長いようで短い夏休みも終わり、嬉しくない学校が今日から始まる。
 変わらない日常の始まり──そう思っていたのは誠也だけ。
 常に少しずつ変化していることに気づかず、それはなんの前触れもなくやってきた。

 ──ピンポーン。

 誠也の家にインターフォンの音が鳴り響いたのは朝の7時過ぎ。
 平日の朝早くからの訪問者は誰なのか。
 学校へ行くついでに誠也が応対すると──。

「誠也、迎えに来てあげたわよ」
「なっ、瑞希!?」

 幻ではないか──一瞬そう思うも、これは紛れもない現実。
 白一色に染まった頭では何も考えられず、しばらく石像のように固まってしまう。

 待ち合わせ場所はここではないはず。
 分からない、どうして瑞希が自分の家の前にいるのか理解できない。
 もしかして忘れ物でもしたのかと思ったが、瑞希は『迎えに来た』とハッキリ言っていた。

「何をそんなに驚いているのよ。ほら、早く出てきなさいよね」

 瑞希の呼びかけで体が勝手に動き出し、気がついたときには外へ出ていた。

「おはよ、誠也」
「お、おはよう……」
「今日から新学期だって言うのに、元気がないわね」
「元気がないというより、驚いてるんですけど……」

 本物──誰がどう見ても本物の瑞希。
 残暑のせいかほんのり顔が赤い。
 言葉遣いはいつもと変わらないが、どことなくしおらしい態度のように見えた。

「そ、そうね。まさか私が迎えに来るなんて、思ってもみなかったでしょうね」
「うん、でも、どういう風の吹き回しなの?」
「そ、それは……」

 誠也に理由を聞かれた途端に動揺し始める。
 本当のことを言いたいものの、踏ん切りがつかず話せないでいる。

 初めてのことだから緊張する。
 受け取ってくれなかったらどうしよう。
 ネガティブ思考全開で前へ進むのを拒んでしまう。

 明日からにすればいいか──そんなことを考えるが、もし、瑠香に先を越されたらきっと後悔するはず。
 それだけは絶対にイヤ、そう思うと自然と勇気が湧き出てきた。

「それはね、お弁当……そう、誠也のためにお弁当を作ってきたのよ。受け取ってくれるかな……?」

 返事を聞くのが怖くないと言えばウソになる。
 しかしここで踏み出さなければ、きっと永遠に踏み出せないであろう。
 体が子犬のように小刻みに震え、瑞希は上目遣いで誠也からの返事を待っていた。

「僕のために? ありがとう、瑞希、嬉しいよ」
「ほ、ホント? ホントの本当に嬉しい?」
「もちろんだよ。瑞希の料理、本当に美味しかったし、お弁当で食べられるなら最高だからね」
「嬉しい……」

 優しい笑顔と潤んだ瞳が瑞希の喜びを表現する。
 内心は断られたらどうしようと思っていた。

 不安が歓喜に変わる瞬間ほど心地よいものはない。
 失敗を恐れず前に進んだからこそ、結果が伴ったとも言えよう。

「お昼が楽しみだね。って、それなら学校で渡せばよかったと思うんだけど」
「え、えっと、それは、ほら、誠也って購買派でしょ? だからなるべく早く渡そうと思って……」
「そっか、なんか気を使わせちゃって悪かったね」

 本当はもうひとつ理由がある。
 誠也には絶対に言えない秘密の理由。
 こればかりは、胸の内にしまっておこうと決めていたもの。

 ただ誠也に一刻も早く会いたかっただけ──。
 そんな事を言えば告白したのも同然。
 それは無理、まだ心の準備が出来ていないからだ。

「ううん、これくらい大したことありませんわ。さっ、遅刻する前に行きますわよ」

 自分の心を偽り普段と変わらない態度。
 今こそ氷姫の仮面を被らなければいけない。
 もし、仮面がなかったら……しわくちゃな笑顔で今日一日を過ごさなければならないのだから。


 お昼がこんなにも緊張するものとは思わなかった。
 どんな感想が飛び出してくるのか不安で鼓動が高まる。

 ──トクン、トクン。

 水面に落ちる水滴のように一定のリズムを刻み、期待と不安がせめぎあい瑞希の心を乱してくる。

「美味しそうなお弁当だね。瑞希の料理は本当に美味しいから楽しみだよ」
「そ、そうかな。普通だと思うわよ……」

 照れ隠し──自分でハードルを上げないというのもあるが、誠也からの褒め言葉は特別で、瑞希の心に深く浸透する。

 他の男から言われてもこうはならない。
 男なんて野蛮でガサツなだけ。
 それは分かっているのだが……誠也だけは特別な存在で、一緒にいるのが楽しくてしょうがない。

 好き──偽りではなく本物の気持ち。
 その気持ちを込めたお弁当が誠也の心に届くのか、複雑な想いが交差する中、誠也の食べる姿をじっと見つめていた。

「どう、かな」
「うん、最高だよ、こんなに美味しいお弁当は生まれて初めて食べたよ」
「そ、そうなのね。よかった……朝早くから頑張ったからね」
「何か言いました?」
「ふえっ!? に、にゃんでもないっ」

 言葉にならないくらい嬉しい。
 努力は報われるものだと、いつもより1時間も早く起きたかいがあったものだと思った。

 夏休みの課題のときもそうであったが、今日の嬉しさはあの時よりも遥か上。
 氷姫の仮面が剥がれ落ちるくらい、瑞希の顔は幸せそうであった。

「そういえばさ、文化祭は何やるか決まったかしら?」
「僕のクラスはまだかなー」
「私のクラスは午後に話し合いがあるのよ。メイド服着てみたいからメイド喫茶にならないかなー」

 憧れのメイド服──氷姫である瑞希とは真逆であるが、着てみたいという想いは強かった。

 自分のイメージがあるのは分かっている。
 しかし文化祭でやるとなれば、堂々と夢を叶えられる。
 だからこそ午後は、瑞希にとって勝たなければならない戦いなのだ。

「それなら家とかで着てみればいいと思うけど」
「それは分かっているのよ。だけどね、人間はイメージが大切じゃない? 私がなんて呼ばれてるか知ってますし、そのイメージを壊したくないかなぁと思いますの」

 一応イメージを気にしている。
 自分に似合わない言動や行動には、気をつけているつもり。
 たげど……学校行事という理由さえあれば、そのしがらみから解放される。本当の自分をさらけ出してもバレないと思っていた。

「そっかぁ。でも僕はまったく気にしないよ。だって瑞希は瑞希だからね」

 刺さる……その言葉が心の奥に突き刺さり、押さえつけていた何かを動かし始める。

 他人の顔色を気にしても仕方がない。
 いや、本当の自分の姿は誠也にだけ知ってもらえればいい。

 イメージに固執するのを辞めてしまおうか──そんな事が頭の中に浮かぶも、そんな勇気はないと綺麗に消し去ってしまった。

「それにさ、噂とは違う瑞希が見られて僕は得した気分だよ。きっと学校のみんなは知らないだろうし。偽りの恋人なのに、なんだか特別な存在になった感じかな」

 誠也の本心は瑞希の心を大きく揺さぶる。
 そう思っていたのは自分だけじゃなかった。それが妙に嬉しく、今ならどんな事でも出来そうだと思った。

「あ、ありがと……」
「応援してるよ。僕は瑞希のクラスがメイド喫茶になるよう、心の底から応援しているから」

 誠也の顔をまともに見られない。
 赤面したまま視線を地面へと向け、小さく頷く事しか出来ない。

 嬉しすぎて暴走しそう。
 大声で心の声を叫びたかった。

 まだダメ、喜ぶのはまだ早い。だって、メイド喫茶でメイド服を誠也に見せるのが目的だから。
 どんな反応するのか今から楽しみで、瑞希の中では文化祭の出し物がメイド喫茶に決まっていた。