たとえ世界に誰もいなくなっても、きみの音だけは 忘れない

「尾形さん、お薬持ってきたので置いときますねー」

 まだ少し鼻声でそう言いながら入ってきたのは、山科だった。

「あ、ありがとうございます」

 確認するように薬の袋に触れた詩音は、山科の方を見て首をかしげた。

「看護師さん、風邪? 鼻声だけど」

 その声は純粋に彼女のことを心配しているようだけど、目の前にいるのがつい先日まで親しく話していた山科だとは気がついていないようだ。

「えぇ、ちょっと鼻炎で」

 小さく鼻をすすった山科は、笑顔でそう返す。その表情は、先程涙を流していたとは思えないほどしっかりとしている。

「そうなんだー。私も花粉症だから、春はくしゃみ止まんない。お大事にね、えっと……山科さん」

 名札を確認した詩音が、山科の名を呼んで微笑む。まるで今日はじめて会ったかのような詩音の態度に、本当に山科のことを忘れているのが分かって、そばで見ている蓮の胸が苦しくなる。

「午後から金居先生が来られるので、お部屋にいてくださいね」

「はぁい、了解です」

 淡々とした態度を崩さない山科に、詩音が笑ってうなずく。


 山科が出て行ったあと、詩音が小さなため息をついた。

「そっか、さっきの看護師さんのこと忘れちゃったんだね、私」

 傷つけちゃったなぁと笑う詩音を見て、蓮の言葉も詩音を傷つけたことに思い至る。本当に忘れたのかと詰め寄るなんて、してはならないことだった。蓮がそうしなければ、きっと詩音は山科のことを忘れたことにすら気づかなかったはずなのに。

「ごめん……、俺、」

「ん? 蓮くん、ピアノ弾きに行こう。お昼までに戻ってこなきゃいけないから、あんまり時間がないし急がなきゃ!」

 詩音は、笑顔で蓮の手を引く。傷ついたことを見せまいとする彼女の優しさが申し訳なくて、蓮はうつむきながら詩音のあとを追った。