクールに対する情熱が薄れていることもあるし、彼女のそばで弾くと蓮の理想の音に近づけるような気がするから。コンクールの結果よりも今は詩音のそばにいたい。

「詩音も、昔はピアノを習ってたんだけどね。なかなかレッスンに付き添えなくて、辞めたいって言われちゃって」

 まわりは親が付き添っているのに一人だけ付き添いのない状況に、詩音は耐えられなかったのだと思うと千尋はぽつりとつぶやいた。

「付き添ってくれる人を雇ったこともあるんだけど、そういうことじゃなかったのよね。あの子は親についてきて欲しかったのに。……ずっと、そんな簡単なことに気づかなかったの」

 うつむいた千尋は、浮かんだ涙を拭うと笑みを浮かべた。

「ごめんね、なんか蓮くんの前だとあれこれ喋っちゃう。きっと詩音にとってあなたは、とても大切な人だわ。会ったばかりの人のことをずっと忘れずにいるなんて、蓮くんが初めてなんだもの」

 そう言って居住まいを正した千尋は、まっすぐに蓮を見つめた。

「詩音をよろしくね。……酷なことを言うようだけど、もう私はあの子のそばにいる資格すら失っているから、あなたに託すしかないの」

 真剣な表情で見つめられて、蓮ははっきりとうなずく。

「たとえ詩音さんが俺のことを忘れても、それでもそばにいたいと、そう思ってます。俺は、詩音さんのことが……好きだから」

 一瞬躊躇い、それでも口に出した想いは、あらためて蓮の心の中にも染み渡っていく。

 いつから、なんて分からない。
 もしかしたら、最初から。

 あの輝くような笑顔を向けられた瞬間に、蓮は恋に落ちていたのかもしれない。
 過酷な運命に流されそうになりながら、それでも笑顔で前を向こうとする強さが、蓮は眩しくてたまらない。
 守る、なんておこがましいけれど、蓮にできることなんてほとんどないけれど、それでもそばにいたいから。詩音には、笑っていて欲しいから。

「ありがとう」

 千尋が本当に嬉しそうに、噛みしめるようにつぶやくから、うっかり告白めいたことをしてしまった恥ずかしさを押し殺して、蓮は小さくうなずいた。