たとえ世界に誰もいなくなっても、きみの音だけは 忘れない

「――うん、診察の結果、特に問題ないって。……うん、大丈夫。ピアノも弾けるって。――そうだね、頑張る。うん、それじゃあ」

 見えてもいないのにぺこりと頭を下げて、蓮れんは通話を終えた。
 相手は母親だけど、どうしてもそっけない話し方になってしまう。思春期ということもあるけれど、蓮にとって彼女は、親というよりもピアノの先生なのだ。今も活躍する現役ピアニストの母は、蓮にも同じ道を歩んでもらいたがっている。

 はぁっと大きなため息をひとつ落とすと、蓮はベンチに腰を下ろして右手を太陽に透かした。初夏の強い日差しが、手のひらに突き刺さるような気がする。

「何の問題もない……だって。ドクターストップになれば、棄権できるかなぁって思った俺が、甘かった」

 体育の授業で傷めたと思っていた右手は、何度か握ったり広げたりしてみても違和感なく動く。大学病院での診察結果に間違いがあるわけもないだろうし、実際痛みは何もないのだから、いい加減現実を受け入れるべきだろう。

 診察は終わったのだし、今からでも学校に行くべきだと分かっているのに、何となくやる気が起きない。蓮は病院の中庭にあるベンチから動くことができないまま、ぼんやりと座り続けていた。

 小さな子供の座る車椅子を押す看護師の姿や、リハビリ中なのかスタッフと一緒に杖をついてゆっくりと歩く老人の姿を見るともなしに眺めながら、蓮は深いため息をつく。

「逃げたって、ピアノから離れられるはずないのにな」