たとえ世界に誰もいなくなっても、きみの音だけは 忘れない

 母親の職業柄、蓮は音楽に囲まれて育ってきた。物心つく前から鍵盤に触り、見よう見まねで音を奏でた蓮を、母親は天才だと喜んだという。

 親の指導が良かったのか、それとも血筋か。
蓮は幼い頃から数々のコンクールで入賞を果たしてきたし、高校生になった今だって音大目指して日々練習を重ねている。

 だけど所詮それなり、なのだ。上には上がいるし、いつだって蓮は一番になれない。どうしても越えられない壁があるのだ。親の血筋なんて、天才の前では何の意味もない。
 それなのに、どこに行っても『あの佐倉薫子の息子』と囁かれるし、期待を裏切らない演奏をしなければならないというプレッシャーは凄まじい。

 音楽で食べていきたいのなら、実績を。ひとつでも上の賞を獲れ。

 三か月後に迫ったコンクールに向けて、母親からは無言の圧力を感じる。彼女は蓮を信頼できるピアノ講師に託して自らは口出しをしてこないが、それでも入賞を期待されていることは嫌でも分かる。

 だけどもし、賞を獲れなかったら。そうしたら蓮の奏でる音楽に、価値はないのだろうか。

 純粋に音を奏でる喜びだけを感じていた日々が懐かしく思えるほどに、周囲の期待は蓮の心をすり潰していく。

 だから、負けないようにと必死に努力を重ねてきた。自分の環境が恵まれていることは分かっていたし、同時に自分が決して天才ではないことも理解していたから。