たとえ世界に誰もいなくなっても、きみの音だけは 忘れない

 詩音との約束の日、蓮は少し緊張しながら病院へと向かった。

 エレベーターに乗って行先を確認していたら、横から伸びてきた手が先に最上階のボタンを押した。派手に飾られた爪に明るい髪色をした制服の少女は、蓮が普段関わることのないタイプだ。
 不躾な視線を感じ取ったのか、少女がにらむように見つめてくるから、蓮は慌てて前を向いた。
 微妙に気まずい空気の中、エレベーターが到着すると少女は軽やかな足取りで先に降りていく。彼女も蓮と同じく特別病棟に向かっているようだ。

 面会者名簿を記入する少女のうしろで順番を待ちながらなんとなく派手な爪を見つめていると、少女の持ったペンが詩音の名前を記入していることに気づく。
 どうやら彼女も、詩音をたずねてきたらしい。どちらかというと清楚なイメージの詩音と、派手な外見をした目の前の少女とではあまり共通点は無さそうだが、余計な詮索は失礼だなと蓮は浮かんだ疑問を振り払うように小さく首を振った。
  
「あら、雛子(ひなこ)ちゃん。詩音ちゃんのお見舞い?」

 記入を終えた少女に明るい声で声をかけたのは、蓮も先日会った看護師の山科だった。 

「山科さん、こんにちはー。詩音の担任から、手紙預かってきたからさ、一応持ってきた。詩音、どう?」

 明るい口調で話す雛子だけど、最後の問いは微かに震えていることに気づいて蓮は思わず顔を上げた。

「大丈夫。さっき、雛子ちゃんから借りてる本を読んでたもの。次に会う時に感想伝えるんだって言ってたわ」

 山科が安心させるようにうなずいて笑うのを見て、雛子の肩から力が抜けたのが分かる。きっと彼女も、詩音の病気を知っているのだろう。
 蓮のことは、覚えているのだろうか。ここにきて、急に不安が襲ってくる。
 
 詩音が言っていたように、忘れられている可能性もあると何度も考えた。相馬医師に言われたように、もう会わない方がいいのかもしれないと考えたことも。

 だけどやっぱり蓮は、詩音にもう一度会いたいと思ったのだ。もっと彼女のことを知りたいし、もっと色々なことを話したい。
 たとえ彼女が忘れていたとしても、きらきらした音だと褒めてくれた蓮のピアノを聴けば、思い出してくれるかもしれないとすら思っていた。

 それがとんだ思い上がりであることに気づくのは、随分とあとになってからだったのだけど。