たとえ世界に誰もいなくなっても、きみの音だけは 忘れない

 いつものようにひとしきりピアノを弾いたあと、蓮は壁の時計を見上げた。時刻はもうすぐ正午。そろそろ詩音は病室に戻らなければならない。

「そろそろ戻ろっか」

 ピアノの蓋を閉めながら詩音を振り返ろうとすると、シャツの背中をぎゅっと掴まれた。

「詩音、ちゃん?」

 背後にいる詩音の表情は分からない。だけど、ピアノに映った彼女がうつむいていることだけ、かろうじて分かる。

「……っく」

 押し殺した嗚咽が響いて、蓮は小さく息をのむ。シャツを掴んだ手が震えていることにも気づいて、動けない。

「忘れたくない、のに。なのにもう何も覚えてないの。看護師さんのこと、何も覚えてない」

 涙声で詩音がつぶやいて、涙を拭うように顔に手をやったのがピアノにぼんやりと映る。

「いつか私、蓮くんのことも忘れちゃう。嫌なのに……」

 力なく下された手が蓮のシャツから離れていくから、蓮は思わず振り返って詩音の手を掴んだ。そして、震える詩音をそのまま抱きしめた。