たとえ世界に誰もいなくなっても、きみの音だけは 忘れない

「この日とこの日。あと、ここなら俺も空いてる」

「蓮くん……」

 驚いたように顔を上げた詩音を見て、蓮は笑いかける。

「もう一度聴きたいなんて言われて、断れるわけない。『ため息』、今日よりもっといい演奏するから」

「本当に、いいの?」

「もちろん。それに、まだ忘れると決まったわけじゃないだろ。ピアノだけじゃなくて、俺のことも覚えてて」

 大きく見開かれた黒い瞳に、みるみるうちに涙が盛り上がる。美少女は泣き顔まで可愛いなと一瞬見惚れかけて、蓮は慌ててハンカチを差し出した。
 
「ありがとう、蓮くん。約束の日まで、毎日手帳を確認して忘れないようにするね」

 手帳に加わった蓮の名前を指先で撫でながら、詩音が嬉しそうに笑う。

「……だけど、蓮くんが嫌になったら来なくていいからね」

「約束は、ちゃんと守るよ」

 子供っぽいかと思いつつも小指を差し出すと、おずおずと詩音の細い指が絡められた。

「うん、約束」

 涙を拭いながら笑う詩音を見て、蓮も笑顔でうなずく。
 
 この時、笑顔の裏で詩音がどんな気持ちを抱えていたのか、蓮は知らなかった。
 たくさん会えば忘れないなんて、思い上がりであったということも。
 そっと絡めた小指のぬくもりを、この日交わした約束を、蓮はこのあと幾度となく思い出すことになる。