たとえ世界に誰もいなくなっても、きみの音だけは 忘れない

「……母さん。おかえり」

「ただいま。ごめん、練習の邪魔したかな」

「いや、大丈夫だけど……」

 なんとなく気まずくて、蓮は鍵盤から手を下ろす。

 今もなお活躍するピアニストである母親は、蓮にとって憧れだが、同時に手の届かない存在でもある。未熟な蓮には、彼女のように多くの人を惹きつける演奏がまだできないから。

「コンクール、もうすぐだっけ。練習してたの?」

「あ、うん……一応」

 言葉を濁して、蓮は曖昧にうなずく。
 母親は基本的には蓮のピアノに口出ししてこないが、レッスンの内容は蓮が師事しているピアノ講師から逐一連絡がいっているはずだ。
 蓮が今一つ完成度を上げられていないことも、きっと知っているのだろう。

「夕食も食べずに弾いてたんでしょう。あまり遅くまで根詰めてやってると、疲れるわよ。休息も大事よ」

「ん、分かってる」

 夕食を食べ損ねたのは調べ物をしていたせいなのだが、それをわざわざ伝えることもない。詩音のことは、たとえ母親であっても軽々しく話題にできなかった。

「明日もレッスンでしょう。ご飯食べて、早めに休みなさいよ」

 先生によろしくねと言って、母親はふわぁっと大きな欠伸をした。地方での公演を終えて帰宅したものの、明日はまた別の場所で演奏会があるらしい。
 先に休むからと部屋を出て行こうとした彼女は、ふと足を止めて蓮を振り返った。

「ちょっとだけ聴いてたんだけどさ、高音がもっと伸びるといいかもね。まだ音が硬いから、きらきらとした音で弾いてほしいなって思う」

「……っ、うん、ありがとう。頑張る」

「蓮は、綺麗な音が持ち味だから。それって結構強力な武器よ。頑張って」

 それだけ言って、母親は手を振って部屋を出て行った。
 普段はほとんど何も言わないのに、時々こうしてぽつりと核心をついたことを言うのだ。
 まだまだ、母親には敵わない。

「俺の武器……かぁ。でも今のままじゃ、戦えないもんなぁ」

 音が綺麗だと褒められることは今までもあった。だけど、もっと磨き上げた音でなければ勝てない。
 無関心なようで、しっかりと蓮の様子を把握している母親は、本番を必ず見に来る。
 理想の音に手が届けば、彼女を納得させる演奏を、結果を、手に入れられるのだろうか。

「きらきらした音……って、どうやったら出せるんだろうなぁ」

 鍵盤を見つめつつ、蓮はため息をつく。やっぱり思い出すのは、詩音の笑顔。
 彼女の笑顔は、蓮が弾くピアノよりもよっぽどきらきらしている。
 あの笑顔みたいな音が出せたら。
 詩音に会ったら、あの笑顔をまた向けてもらえたら、理想の音に近づくヒントをもらえそうな気がした。