たとえ世界に誰もいなくなっても、きみの音だけは 忘れない

「あ、待って。先にこれ渡しとく。担任から」

 雛子が、鞄から白いプリントを取り出して詩音に手渡す。ちらりと見えたその内容は、どうやら進路相談のものだ。蓮も先週悩みながら記入したから、どこの学校でも一緒だなと少しだけ親近感がわく。

「ありがとー」

 笑顔で受け取った詩音は、さっと内容に目を通したものの、そのまま折り畳んでぽいっとゴミ箱に放り込んだ。

「それ、大事なものじゃ」

 思わず声をあげた蓮に、詩音は困ったような笑みを浮かべる。

「だって、進路相談なんて、私には必要のないものだから」

「……え、」

 戸惑って目を瞬く蓮を見て、詩音は首をかしげた。さらりとした黒髪が、それに合わせて揺れる。

「この前説明したでしょう、私の記憶のこと。私ね、もう高校のクラスメイトも先生の顔も忘れちゃってるんだ。今は一応籍だけ置かせてもらってるけど、高校にもほとんど行ってないし、進級せずにこのまま退学することになるだろうから」

「……ごめん」

 蓮は詩音に思わず頭を下げた。
 最低だ。言わせてはならないことを、詩音に言わせてしまった。蓮に向ける表情は前回会った時と何も変わらないから、彼女の病気のことを軽く捉えてしまっていた。斜め前からも、雛子の刺すような視線が痛い。

「ううん、蓮くんは気にしないで。私ね、蓮くんのこと覚えていられたこと、本当に嬉しいんだ。だからお願い、ピアノ聴かせてね。忘れないようにって、蓮くんが弾いてくれたピアノ、頭の中で何度も歌ったんだよ」

 そう言って笑う詩音の優しい言葉に、蓮は唇を噛んでうなずいた。

「詩音ちゃんが聴きたい曲、何でも弾くよ」

「わぁ、やったぁ! えぇとまず、『ため息』は、絶対はずせないでしょ。それから何がいいかなぁ」

 指を折って弾いて欲しい曲を挙げていく詩音にうなずきながら、蓮は雛子にこっそり踏まれた爪先の痛みに耐えていた。