どうやら美佐子は、本気で紗枝のお菓子を気に入ってくれているらしい。
「有名な料理研究家のお菓子教室にも行ったことがあるけど、先生を取り囲んで手順を見るだけで、結局、うちに帰ってきて、作ったりはしなかったわ。だからね、紗枝さんには大勢でやるお菓子教室をやってほしいんじゃなくて、マンツーマンで、私に教えてほしいの。場所はうちのキッチンを使ってもらっていいから」
お菓子の作り方を、私が美佐子さんに教える。つまり、それは。
「じゃあ…佐々木さんが、言ってた、私に仕事を紹介するっていうのは」
「そう。美佐子さんにお菓子作りを指南する。慣れてきたら、サブリナ会の皆さんのお宅で出張お菓子教室をやったらいい。皆さん甘いものが大好きだ。喜ばれるよ」
「出張お菓子教室…」
「君は、人と接する仕事が好きだと言っていた。適任だと思ったんだが」
「それは、そうですが…」
自分にそんなことができるだろうか、という不安が拭えない。
「あ、そうだ受講料のお話をしていなかったわね。何か一つ、お菓子の作り方を教えてもうとして、これくらいでどうかしら」
手元にあった手帳に、美佐子はさらっと数字を書いて、紗枝に見せた。
紗枝は、息を飲んだ。0が、多すぎる。
「こ、こんなにもらっていいんでしょうか?」
「あら、だってここまで来る交通費に材料費まで入っているのよ。これくらいは当然でしょう」
あっさり言われたが、紗枝がカフェに勤めていた時の時給の十倍だ。
「紗枝さん。金額をもらいすぎなんて思う必要はないよ。このサブリナ会の皆さんは、刺激を求めてるんだ。いつも似たようなお菓子を食べて喋るだけなのに飽きてらっしゃる。紗枝さんからお菓子作りを習えたら、新鮮な時間を過ごせるだろう。それに見合うお金はもらっていいと思うよ」
佐々木が言った。
紗枝は、ドキドキしてきた。自分にマダムたちに教えることなんて、できるだろうか。でも、この十年、お菓子を作るときは、精魂込めて作ってきた。プレゼントすると、必ず友人には喜ばれた。そして、さっき、目の前で美佐子も佐々木も美味しいと言ってくれた。
これはチャンスかもしれない。紗枝は、自分の背中を胸の内で、思い切り押した。
「私でよければ…出張お菓子教室、やらせてください」
手に汗をかいていた。
「商談成立ね。じゃあ、もうちょっと細かいことを詰めましょうか」
それから一時間ほど、紗枝と美佐子はこれからやるお菓子教室について、話し合った。基本的に月二回、日曜日の午前中に美佐子の家にやってきて、一緒にお菓子を作って作り方を覚えてもらう。台所も見せてもらって、紗枝が持ってくる道具に何が必要かもメモした。
佐々木は、そんな二人を見守りつつ、お茶を飲んでいた。
初回のお菓子教室の日取りは、早速今度の日曜日からになった。夕飯もうちで食べていきなさいよ、と美佐子は言ってくれたが、さすがにそれは遠慮した。それに、教室で何のお菓子を焼くのか、うちでいろいろ考えてみたかった。
帰りも送ってくれるという佐々木の車に乗り込む。しばらく車を走らせてから、佐々木は言った。
「うーん、お菓子だけじゃ物足りないな、一緒に蕎麦でも食べない、紗枝さん」
「確かにお蕎麦なら食べられそうです。でも、佐々木さんお仕事がお忙しいのでは」
一流建築家だ、設計はもちろん、打合せなど多いのではないだろうか。
「明日のあさイチで業者との会議があるが、今夜は空いている。じゃあ、蕎麦に決まりだな」
佐々木がそう言って連れて行ってくれたのは、そこから二十分ほどにある、古民家をリノベーションした蕎麦屋だった。四人がけのテーブルが、それぞれ太い柱で仕切られていて、照明も間接照明で仄明るい。仕切りられた空間はたっぷりあって、隣の席の客の声は聞こえない。静かで、落ち着いた店だ。
佐々木は天ざるを、紗枝はざるそばだけを注文した。
「あの、今日は、本当にありがとうございました。思いがけず、いい仕事を紹介してもらって。うまくいくかは不安ですけど」
「そうか?不安がる要素は何もない、と思うが。美佐子さんともさっきうまくいってたしな。もうこの時点で、美佐子さんが喜んでいる顔が思い浮かぶけどな」
「そうでしょうか…ずっと自分で作ってきたばかりだったので。教える、ということが上手にできるか心配です」
そうか、と佐々木は少し考えた。
「じゃあ、手順とか書いたレシピを作成すればいい。君はそらで作れるだろうが、美佐子さんは初心者だからな、口伝えだけでは覚えられないかもしれない」
「あ…そうですね。手取り足取りのマンツーマンでも、後でレシピを見返したいですよね。そうします。…佐々木さんは、いつもこんな風なのですか?」
「うん?」
「なんて言うか…出会ったばっかりの人に仕事を紹介するとかアドバイスするとか、何だか手なられてらっしゃるから」
「そうだなあ。確かにそういう世話を焼くのは好きかもしれないな。この間、食事したときに言ったろう。物でも人でも無駄にするのが嫌いなんだ。何か才能を持ってる人がいて、それを宝の持ち腐れにしとくのは、本当にもったいない、と思う。だから、俺の人脈が活かせるんなら、人をつなげるのは厭わないかな。そうやって縁組して、うまくいった時は、自分のことのように嬉しい」
はあ、と紗枝は頷きながら、感心した。建築士というと、建設物を建てておしまいのイメージがあるが、佐々木はどうやらそれだけではないのだ。ビッグプロジェクトの中心ともなれば、人脈の広さも紗枝の想像を超えているだろう。そんな中、人の才能を見いだし育てることもしている…突然結婚の話が出てきた時は面食らったが、紗枝が思っていた以上に、懐の深い人なのかもしれない。
注文した蕎麦がやってきた。食べると、麺がほどよい固さできりっとしていて、美味しい。つゆも絶品だ。
「美味しいです」
紗枝は思わず笑顔になって言った。
「紗枝さんは美味そうに食べてくれる。ご馳走しがいがあるな」
「ご馳走って、いけません。お仕事を紹介していただいたんですから、ここは私に払わせてください。お礼がしたいんです」
「お礼なんていらないよ。悪いが女性に払わせたことはない。美味そうに食べてくれたら、それでいいんだ」
「佐々木さん…」
紗枝はふと思った。この間、佐々木との食事をドタキャンした彼女も、こういう佐々木の大人らしい振舞いを見て、惹かれていたのかもしれない。惹かれていたからこそ、好みじゃない、と言われて辛かったのだ。
蕎麦を半分くらい食べたところで、佐々木が口を開いた。
「紗枝さんのお菓子作りは、子供の時から?」
「そうですね…前もちらっとお話しましたが、嫌なこととか落ち込むことがあった時、必ず作ってましたね。手を動かしている内に、気持ちがざわざわしてるのが落ち着くんです。焼きあがった時の香りをかぐと、心がぱあっと華やぐんです。焼きたてのケーキを味見してる時は、もう心が軽くなってますね」
「お菓子によるセラピーだ。お菓子作りはじゃあ、独学で?」
「作り始めは母に教わって…小学校高学年からはもう本を読んで一人で作っていました。お菓子の本がたくさんある家だったんです」
「それで、あんなに上手く焼けるものなんだ。すごいな」
「いえ、厳密には独学ではないです。高校の時、一年だけ、お菓子教室に通いました。ちょっとしたテクニックはそこで叩き込まれたというか」
「そうか、なるほどね。じゃあ、その頃教わった感じを思い出して美佐子さんに教えるといいな」
「そうですね。やってみます。でも…やっぱり腑に落ちません。どうして一度食事しただけの私に、こんなによくしてくださるんですか?」
「有名な料理研究家のお菓子教室にも行ったことがあるけど、先生を取り囲んで手順を見るだけで、結局、うちに帰ってきて、作ったりはしなかったわ。だからね、紗枝さんには大勢でやるお菓子教室をやってほしいんじゃなくて、マンツーマンで、私に教えてほしいの。場所はうちのキッチンを使ってもらっていいから」
お菓子の作り方を、私が美佐子さんに教える。つまり、それは。
「じゃあ…佐々木さんが、言ってた、私に仕事を紹介するっていうのは」
「そう。美佐子さんにお菓子作りを指南する。慣れてきたら、サブリナ会の皆さんのお宅で出張お菓子教室をやったらいい。皆さん甘いものが大好きだ。喜ばれるよ」
「出張お菓子教室…」
「君は、人と接する仕事が好きだと言っていた。適任だと思ったんだが」
「それは、そうですが…」
自分にそんなことができるだろうか、という不安が拭えない。
「あ、そうだ受講料のお話をしていなかったわね。何か一つ、お菓子の作り方を教えてもうとして、これくらいでどうかしら」
手元にあった手帳に、美佐子はさらっと数字を書いて、紗枝に見せた。
紗枝は、息を飲んだ。0が、多すぎる。
「こ、こんなにもらっていいんでしょうか?」
「あら、だってここまで来る交通費に材料費まで入っているのよ。これくらいは当然でしょう」
あっさり言われたが、紗枝がカフェに勤めていた時の時給の十倍だ。
「紗枝さん。金額をもらいすぎなんて思う必要はないよ。このサブリナ会の皆さんは、刺激を求めてるんだ。いつも似たようなお菓子を食べて喋るだけなのに飽きてらっしゃる。紗枝さんからお菓子作りを習えたら、新鮮な時間を過ごせるだろう。それに見合うお金はもらっていいと思うよ」
佐々木が言った。
紗枝は、ドキドキしてきた。自分にマダムたちに教えることなんて、できるだろうか。でも、この十年、お菓子を作るときは、精魂込めて作ってきた。プレゼントすると、必ず友人には喜ばれた。そして、さっき、目の前で美佐子も佐々木も美味しいと言ってくれた。
これはチャンスかもしれない。紗枝は、自分の背中を胸の内で、思い切り押した。
「私でよければ…出張お菓子教室、やらせてください」
手に汗をかいていた。
「商談成立ね。じゃあ、もうちょっと細かいことを詰めましょうか」
それから一時間ほど、紗枝と美佐子はこれからやるお菓子教室について、話し合った。基本的に月二回、日曜日の午前中に美佐子の家にやってきて、一緒にお菓子を作って作り方を覚えてもらう。台所も見せてもらって、紗枝が持ってくる道具に何が必要かもメモした。
佐々木は、そんな二人を見守りつつ、お茶を飲んでいた。
初回のお菓子教室の日取りは、早速今度の日曜日からになった。夕飯もうちで食べていきなさいよ、と美佐子は言ってくれたが、さすがにそれは遠慮した。それに、教室で何のお菓子を焼くのか、うちでいろいろ考えてみたかった。
帰りも送ってくれるという佐々木の車に乗り込む。しばらく車を走らせてから、佐々木は言った。
「うーん、お菓子だけじゃ物足りないな、一緒に蕎麦でも食べない、紗枝さん」
「確かにお蕎麦なら食べられそうです。でも、佐々木さんお仕事がお忙しいのでは」
一流建築家だ、設計はもちろん、打合せなど多いのではないだろうか。
「明日のあさイチで業者との会議があるが、今夜は空いている。じゃあ、蕎麦に決まりだな」
佐々木がそう言って連れて行ってくれたのは、そこから二十分ほどにある、古民家をリノベーションした蕎麦屋だった。四人がけのテーブルが、それぞれ太い柱で仕切られていて、照明も間接照明で仄明るい。仕切りられた空間はたっぷりあって、隣の席の客の声は聞こえない。静かで、落ち着いた店だ。
佐々木は天ざるを、紗枝はざるそばだけを注文した。
「あの、今日は、本当にありがとうございました。思いがけず、いい仕事を紹介してもらって。うまくいくかは不安ですけど」
「そうか?不安がる要素は何もない、と思うが。美佐子さんともさっきうまくいってたしな。もうこの時点で、美佐子さんが喜んでいる顔が思い浮かぶけどな」
「そうでしょうか…ずっと自分で作ってきたばかりだったので。教える、ということが上手にできるか心配です」
そうか、と佐々木は少し考えた。
「じゃあ、手順とか書いたレシピを作成すればいい。君はそらで作れるだろうが、美佐子さんは初心者だからな、口伝えだけでは覚えられないかもしれない」
「あ…そうですね。手取り足取りのマンツーマンでも、後でレシピを見返したいですよね。そうします。…佐々木さんは、いつもこんな風なのですか?」
「うん?」
「なんて言うか…出会ったばっかりの人に仕事を紹介するとかアドバイスするとか、何だか手なられてらっしゃるから」
「そうだなあ。確かにそういう世話を焼くのは好きかもしれないな。この間、食事したときに言ったろう。物でも人でも無駄にするのが嫌いなんだ。何か才能を持ってる人がいて、それを宝の持ち腐れにしとくのは、本当にもったいない、と思う。だから、俺の人脈が活かせるんなら、人をつなげるのは厭わないかな。そうやって縁組して、うまくいった時は、自分のことのように嬉しい」
はあ、と紗枝は頷きながら、感心した。建築士というと、建設物を建てておしまいのイメージがあるが、佐々木はどうやらそれだけではないのだ。ビッグプロジェクトの中心ともなれば、人脈の広さも紗枝の想像を超えているだろう。そんな中、人の才能を見いだし育てることもしている…突然結婚の話が出てきた時は面食らったが、紗枝が思っていた以上に、懐の深い人なのかもしれない。
注文した蕎麦がやってきた。食べると、麺がほどよい固さできりっとしていて、美味しい。つゆも絶品だ。
「美味しいです」
紗枝は思わず笑顔になって言った。
「紗枝さんは美味そうに食べてくれる。ご馳走しがいがあるな」
「ご馳走って、いけません。お仕事を紹介していただいたんですから、ここは私に払わせてください。お礼がしたいんです」
「お礼なんていらないよ。悪いが女性に払わせたことはない。美味そうに食べてくれたら、それでいいんだ」
「佐々木さん…」
紗枝はふと思った。この間、佐々木との食事をドタキャンした彼女も、こういう佐々木の大人らしい振舞いを見て、惹かれていたのかもしれない。惹かれていたからこそ、好みじゃない、と言われて辛かったのだ。
蕎麦を半分くらい食べたところで、佐々木が口を開いた。
「紗枝さんのお菓子作りは、子供の時から?」
「そうですね…前もちらっとお話しましたが、嫌なこととか落ち込むことがあった時、必ず作ってましたね。手を動かしている内に、気持ちがざわざわしてるのが落ち着くんです。焼きあがった時の香りをかぐと、心がぱあっと華やぐんです。焼きたてのケーキを味見してる時は、もう心が軽くなってますね」
「お菓子によるセラピーだ。お菓子作りはじゃあ、独学で?」
「作り始めは母に教わって…小学校高学年からはもう本を読んで一人で作っていました。お菓子の本がたくさんある家だったんです」
「それで、あんなに上手く焼けるものなんだ。すごいな」
「いえ、厳密には独学ではないです。高校の時、一年だけ、お菓子教室に通いました。ちょっとしたテクニックはそこで叩き込まれたというか」
「そうか、なるほどね。じゃあ、その頃教わった感じを思い出して美佐子さんに教えるといいな」
「そうですね。やってみます。でも…やっぱり腑に落ちません。どうして一度食事しただけの私に、こんなによくしてくださるんですか?」



