たとえ世界に誰もいなくなっても、きみの音だけは 忘れない

「忘れる……って」

 言葉を失う蓮を見て、詩音は困ったような笑みを浮かべた。

「何年か前にさ、俳優が告白して話題になったじゃん。ほら、朝ドラの……」

 詩音が、かつて人気だった俳優の名前を挙げる。同時にワイドショーを騒がせた彼の病も思い出した蓮は、ゆっくりと口を開く。

「……『消失病』」

「ふふ、知ってた? 結構話題にもなったもんね。そう、その病気」

 笑顔を浮かべている詩音だけど、その表情は泣き出す寸前のように見えた。

 消失病と呼ばれるその病気は、人物の顔とその人にまつわる思い出を失っていくのだという。
数年前にその病気を告白した俳優は、自分の頭の中にある部屋の中から毎日誰かが一人ずついなくなり、最後はきっと自分だけになるだろうと自らの病状を説明していた。
 そして誰もいなくなった――そう表現するのがぴったりな病気であると。
 彼は今どうしているのだろう。テレビや雑誌でその姿を見なくなって久しいことに、今更気づく。
 
 
「詳しくは分からないけど、忘れるのは人物と、その人に関する思い出だけなの。だから普段の生活には、今のところ困ってないんだけどね」

 小さく笑った詩音は、ごめんねと言って蓮を見た。

「だから、蓮くんのことも次に会うまで覚えてるか分かんないんだ。新しく会った人のことは、なかなか覚えてられないみたいなの」

 そう言って、詩音はベッドサイドのテーブルから手帳を取ると開いた。

「でもこうして手帳に書いておいたら、蓮くんのことは忘れても約束したことは残るでしょう。私が忘れてても、ピアノを聴かせてくれたら嬉しいな。音はきっと、覚えてるから」

「詩音ちゃん……」

 掠れた声でつぶやいた蓮を見て、詩音は笑みを浮かべる。その表情は、笑顔なのに泣いているように見えた。

「ごめんね、引いたよね。ヤバい奴と関わっちゃったって思ってる?」

「……っそんなこと」

 慌てて首を振ると、詩音はうつむいて手帳を見つめた。カレンダーにはいくつか人物名と時間が書いてあるのが見えて、そうやって彼女が誰かと約束をしていることが見てとれる。

「蓮くんのピアノ素敵だったからさ、もう一度聴きたいなって我儘言いたくなっちゃったの。でもやっぱり、無理だよね。覚えてるかも分からない相手と約束なんて。ごめんね、この話はなかったことに」

 そう言って手帳を閉じようとした詩音をさえぎって、蓮は検査や誰かの約束の予定が入っていない空白の日付を指差した。