品位で溢れかえる空間に迷い込んだ。
 それが会場に一歩入った時の印象。
 場違いなのではないか──そう思えるくらい独特なオーラが漂う。

 見えない壁が邪魔で前に進めず、誠也は入口で石像のように固まっていた。

「ほら誠也、中に入るわよ」

 優しく背中を押してくれたのは瑞希。
 誠也に勇気を与え、踏み出せなかった一歩を踏み出させた。

 まるで自分もセレブの仲間入りになった感覚に襲われ、心が舞い上がっているのが分かる。
 緊張が高揚感へと変わり、目の前にある光景が光り輝いて見えた。

「すごい人の数だねー。さすがはお嬢様って感じだよ」
「私の力ではないですけどね」
「謙遜するなんて、やはり姫は姫だよ」

 興奮するのは誠也だけではなかった。
 上品そうな大人達に緊張することなく、ひと足先に登った階段を楽しんでいた。

「目立たないよう端に行きましょうか」
「う、うん……。あっ、この場合ってエスコートした方がいいのかな」
「してくれるのね、嬉しいわ、誠也」

 誠也からエスコートを申し出たとはいえ、瑠香と萌絵の機嫌は急降下する。代われるものなら代わって欲しい──口には出さずとも心の中でそう願いを込める。

 ここでケチをつけるほど空気が読めないわけではない。
 だが感情というのはそう単純なモノではなく、嫉妬という魔物が無意識に姿を現してしまう。
 それは瑠香だけの話ではなく、密かに想いを寄せる萌絵も同じ。

 苦しい──誠也が他の女をエスコートする姿など見たくない。
 それは相手が瑞希であろうと関係なく、鋭利な刃物が胸に突き刺さった感覚に襲われる。

 これは嫉妬。偽りだと頭では分かっていても、心が拒絶反応を起こしていた。

「立食形式のビュッフェなので、このテーブルに適当に料理を持ってきてから食べましょうか」
「そうだね、その方が楽でいいね」
「私、何食べようかなー。こういうパーティーは初めてだし」
「あたしは鈴木誠也が変な事しないように見張っておくよ」

 限られた時間でも一緒にいたい。
 それが萌絵の本音であり、少しでも瑞希や瑠香から誠也を離したかった。

 どうせ偽りの恋人関係なのだから、罪悪感を覚える必要はない。
 声には出さずとも、心の中で自分の行動を正当化する。
 心臓が今にも飛び出しそうで、萌絵は平静を保つのが必死だった。

「変な事って……。僕はそんなに信用ないかなぁ」
「そうよ。だって鈴木誠也の失態は姫の失態になるからよっ」
「別についてきてもいいよ。僕は萌絵さんが考えてるような事はしないからさ」

 これくらいじゃ嫌われないはず──むしろ嫌われたくないというのが本音。
 少し強く言い過ぎたと後悔しつつも、萌絵は誠也の後ろを黙ってついていく。

 ただついていくだけでも嬉しい。
 今は自分と誠也だけの時間。
 誰にも邪魔されない特別な時間。
 萌絵は顔をほのかに赤く染め、この限られた時間を満喫していた。

「そういえば萌絵さんって好き嫌いはあるの?」
「ふわっ!? な、な、な、何よいきなり」

 突然話しかけられ動揺してしまう萌絵。
 妄想の世界から引き戻され、鼓動は激しいリズムを奏でる。
 僅かな赤みを帯びた顔は完熟トマトのように真っ赤となった。

 二人っきりになるだけで満足だった。
 それなのに──ただ単に話しかけるだけではなく、自分の好みを聞いてくるというサプライズ。
 頭の中が真っ白になり思考が完全に停止する。

 何か答えなくては──揺れ動く心を落ち着かせ、萌絵は誠也の質問に答えようとしていた。

「え、えっと……。あたしは嫌いなモノはないけど、甘いスイーツは大好きかな」
「意外だね、スイーツってイメージはなかったからさ」
「鈴木誠也はあたしをなんだと思ってるのよっ」

 小顔を膨らませ怒ってみせるも、その姿はどことなく可愛らしい。
 言い換えるなら食べ物を詰め込んだハムスターのよう。
 思わず撫でたくなる気持ちを抑え、誠也はビュッフェテーブルへと歩き始めた。

 テーブルを彩る数々の料理達。
 華やかな衣装に包まれ、誘われるのを静かに待っている。
 どの料理も選ばれたそうなオーラを放ち、思わず全料理を持っていきたくなるほどであった。

「どれも美味しいそうだね。あっ、あのスイーツとか萌絵さんが好きそうじゃない?」
「えっ、そ、そうかも。鈴木誠也がそこまで言うなら、仕方ないから食べてあげよかな」

 素直になれはしないが、気にかけてもらったのが嬉しくてたまらない。
 心の奥がムズムズし、何か込み上げてくるものがあった。

 料理をお皿にたくさん盛ると、誠也と萌絵は陣取っているテーブルへと戻り始める。
 メインディッシュにサラダ、おまけにデザートまで。白一色だったお皿が華やかになっていた。

「誠也、かなり持ってきたね。やっぱり男子は食べるよねー」
「あら、今は女子も食べる人は食べますわよ」
「そうなんだ、知らなかったー」

 和気あいあいと食べながら談笑する誠也たち。
 いつものいがみ合いは大人の雰囲気にかき消され、皆はこの瞬間を存分に楽しんでいる。
 普段では見られない笑顔が飛び出し、そこはまるで楽園のようにも見えた。

 楽しいと時間の感覚が狂うもの。
 気がつけば1時間以上も話し込んでいた。

「ちょっとお手洗いに行ってくるよ」
「お手洗いはこの部屋を出て右にいき、突き当たりを左に曲がったところにありますわ」
「ありがとう、瑞希」
「……それじゃあたしも、いってこようかな」
「男女で連れションとか、白石さんにそんな趣味が……」
「そんなわけないでしょっ!」

 真っ赤な顔で萌絵は全力で否定した。
 恥ずかしい、恥ずかしすぎる。想い人の前でこんな事言われるなど、それ以外の何ものでもない。むしろ瑠香に怒りすら覚えるほど。

 だが今はその怒りを胸にしまい込み、誠也と一緒にパーティー会場をあとにした。

 偶然か必然か、二人っきりの時間が再び訪れる。
 薄暗い廊下を並んで歩く誠也と萌絵。
 見えない壁がふたりを分断し、近くにいるが遠く感じてしまう。

 だがそれでも、何ひとつ会話がなくとも萌絵の心は十分に満たされていた。

「そうだ、トイレは萌絵さんからでいいよ」
「なっ!? あたしの匂いを嗅ぐつもりなのねっ! 鈴木誠也は変態だったんだ」
「い、いや、そんなつもりは……」

 善意で譲ったはずが変態のレッテルを貼られそうになり、誠也は慌てて否定する。そんなつもりは毛頭ないはずなのに、萌絵から放たれる視線が妙に痛い。

 腑に落ちないのは確かだが、ここで反論しようものなら状況が悪化するのは確かだった。

「そ、それじゃ、僕から使わせてもらうね」
「う、うん……」

 トイレの前での不思議なやり取り。
 我に返った萌絵は心の奥から羞恥心が湧き、それ以上の言葉を話せなくなった。

 誠也が戻るまで待っているのはトイレの前。
 トビラを挟んだすぐ向こう側に誠也がいる。
 それを理解した途端、萌絵の思考回路はショートしてしまい、暴走する一歩手前まで精神的に追い詰められた。

「終わったよ、萌絵さん待たせたね。どうぞ使って──」

 自分が何をしたのか分からなかった。
 何者かに操られたように体が勝手に動いてしまう。
 そう、萌絵は自分の意志とは関係なく、誠也を後ろから抱きしめる。

「も、萌絵さん!?」
「……鈴木誠也、あのね、聞いて欲しいの。あたし……あたしは、鈴木誠也の事が好き、なんだよ。だから、あたしと付き合ってくれないかな?」

 流れていた時間が止まり、静寂の中でふたりだけの世界が作られる。
 突然すぎる告白──誠也は固まったまま声を出す事さえ出来なくなっていた。