たとえ世界に誰もいなくなっても、きみの音だけは 忘れない

 恐れていた日は、突然やってきた。
 
 いつものように詩音の病室を訪ねた蓮は、ナースステーションで顔馴染みとなった看護師の山科とばったり出会った。

「こんにちは、山科さん」

「あ……、蓮くん。こんにちは」

 妙に鼻声だなと不思議に思って山科の顔を見た蓮は、小さく息をのんだ。
 明らかに泣いたと分かる、赤い目。マスクで表情はよく見えないものの、いつも明るい笑顔を浮かべている山科とは別人のようだ。

「……どうしたんですか」

 思わずつぶやくと、山科の視線が戸惑ったように揺れる。

「ん、詩音ちゃんがね、ついに私のこと忘れちゃってさ。こんなの看護師失格だよね。でもさ、昨日寝る前には覚えてたのよ。また明日ねって手を振ってくれたのに……」

 言いながらまたあふれた涙をぬぐって、山科は小さくごめんとつぶやいて蓮に背を向けた。

「山科さん……」

「蓮くんのことは覚えてたから、行ってあげて。詩音ちゃん、待ってるから」

 山科の背中は慰めを必要としていないことが分かっていたので、蓮は小さく頭を下げると詩音の部屋へと向かった。


「蓮くん!」

 ベッドの上で本を読んでいた詩音は、蓮の訪問に気づくとぱあっと顔を輝かせた。その表情はいつも通りで、何も変わっていないように思う。

「おはよう、詩音ちゃん」

「おはよー、蓮くん。今日はさすがにホール借りられなかったんだけど、療法室のピアノは使っていいって看護師さんが言ってたから、行こ!」

「看護師さんって……、山科さん?」

 蓮の言葉に、詩音はきょとんとした表情で首をかしげた。

「え、誰?」

 本当に心から知らない、といった様子の詩音に、蓮は思わず一歩前に出る。

「看護師の山科さんだよ。俺たちが初めて会った時にも外来にいて、デートみたいだって声かけてくれただろ」

 詰め寄る蓮に、詩音は困惑した表情で首を振る。

「何……? 分かんない、あの時誰かに会ったっけ。ごめん、蓮くんのピアノのことしか覚えてない」

「そんな、だって」

 更に言い募ろうとした時、部屋の扉が開く音がした。