たとえ世界に誰もいなくなっても、きみの音だけは 忘れない

 詩音も入院はしているものの、時折検査をしながらただ日々を過ごすだけ。いつ、詩音の世界が一人きりになるのかも分からない。今のところ身近な人のことは覚えているけれど、明日になれば誰かの記憶を失っているかもしれない。

 そして自分たちのことを綺麗さっぱり忘れ去った娘に興味は無いのか、両親は一度病状を聞きにきて以降は顔を出していないらしい。
 もともと一人暮らしみたいなものだったから身の回りの生活に不安はなかったけれど、このまま記憶を失くし続ければどうなるかは分からない。
 気づけば詩音は、それまで一人で住んでいたタワーマンションから、大学病院の特別病棟の一室へと引っ越すことになっていた。
 一日数万円とも言われる特別病棟の部屋代は、すでに年単位で支払いが済んでいるらしい。
 贅沢な子捨てだなぁと、他人事のようにつぶやいた詩音に、渋い顔をした悠太が寄り添ってくれたのを覚えている。

 休学中の高校も、近いうちに退学することになるだろう。すでに高校のクラスメイトの大半の記憶も、詩音は失っているから。
 今は悠太のことも覚えているけれど、いつか彼のことすら分からなくなる日が来るのかもしれない。

 きっと同じことを考えているのだろう、悠太は詩音の部屋に顔を出すたびに、酷く緊張した様子を見せる。詩音が彼の名前を呼べばその表情は優しく緩むけれど、きっと大きな負担をかけているのだと思うと心が痛む。

 今日出会った蓮のことも、明日になれば覚えていられるかどうか分からない。
 蓮との再会の約束は、三日後。
 それまで覚えていられますようにと願いながら、詩音は手帳に記された文字をなぞった。