「はい。私が作りました。友人は美味しいと言ってくれてましたが…お口汚しになるかもしれませんが、私にできるお礼は、これくらいなので、受け取ってもらえませんか?」
佐々木の顔がぱっと明るくなった。
「ぜひ食べたいね。早速いただいても?」
「もちろんです」
佐々木は、ラッピングのリボンをほどき、一枚クッキーを食べた。
「なんだ、これ」
どきりと、した。一流建築士には、紗枝の味では、やはりダメだったか。
「こんな美味いクッキー食べたこと、ないぞ」
「は…」
どうやら、気に入ってもらえたらしい。続けて2枚、3枚、と佐々木は結局、紗枝が渡したクッキーを平らげてしまった。
佐々木は食べ終えると、急に何かを考え込んだ。
あれ、最後の1枚のクッキーが美味しくなかったとか?ナッツ味って好みが別れるから。悪かったな、これじゃお礼にならない…
「美味すぎる」
ぼそっと佐々木は言った。
「え?」
「君は、他にもお菓子を焼けるんだろうな。焼き菓子とかケーキとか」
「ええ、まあ…」
「毎日、焼くのは大変だろうか」
「いえ、好きな作業なので、できると思いますが、そうすると問題は誰に食べてもらうかなんです。一人で食べきれないから…このクッキーも職場に『悪いけど食べて』って食べてもらっていて。毎日だったら顰蹙を買うでしょうね。だから落ち込んだ時にしか作らないようにしています」
「俺が食べる」
「え?」
「君の作ったお菓子は、俺が食べるよ。毎日食べたい。紗枝さん」
毎日?と紗枝が戸惑っていると、佐々木はきっぱりとこう言った。
「俺と、結婚してください」
紗枝は、自分の耳を疑った。
「あの、今なんて…?」
「俺と結婚してほしい。俺は、結婚にはなんのメリットもない、と諦めていたが、君とだったら、そうじゃない」
「な…」
紗枝は、あまりの言い草に呆然とした。この人は、なんてことを言い出すんだろう。
少し、間を置いて、気持ちを落ち着かせてから、紗枝は言った。
「佐々木さん。気持ちのない結婚をしようとしてダメだったわけでしょう。私からこういうのも失礼ですが、あの、同じ轍を踏もうとしてらっしゃいますよ」
「いや、踏んでない。だって今回はちゃんと俺にメリットがある。君の作ったお菓子が毎日食べられる」
「そんな、今日お会いしたばかりですよ。いきなり結婚なんて飛躍しすぎです」
「そうか…最近、俺と結婚したい女性とばかり会っていたから、女性は、皆俺と結婚したいもんだと思っていた。君はそうじゃないんだな」
はあ、と紗枝は、ため息をついた。
イケメンでお金持ちって、こういう風になっちゃうんだ。困ったものだな。
「私、結婚は、ちゃんとお互いのことを知ってからしたいです。そうして、自分と一緒に人生を共にすることができる伴侶なのか、選びたいです。私、土曜日に彼氏にフラれたばかりで。その彼とも簡単に交際したことや、夢を一緒に語って、私だけがもりあがってしまった、ということに後悔があります。だから、次の恋は、もっと慎重にしたいんです」
「ふうん…夢、ね」
佐々木は紗枝の言葉が伝わっているのかいないのか、まだ何か考えている。
「君はダブルワークをしていたんだよな。こう言ってはなんだが、経済的にきついんだろう。しかもさっきカフェの仕事の方は辞めていて、飲食の仕事を探すと言っていた」
「…そうです」
話の筋が見えなくて、紗枝は怪訝な顔をした。
「俺なら、君にいい仕事を紹介できるかもしれない」
「え?」
「結婚の話は、ちょっと脇に置いておこう。俺の結婚だって早急に決めたいが、君も生活がかかってるから、早い方がいいよな。どうかな、明後日、もう一度会えないか」
結婚の話から、仕事の話へ。目まぐるしい展開に紗枝はついていくのがやっとだった。
仕事とひとことで言っても、いろんな仕事がある。佐々木は、さっきまでは悪い人ではない、と思っていたが、結婚話を出されれてから、やっぱり変な人だと思い始めていた。
その人からの仕事の紹介…なんか怪しい。
だが、今まで通りだっら、ダブルワークで時給の安い飲食の仕事をすることになる。
好きな仕事だが、体力的にきつい面もある。
…佐々木さんの、話を、聞くくらいなら、いい…?
何しろ、今日はコース料理をご馳走になってしまったし、紗枝の気持ちをしゃんとさせてくれた。その恩義がある。無下に断るのもどうだろう、という気になってくる。
「じゃ、じゃあ…お話を、聞くだけなら」
「決まりだな。じゃあ、明後日の夕方にしよう。迎えに行く。そして、その仕事関係の人と引き合わせるよ」
「わかりました。お願いします」
食後のデザートとコーヒーも、もう食べ終えていた。
店の中にちらほらと客が入り始めている。
佐々木と紗枝は席を立ち、食事代はもちろん佐々木が払った。紗枝は自分だけが食べたケーキとコーヒーのセットだけでも払おうとしたが、佐々木は譲らず、それも払ってくれた。
店を出て、紗枝は改めてお辞儀をした。
「今晩は、美味しいお料理をありがとうございました」
「そうだな、この店の名前にぴったりの夜だったな」
「店の名前?」
店に入る前にみたけれど、さっと見て読めなかった。
「うん。Koyoi というんだ。今宵出会えてよかった、の今宵だ」
「へえ…」
なんだか、口の中で転がすと響きがいい。今宵。
「送っていくよ」
そういえば、佐々木はノンアルコールカクテルを飲んでいた。店の駐車場に黒い高級車が
置いてあった。紗枝は恐縮したが、佐々木は「女性を一人で帰すわけにはいかない」と言って半ば強引に紗枝を車に乗せた。数十分後、車は紗枝のアパートの前に到着した。
「じゃあ、今宵はこの辺で失礼します」
今宵という言葉を使ってみたかった。
「うん。明後日の17時に、ここに迎えにくる」
「よろしくお願いします」
紗枝は頭を下げた。すると佐々木が何か思いついたようだった。
「紗枝さん、ちょっとお願いがあるんだが…」
翌日の夜。
「建築士なのはわかったけど。いきなり結婚しようなんて、ぶっとんでるわねえ」
高校時代からの親友で、今でも紗枝の地元に暮らす、京香が言った。紗枝から電話したのだ。
「そうでしょ。変な人だよね。なんか訳ありだったけど、それにしたって…ちょっと感覚がおかしいよね」
「イケメンでお金持ち。言うことないのに、性格に難ありかあ、なかなかうまくいかないね」
「京香、佐々木さんの性格がよかったら、結婚話に乗った、と思ってるの?私、失恋したばかりで、そんな気になれないよ」
「えー。そお、サンシャインモール造った人なんて、ビッグすぎて、あたしだったら即プロポーズにOKしちゃうかも。お金持ちで、イケメン、問題ないよね」
「もう、他人事だと思って…」
「でも、安心した」
「うん?」
「紗枝、失恋した割には、いつもと同じ声出せてるよ。以前だったら、もっと死にそうな感じになったと思う。その佐々木さんって変わってるけど、いいカンフル剤だったかもね」
確かに。失恋の痛手は佐々木のことを考えると薄くなっていくような…。
「で、佐々木さんの紹介する仕事って何なんだろうねえ」
「そこなのよ。それがね、佐々木さん、お菓子焼いてきてくれっていうの」
「どういうこと?」
「理由は言わなかったけど、別れ際にお願いされて。お菓子を3種類焼いて持ってきてほしいって。どういうつもりなんだろう」
「うーん、その紹介してもらう人に、あいさつ代わりに手土産とか?紗枝のお菓子は美味しいから、ちょっとしたポイント稼ぎになるかも」
「そうかな…だって、その紹介相手が甘党じゃなかったら迷惑でしょ」
佐々木の顔がぱっと明るくなった。
「ぜひ食べたいね。早速いただいても?」
「もちろんです」
佐々木は、ラッピングのリボンをほどき、一枚クッキーを食べた。
「なんだ、これ」
どきりと、した。一流建築士には、紗枝の味では、やはりダメだったか。
「こんな美味いクッキー食べたこと、ないぞ」
「は…」
どうやら、気に入ってもらえたらしい。続けて2枚、3枚、と佐々木は結局、紗枝が渡したクッキーを平らげてしまった。
佐々木は食べ終えると、急に何かを考え込んだ。
あれ、最後の1枚のクッキーが美味しくなかったとか?ナッツ味って好みが別れるから。悪かったな、これじゃお礼にならない…
「美味すぎる」
ぼそっと佐々木は言った。
「え?」
「君は、他にもお菓子を焼けるんだろうな。焼き菓子とかケーキとか」
「ええ、まあ…」
「毎日、焼くのは大変だろうか」
「いえ、好きな作業なので、できると思いますが、そうすると問題は誰に食べてもらうかなんです。一人で食べきれないから…このクッキーも職場に『悪いけど食べて』って食べてもらっていて。毎日だったら顰蹙を買うでしょうね。だから落ち込んだ時にしか作らないようにしています」
「俺が食べる」
「え?」
「君の作ったお菓子は、俺が食べるよ。毎日食べたい。紗枝さん」
毎日?と紗枝が戸惑っていると、佐々木はきっぱりとこう言った。
「俺と、結婚してください」
紗枝は、自分の耳を疑った。
「あの、今なんて…?」
「俺と結婚してほしい。俺は、結婚にはなんのメリットもない、と諦めていたが、君とだったら、そうじゃない」
「な…」
紗枝は、あまりの言い草に呆然とした。この人は、なんてことを言い出すんだろう。
少し、間を置いて、気持ちを落ち着かせてから、紗枝は言った。
「佐々木さん。気持ちのない結婚をしようとしてダメだったわけでしょう。私からこういうのも失礼ですが、あの、同じ轍を踏もうとしてらっしゃいますよ」
「いや、踏んでない。だって今回はちゃんと俺にメリットがある。君の作ったお菓子が毎日食べられる」
「そんな、今日お会いしたばかりですよ。いきなり結婚なんて飛躍しすぎです」
「そうか…最近、俺と結婚したい女性とばかり会っていたから、女性は、皆俺と結婚したいもんだと思っていた。君はそうじゃないんだな」
はあ、と紗枝は、ため息をついた。
イケメンでお金持ちって、こういう風になっちゃうんだ。困ったものだな。
「私、結婚は、ちゃんとお互いのことを知ってからしたいです。そうして、自分と一緒に人生を共にすることができる伴侶なのか、選びたいです。私、土曜日に彼氏にフラれたばかりで。その彼とも簡単に交際したことや、夢を一緒に語って、私だけがもりあがってしまった、ということに後悔があります。だから、次の恋は、もっと慎重にしたいんです」
「ふうん…夢、ね」
佐々木は紗枝の言葉が伝わっているのかいないのか、まだ何か考えている。
「君はダブルワークをしていたんだよな。こう言ってはなんだが、経済的にきついんだろう。しかもさっきカフェの仕事の方は辞めていて、飲食の仕事を探すと言っていた」
「…そうです」
話の筋が見えなくて、紗枝は怪訝な顔をした。
「俺なら、君にいい仕事を紹介できるかもしれない」
「え?」
「結婚の話は、ちょっと脇に置いておこう。俺の結婚だって早急に決めたいが、君も生活がかかってるから、早い方がいいよな。どうかな、明後日、もう一度会えないか」
結婚の話から、仕事の話へ。目まぐるしい展開に紗枝はついていくのがやっとだった。
仕事とひとことで言っても、いろんな仕事がある。佐々木は、さっきまでは悪い人ではない、と思っていたが、結婚話を出されれてから、やっぱり変な人だと思い始めていた。
その人からの仕事の紹介…なんか怪しい。
だが、今まで通りだっら、ダブルワークで時給の安い飲食の仕事をすることになる。
好きな仕事だが、体力的にきつい面もある。
…佐々木さんの、話を、聞くくらいなら、いい…?
何しろ、今日はコース料理をご馳走になってしまったし、紗枝の気持ちをしゃんとさせてくれた。その恩義がある。無下に断るのもどうだろう、という気になってくる。
「じゃ、じゃあ…お話を、聞くだけなら」
「決まりだな。じゃあ、明後日の夕方にしよう。迎えに行く。そして、その仕事関係の人と引き合わせるよ」
「わかりました。お願いします」
食後のデザートとコーヒーも、もう食べ終えていた。
店の中にちらほらと客が入り始めている。
佐々木と紗枝は席を立ち、食事代はもちろん佐々木が払った。紗枝は自分だけが食べたケーキとコーヒーのセットだけでも払おうとしたが、佐々木は譲らず、それも払ってくれた。
店を出て、紗枝は改めてお辞儀をした。
「今晩は、美味しいお料理をありがとうございました」
「そうだな、この店の名前にぴったりの夜だったな」
「店の名前?」
店に入る前にみたけれど、さっと見て読めなかった。
「うん。Koyoi というんだ。今宵出会えてよかった、の今宵だ」
「へえ…」
なんだか、口の中で転がすと響きがいい。今宵。
「送っていくよ」
そういえば、佐々木はノンアルコールカクテルを飲んでいた。店の駐車場に黒い高級車が
置いてあった。紗枝は恐縮したが、佐々木は「女性を一人で帰すわけにはいかない」と言って半ば強引に紗枝を車に乗せた。数十分後、車は紗枝のアパートの前に到着した。
「じゃあ、今宵はこの辺で失礼します」
今宵という言葉を使ってみたかった。
「うん。明後日の17時に、ここに迎えにくる」
「よろしくお願いします」
紗枝は頭を下げた。すると佐々木が何か思いついたようだった。
「紗枝さん、ちょっとお願いがあるんだが…」
翌日の夜。
「建築士なのはわかったけど。いきなり結婚しようなんて、ぶっとんでるわねえ」
高校時代からの親友で、今でも紗枝の地元に暮らす、京香が言った。紗枝から電話したのだ。
「そうでしょ。変な人だよね。なんか訳ありだったけど、それにしたって…ちょっと感覚がおかしいよね」
「イケメンでお金持ち。言うことないのに、性格に難ありかあ、なかなかうまくいかないね」
「京香、佐々木さんの性格がよかったら、結婚話に乗った、と思ってるの?私、失恋したばかりで、そんな気になれないよ」
「えー。そお、サンシャインモール造った人なんて、ビッグすぎて、あたしだったら即プロポーズにOKしちゃうかも。お金持ちで、イケメン、問題ないよね」
「もう、他人事だと思って…」
「でも、安心した」
「うん?」
「紗枝、失恋した割には、いつもと同じ声出せてるよ。以前だったら、もっと死にそうな感じになったと思う。その佐々木さんって変わってるけど、いいカンフル剤だったかもね」
確かに。失恋の痛手は佐々木のことを考えると薄くなっていくような…。
「で、佐々木さんの紹介する仕事って何なんだろうねえ」
「そこなのよ。それがね、佐々木さん、お菓子焼いてきてくれっていうの」
「どういうこと?」
「理由は言わなかったけど、別れ際にお願いされて。お菓子を3種類焼いて持ってきてほしいって。どういうつもりなんだろう」
「うーん、その紹介してもらう人に、あいさつ代わりに手土産とか?紗枝のお菓子は美味しいから、ちょっとしたポイント稼ぎになるかも」
「そうかな…だって、その紹介相手が甘党じゃなかったら迷惑でしょ」



