紗枝だけが、いい目にあってばかりなので、きいてみたくなった。
「さっきも言ったけど、無駄にするのが嫌いでね。紗枝さんのお菓子の才能は活かさないともったいない。それと…俺も、人から才能を見つけてもらった口だからだ」
「じゃあ、建築の方の…?」
「そう。俺の実家は医者一家でね。俺は三人兄弟の末っ子なんだが、上二人の兄が迷いなく医者になってしまった。ところが、どういうわけか、俺には、ちっとも医者になりたい気持ちが芽生えない。親は当然のように俺も医者になると思ってる…勉強は好きだが、なんだかもっと自由度があることがやってみたいと漠然と考えてた。でも何をしていいかわからなくて、中学時代は部屋にこもってプラモデルばかりつくってた。だんだんそれだけじゃ物足りなくなって、ジオラマを作るようになって。ジオラマってわかるかな。模型で街とか公園とかを作るんだ。それをやってたら、家の模型を作るのにはまって…ちゃんと間取りを考えたり、屋根の向きを工夫したり…そしたら、それを見た叔父…美佐子さんの旦那さんだな。彼が、誠司は建築とかそういう方面に行ったら、と言ってくれた。自分の中にはない発想だったから驚いたよ。自分のやってることが仕事につながるんだ、すごい発見だった。それからは建築の本を読み漁って、医者になれっていう親父をなんとかねじ伏せて。学生時代に建築物の海外のコンペで入賞して、それから大手の設計事務所に入れることになって…つまり、叔父さんの一声がなかったら、趣味で模型作ってる、医者になってたかもしれない。そんなことがあったから、才能を持て余してる人間には尽力したい、という気持ちあがあるんだ」
「そうだったんですね…でも、すごいです。学生時代から、ちゃんとやりたいことをやってたって、素敵です。私なんかはな」
花嫁修業、と言いそうになって紗枝を口を閉じた。頑張って建築の仕事をものにしようとしていた佐々木にくらべたら、花嫁修業なんてぬるすぎる。
食事を終えて、車に乗り込んだ。N町にも美味しい蕎麦屋があって、などと他愛ない話しをしていると、佐々木がそういえば、と言った。
「お菓子教室の一回目は今度の日曜日だったよな。よかったら俺が送り迎えをやるよ」
「えっ。そんな貴重なお休みを、いけません。私なら大丈夫です」
紗枝は、美佐子と教室のことで話を詰めている時、美佐子の家の最寄りのバス停を教えてもらい、簡単な地図も書いてもらった。紗枝のアパート近くのバス停から三十分、バスを降りて十分もかからず美佐子の家に着きそうだった。
「バス一本で来れますから…」
紗枝が言うと、佐々木は笑みをもらした。
「君は、わかってないな。ただで送り迎えしようとは思ってないよ」
一瞬、紗枝は疑問に思ったが、すぐに答えは出た。
「佐々木さん、もしかして私が作るお菓子を狙ってるんじゃ…」
「ははは。バレた?今日のも美味しかったしな。美佐子さんに教えて作るわけだろ。ケーキ一個なんて二人で食べきれないだろう。ぜひ味見させてほしいね」
「本当に甘いもの、お好きなんですね」
紗枝は少しばかり唖然として言った。
「そうだな。君が作るお菓子は特別に好きなようだ。今日、食べたのも最高だったし。他の食べてみたくて仕方ないんだ」
紗枝はそう言われて悪い気はしなかった。
「でも、お仕事がお忙しいんじゃ。佐々木さんはお休みの日もお仕事があるんじゃないですか?」
一流建築士だ。何かと忙しそうなイメージがある。
「いや。大きな仕事が終わったばかりなんでね。割と時間があるんだ。じゃあ、9時半に、君のアパートの前に迎えに行く。どうかな?」
そんなに甘えていいのだろうか、と紗枝は思ったが、佐々木はとにかく紗枝のお菓子が食べたいのだ、と思うと気持ちも軽くなった。
「じゃあ、お言葉に甘えます。よろしくお願いします」
また日曜日に、と佐々木は紗枝をアパートに送ると帰って行った。
それから、紗枝にはいろいろやる事があった。どのケーキを美佐子に教えるか選ばなくてはいけない。それが決まったら、そのケーキの試作をして、美佐子に教えるポイントなどをメモする。そして、手書きで、改めて美佐子用のレシピを作成した。
レシピに通常の手順と、ここは難しいかも、という注意点も盛り込んでみた。
美佐子と初めて逢ったのが水曜日だったので、木曜と金曜のコールセンターの仕事の後は、そんなお菓子教室の準備に追われた。
土曜日は、コールセンターも休みで、比較的ゆっくり過ごした。カフェのバイトをしていた時は、朝からカフェに入っていた。こんなにのんびりした朝は久しぶりだった。
リビングで朝のコーヒーを飲みながら明日のお菓子教室のことを考える。準備は丁寧にしたけれど、人に教えるのは初めてだ。少し、緊張もする。
コーヒーの香りを楽しんでいると、ふっとひらめきがあった。
「そうだ」
紗枝はキッチンに向かった。
日曜日。時間通りに佐々木は、紗枝を迎えに来てくれた。
「朝から、ありがとうございます。お疲れではないですか?」
佐々木は、休み返上で来てくれているのだ。
「体力はあるほうでね。休日の早朝は、ジムに行っている。甘いものを食べるにはウエイトコントロールも大事でね」
紗枝は、佐々木を美しい人だと思っていたけれど、そんなに水面下で節制していたのか、と感心した。初めて逢った時こそ、急にプロポーズしてきて、変わった人かと思ったが、それはイレギュラーで、本当の佐々木は自分を律することのできる、きちんとした人なのだ、と紗枝もわかってきた。
日曜日のせいか、道は混んでいなかった。スムーズに、美佐子の家にたどり着いた。お菓子教室の開始時間の十分前だった。
今日も玄関先でみつさんが迎えてくれた。家政婦さんにお休みはないのだろうか、とちらりと思った。
案内されると、エプロンを着けた美佐子が、笑顔で紗枝を迎え、佐々木の顔を見て驚いていた。
「あら、誠司さんが送ってくれたの」
「美味しいお菓子を食べれるとしたら、来ないわけないでしょう」
「でも、今日作ったお菓子はお友達にあげるから食べれないわよ」
「そんな。一切れくらいいいじゃないですか」
「仕方ないわねえ」
まるで漫才のように続く会話に紗枝はクスクス笑った。キッチンに、持ってきた製菓用の道具を並べ始める。綺麗にかたづけられており、使いやすそうなキッチンだ。
「じゃあ、教室スタートっていうことで、いいかしら、先生?」
先生と呼ばれてくすぐったかったが、紗枝は気持ちを引き締めて、頷いて言った。
「では、始めましょう。今日は基本のパウンドケーキです」
佐々木は、お菓子作りの過程には興味がないらしく、リビングでお茶を飲みながら本を読んで、紗枝の作るお菓子を待つようだ。
お菓子作りは、丁寧な測量から始める。1グラムも狂わせないようちゃんと測ることで、出来栄えが全然違うのだ。その辺は美佐子もわかっているようで、スムーズに進んだ。
ボールに入った室温にしたバターとグラニュー糖をハンドミキサーで混ぜていく。
「あら、泡だて器を使うの?」
「はい、乳化という作業になります。全体がまざったと思ってから、わずかに重く感じる瞬間まで混ぜ続けて、しっかりと乳化させます」
さらに、アーモンドプードル、薄力粉、ベーキングパウダーを入れて、切るように混ぜる。
紗枝はお手本を見せて、美佐子にやってもらった。
「この切るように、ってくせ者よね。お菓子の本に載ってるけど、写真じゃわからないもの」
「そうですね。コツをつかむと簡単ですよ。あ、美佐子さん、今のいい感じです。切るように混ぜる、できてます」
「そう?よかった」
「さっきも言ったけど、無駄にするのが嫌いでね。紗枝さんのお菓子の才能は活かさないともったいない。それと…俺も、人から才能を見つけてもらった口だからだ」
「じゃあ、建築の方の…?」
「そう。俺の実家は医者一家でね。俺は三人兄弟の末っ子なんだが、上二人の兄が迷いなく医者になってしまった。ところが、どういうわけか、俺には、ちっとも医者になりたい気持ちが芽生えない。親は当然のように俺も医者になると思ってる…勉強は好きだが、なんだかもっと自由度があることがやってみたいと漠然と考えてた。でも何をしていいかわからなくて、中学時代は部屋にこもってプラモデルばかりつくってた。だんだんそれだけじゃ物足りなくなって、ジオラマを作るようになって。ジオラマってわかるかな。模型で街とか公園とかを作るんだ。それをやってたら、家の模型を作るのにはまって…ちゃんと間取りを考えたり、屋根の向きを工夫したり…そしたら、それを見た叔父…美佐子さんの旦那さんだな。彼が、誠司は建築とかそういう方面に行ったら、と言ってくれた。自分の中にはない発想だったから驚いたよ。自分のやってることが仕事につながるんだ、すごい発見だった。それからは建築の本を読み漁って、医者になれっていう親父をなんとかねじ伏せて。学生時代に建築物の海外のコンペで入賞して、それから大手の設計事務所に入れることになって…つまり、叔父さんの一声がなかったら、趣味で模型作ってる、医者になってたかもしれない。そんなことがあったから、才能を持て余してる人間には尽力したい、という気持ちあがあるんだ」
「そうだったんですね…でも、すごいです。学生時代から、ちゃんとやりたいことをやってたって、素敵です。私なんかはな」
花嫁修業、と言いそうになって紗枝を口を閉じた。頑張って建築の仕事をものにしようとしていた佐々木にくらべたら、花嫁修業なんてぬるすぎる。
食事を終えて、車に乗り込んだ。N町にも美味しい蕎麦屋があって、などと他愛ない話しをしていると、佐々木がそういえば、と言った。
「お菓子教室の一回目は今度の日曜日だったよな。よかったら俺が送り迎えをやるよ」
「えっ。そんな貴重なお休みを、いけません。私なら大丈夫です」
紗枝は、美佐子と教室のことで話を詰めている時、美佐子の家の最寄りのバス停を教えてもらい、簡単な地図も書いてもらった。紗枝のアパート近くのバス停から三十分、バスを降りて十分もかからず美佐子の家に着きそうだった。
「バス一本で来れますから…」
紗枝が言うと、佐々木は笑みをもらした。
「君は、わかってないな。ただで送り迎えしようとは思ってないよ」
一瞬、紗枝は疑問に思ったが、すぐに答えは出た。
「佐々木さん、もしかして私が作るお菓子を狙ってるんじゃ…」
「ははは。バレた?今日のも美味しかったしな。美佐子さんに教えて作るわけだろ。ケーキ一個なんて二人で食べきれないだろう。ぜひ味見させてほしいね」
「本当に甘いもの、お好きなんですね」
紗枝は少しばかり唖然として言った。
「そうだな。君が作るお菓子は特別に好きなようだ。今日、食べたのも最高だったし。他の食べてみたくて仕方ないんだ」
紗枝はそう言われて悪い気はしなかった。
「でも、お仕事がお忙しいんじゃ。佐々木さんはお休みの日もお仕事があるんじゃないですか?」
一流建築士だ。何かと忙しそうなイメージがある。
「いや。大きな仕事が終わったばかりなんでね。割と時間があるんだ。じゃあ、9時半に、君のアパートの前に迎えに行く。どうかな?」
そんなに甘えていいのだろうか、と紗枝は思ったが、佐々木はとにかく紗枝のお菓子が食べたいのだ、と思うと気持ちも軽くなった。
「じゃあ、お言葉に甘えます。よろしくお願いします」
また日曜日に、と佐々木は紗枝をアパートに送ると帰って行った。
それから、紗枝にはいろいろやる事があった。どのケーキを美佐子に教えるか選ばなくてはいけない。それが決まったら、そのケーキの試作をして、美佐子に教えるポイントなどをメモする。そして、手書きで、改めて美佐子用のレシピを作成した。
レシピに通常の手順と、ここは難しいかも、という注意点も盛り込んでみた。
美佐子と初めて逢ったのが水曜日だったので、木曜と金曜のコールセンターの仕事の後は、そんなお菓子教室の準備に追われた。
土曜日は、コールセンターも休みで、比較的ゆっくり過ごした。カフェのバイトをしていた時は、朝からカフェに入っていた。こんなにのんびりした朝は久しぶりだった。
リビングで朝のコーヒーを飲みながら明日のお菓子教室のことを考える。準備は丁寧にしたけれど、人に教えるのは初めてだ。少し、緊張もする。
コーヒーの香りを楽しんでいると、ふっとひらめきがあった。
「そうだ」
紗枝はキッチンに向かった。
日曜日。時間通りに佐々木は、紗枝を迎えに来てくれた。
「朝から、ありがとうございます。お疲れではないですか?」
佐々木は、休み返上で来てくれているのだ。
「体力はあるほうでね。休日の早朝は、ジムに行っている。甘いものを食べるにはウエイトコントロールも大事でね」
紗枝は、佐々木を美しい人だと思っていたけれど、そんなに水面下で節制していたのか、と感心した。初めて逢った時こそ、急にプロポーズしてきて、変わった人かと思ったが、それはイレギュラーで、本当の佐々木は自分を律することのできる、きちんとした人なのだ、と紗枝もわかってきた。
日曜日のせいか、道は混んでいなかった。スムーズに、美佐子の家にたどり着いた。お菓子教室の開始時間の十分前だった。
今日も玄関先でみつさんが迎えてくれた。家政婦さんにお休みはないのだろうか、とちらりと思った。
案内されると、エプロンを着けた美佐子が、笑顔で紗枝を迎え、佐々木の顔を見て驚いていた。
「あら、誠司さんが送ってくれたの」
「美味しいお菓子を食べれるとしたら、来ないわけないでしょう」
「でも、今日作ったお菓子はお友達にあげるから食べれないわよ」
「そんな。一切れくらいいいじゃないですか」
「仕方ないわねえ」
まるで漫才のように続く会話に紗枝はクスクス笑った。キッチンに、持ってきた製菓用の道具を並べ始める。綺麗にかたづけられており、使いやすそうなキッチンだ。
「じゃあ、教室スタートっていうことで、いいかしら、先生?」
先生と呼ばれてくすぐったかったが、紗枝は気持ちを引き締めて、頷いて言った。
「では、始めましょう。今日は基本のパウンドケーキです」
佐々木は、お菓子作りの過程には興味がないらしく、リビングでお茶を飲みながら本を読んで、紗枝の作るお菓子を待つようだ。
お菓子作りは、丁寧な測量から始める。1グラムも狂わせないようちゃんと測ることで、出来栄えが全然違うのだ。その辺は美佐子もわかっているようで、スムーズに進んだ。
ボールに入った室温にしたバターとグラニュー糖をハンドミキサーで混ぜていく。
「あら、泡だて器を使うの?」
「はい、乳化という作業になります。全体がまざったと思ってから、わずかに重く感じる瞬間まで混ぜ続けて、しっかりと乳化させます」
さらに、アーモンドプードル、薄力粉、ベーキングパウダーを入れて、切るように混ぜる。
紗枝はお手本を見せて、美佐子にやってもらった。
「この切るように、ってくせ者よね。お菓子の本に載ってるけど、写真じゃわからないもの」
「そうですね。コツをつかむと簡単ですよ。あ、美佐子さん、今のいい感じです。切るように混ぜる、できてます」
「そう?よかった」



