たとえ世界に誰もいなくなっても、きみの音だけは 忘れない

「詩音、調子はどう?」

 ベッドに横になって本を読んでいると、軽いノックの音と共に白衣の男が顔を出した。

「悠太! えへへ、今日はね、すごく調子がいいんだぁ」

 ぱたんと本を閉じ、詩音はベッドから飛び降りて白衣の胸元に抱きつく。すると、小さな苦笑と共に頭を撫でられた。
 幼い頃から変わらず、いつも笑って詩音を受け止めてくれる悠太は、詩音にとって大切な人の一人だ。
 この病院で医師として働く悠太は、詩音の従兄でもある。主治医ではないけれどいつも詩音のことを気にかけてくれて、忙しいはずなのに時間を見つけてはこうして詩音を訪ねてきてくれる。
 
「ご機嫌だね、詩音」

「知りたい? とっても素敵なことがあったの!」

 くすくすと笑いながら見上げると、ぽんぽんと宥めるように頭を撫でられて、ベッドに座るように促される。

「あのね、今日ね、新しいお友達ができたの」

「新しいお友達?」

 首をかしげる悠太に、詩音は蓮との出会いを説明する。
 かつて、コンクールで見かけた素敵なピアノを弾く人に出会えたこと、お願いしてピアノを弾いてもらったこと、また会う約束をしたこと。
 忘れてしまわないうちにこうして誰かに話しておけば、蓮のことを忘れてしまっても彼に出会ったことは消えないような気がして、詩音は必死に蓮とのことを語る。

「そう、良かったね。だけど詩音、この先誰かともう一度会う約束をする時は、僕らにも相談して」

 頭を撫でながらも諭すような口調に、詩音は唇を尖らせた。

「分かってる。……約束の時までその人のことを覚えてるか分からないから、だよね」

「うん。事情を知ってる人ならいいけれど、『蓮くん』には詳しいことは分からないだろう。彼を混乱させてしまうかもしれない」

 現時点では詩音は蓮のことを覚えているし、忘れたくないとも思っている。だけど明日のことは分からない。悠太の言葉に反論できず、詩音は唇を噛んでうつむいた。
 黙り込んだ詩音の肩を抱き寄せて、悠太は慰めるように背中をそっと撫でてくれる。

「素敵なピアノ、僕も聴いてみたいな」

「すごく上手なんだよ。きらきらした音でね、心があったかくなるような音なの」

 今も頭の中に響いているような、蓮のピアノ。忘れたくないと願うように、詩音は目を閉じた。