たとえ世界に誰もいなくなっても、きみの音だけは 忘れない

「詩音さん、お友達が来られたみたいですし、私はこれで」

 蓮が口を開く前に、その女性はにっこり笑って鞄を持つ。

「あ、はい。ありがとうございます」

 詩音も、ベッドの上からぺこりと頭を下げた。
 親子の会話とは思えない他人行儀なやりとりに、何か事情があることを察知した蓮は、黙って女性に会釈する。詩音の前では、余計な口をきかないと決めたのだ。ちょっとした一言が、詩音を傷つけてしまうと知ったから。


 女性が部屋を出ていき、蓮は紙袋を詩音に差し出した。

「これは?」

「この前話してた新作のドリンク。詩音ちゃん、飲んでみたいって言ってたから買ってきた」

「わぁ! すごい嬉しい〜。なかなか外出許可降りないから、諦めてたの。ありがとう、蓮くん!」

 予想通り弾けるような笑顔を向けられて、蓮は照れ隠しに少し視線を逸らしつつうなずく。
 ふと、椅子のそばに白いものが落ちていることに気づいた蓮は、身体を屈めてそれを拾い上げた。

「……これ」

 それは、小さなレザーのパスケースだった。開いた内側には免許証が入っていて、先程の女性のものであることが分かる。そこに記された名前は『尾形 千尋』とあり、やはり詩音の親族であることは間違いないようだ。
 詩音には名前が目に入らないように、蓮はさりげなく手に持ったパスケースの角度を変える。

「さっきの人のかな? ここの入院費とかのお金の管理をしてくれてる人らしいんだけど」

 本当にそう思っているような詩音の口調に胸が痛むのを隠して、蓮は笑顔でパスケースを掲げた。

「今からならまだ追いつけるかもしれないから、ちょっと届けてくる」

「うん、大事なものだもんね。ごめんね、蓮くん。お願いしてもいいかな」 

「うん。溶けちゃうからさ、それ飲んでて。あとで感想聞かせて!」

 ドリンクを指差してそう告げ、手を振って蓮は詩音の部屋を出た。

 
 エレベーターホールにはすでに誰もいなくて、追いつけないかもしれないと思いつつ、蓮はやってきたエレベーターに乗り込む。
 1階に着いたところで、見覚えのあるスーツの後ろ姿を見つけた蓮は、間に合ったことに笑みを浮かべてその背中を追う。
 高いヒールの靴を履いているのに案外早足な彼女に追いついたのは、病院の玄関を出る直前だった。

「あの、これ落とし――」

 肩を叩いてそう言った蓮の言葉に、グレーのスーツの身体がぴくりと震える。
 振り返ったその顔を見た蓮は、思わず言葉を失う。
 彼女は、ぽろぽろと両目から大粒の涙をこぼしていた。