たとえ世界に誰もいなくなっても、きみの音だけは 忘れない

 詩音の母親に連れられて行ったのは、病院の敷地内にあるカフェ。診察の待ち時間を過ごす人や面会者と話す人たちで、店内はそこそこ賑わっている。

 奥のソファに座った蓮に、詩音の母親はメニューを差し出す。

「何でも好きなのをどうぞ。成長期の男の子って、たくさん食べるんでしょう?」

 そこまで空腹でなかった蓮はアイスティーを頼んだものの、何故か妙に不満そうにされたので、追加でケーキを頼んだ。

 
「あぁそうだ。今更だけど、詩音の母親です」

 テーブルの上に置かれたチョコレートケーキを勧めながら、彼女がぺこりと頭を下げる。

「顔……、そっくりですよね、詩音さんと」

 思わずつぶやくと、やはり詩音にそっくりな笑顔が返ってくる。

「そうねぇ。もともと私似だとは思ってたんだけど、ここまで似るとは思わなかったわ。まぁ、あの子はそんな私の顔を見ても何も思い出さないみたいだけど」

 諦めたような笑みを浮かべて、彼女はつぶやく。予想はしていたけれど、詩音はすでに母親の記憶を失っているのだということを突きつけられて、胸が苦しくなる。

 苦い表情を浮かべた蓮を見て、気にしないでと彼女は笑った。

「自業自得なのよ。仕事にかまけて、詩音のことを放っておいた私たち親のせいだわ。夫なんて、詩音の病気が受け入れられなかったみたいで逃げてしまったくらいよ。自分が放ったらかしにしたくせにね」

 ため息をつきつつ、詩音の母親がそっと左手を撫でる。何もはまっていない薬指に、かつてそこにあった指輪を探すかのような動きだった。
 苗字が変われば詩音を動揺させるだろうと籍はいれたままだが、もうほとんど離婚しているようなものだという。
 何を言えばいいのか分からなくて、蓮は黙々とケーキを口に運ぶ。甘いはずのチョコレートケーキが、随分と苦く感じた。

「ごめんね、変な話を聞かせてしまったわ。それでも、今更だけど、少しでも顔が見たくてこうして時々会いに来ちゃうの」

 あの子の前では我慢してるけど、帰りはいつも泣いちゃうとつぶやき、目を伏せてコーヒーを一口飲んだあと、彼女はゆっくりと顔を上げた。