ブルーのテーブルクロスの敷かれたテーブルが四つ。その内の一つに、男性が一人で座っていた。その男性と紗枝以外、客はいなかった。
男性客の隣のテーブルに、紗枝は座った。初老のウエイターが言う。
「デザートでしたら、本日のケーキがおすすめです」
「では、それとコーヒーを」
「かしこまりました」
ウエイターが去ってからしばらくして、またやってきた。紗枝のテーブルに、美しい器に乗ったケーキが置かれた。お菓子の本を見るのが好きな紗枝は、ケーキのきれいなグリーンを見て、ピスタチオだとわかった。
そっとフォークで一口食べると、甘さの中に少し酸味があり、それがアクセントになっていた。
「美味しい…!」
コンビニのスイーツも美味しいけれど、やっぱり本格的なものとは別物だ。
ケーキと一緒にきたコーヒーも美味しかった。
こんな美味しいところ、務に教えてあげたら、とつい考えてしまい、はっとする。
だめだ。もう、務とはいられないんだ。
そう思ったら、もう昨日で枯れたのでは、と思っていた涙がまた出てきた。
だめ。泣き止まなきゃ。
ゆっくり、ケーキを食べていく。優しい口どけに心が少し落ち着く。
食べ終えて、再びコーヒーを味わおうとした時、
「あの」
隣のテーブルの男性が声をかけてきた。
紗枝は、自分に言われてるのかわからず、辺りをきょろきょろしたが、紗枝の他に誰もいない。
男性は言った。
「食事はされないんですか?」
「え?ええ…私は、これだけで」
何故そんなこときくのだろう。やっぱりこういうレストランでデザートだけはおかしなことだったのか。
「お腹がすいていないとか」
「いえ、あの」
言葉に詰まってしまった。務に別れを切り出されてから、ろくに食事をしていない。ケーキを食べてひと心地ついたせいか、空腹感を感じられるようになっていた。
「いきなりですみません。あの、よかったらここのコース料理を一緒に食べてもらえませんか?」
「えっ」
そう言われて男性のテーブルを見ると、二人分のナプキンとカトラリーが用意されていた。
「実は、これから食事をするはずだった相手にドタキャンされたんです」
「は、はあ…」
「僕は、ものを無駄にするのが嫌いで。今夜の彼女の分の食材が無駄になってしまうのがものすごく許せない。よかったら、彼女の分を食べてほしいんです。もちろんおごります。ここの鴨のコンフィは美味しいですよ」
彼女…この人も、ふられたのかな。
そう思うと、なんとなく断れない。独りぼっちで食べるコース料理は味気ないだろう。
「本当に、よろしいんですか…?」
普段だと断っただろう。しかし、ふられた気持ちを味わっている紗枝には、男性の申し出を断るのがひどく冷酷なことのように思えたのだ。
「ええ。どうぞ」
男性は、紗枝に向かいの席にすわるように促した。
紗枝はそっと立ち上がり、隣のテーブルについた。
向かいあった男性を改めて見る。
男性は、ぬけるように色の白い肌をしていた。そして、切れ長の目をまつ毛がふちどっている。すっと通った鼻筋に、薄い唇。絵に描いたような美形だ。着ているシャツは薄い水色で、生地から高級品だとすぐにわかった。しかも、そんな服のせいだけではない、品の良さが、その男性にはあった。
きれいな人、だな…。
初老のウエイターは、紗枝が席を変わったのに何も言わず、静かに近づいてきて、給仕を始めた。
紗枝は、ナプキンを膝に置いた。
「前菜のカリフラワーのムースにコンソメジュレといくらを添えたものございます」
ケーキの皿もソースが華やかに添えられて綺麗だったけれど、この前菜もまた、美しく盛られていた。男性は、早速食べ始めた。
「うん。やはりここが一番だな」
「あ…美味しい」
料理を口にして、思わず紗枝がそう言うと、男性は言った。
「そうでしょう。この料理を無駄にするなんて、考えられない。人生を損してると思うよ」
少し怒りの滲んだ声に、紗枝はどう答えていいかわからず、言葉を探した。
「えっと…何か、急用だったんじゃないですか。ご家族に何かあったとか」
「いや…俺が、『君は俺の好みでは全然ないが、結婚というのはそれでもやっていくものだろう。縁があったということでまずは食事をしよう』と、言ったのが気に食わなかったらしい」
「え…好みじゃない、って言っちゃったんですか?」
紗枝は驚いた。それは、言われたら確かに憤慨するかも。
「そう。最初にそう言っておいた方が、相手にも誠実だろう?後になって好みじゃなかった、なんて不誠実だ」
どきん、と紗枝の中で心がざわつく。そうだ、務が、紗枝のことを重いともっと前に言ってくれていたら。こんなことにはならなかったかもしれない。
「それはそうかも、しれないですけど」
男性は、手慣れた仕草で料理を口にしている。紗枝は続けた。
「でも…自分が好意を持ってる相手に、好みじゃない、って言われたら、やっぱり傷つくと思います」
男性は、ふっと顔をあげ、紗枝と目線を合わせた。
「そうか…俺は、どうやら鈍感なタイプらしい。そんな風には思ってやれなかった」
男性は前菜を食べ終え、ポケットから名刺を取り出した。
「名乗りもせず、失礼だったね」
紗枝の前にに差し出された名刺を受け取る。
建築士 佐々木 誠司
そう書いてあった。建築士さんなんだ、と紗枝は思った。紗枝も改めて名乗る。
「水内紗枝と言います。お料理、美味しいです」
「それはよかった。昔からこの店が好きでね。きみがいなかったらコース料理を二人分食べていたかもしれない」
「そんなに?」
思わず、紗枝は笑った。二人前食べる佐々木を想像してしまっていた。
「…やっと笑ったな」
目を伏せたまま、佐々木は言った。
あ、と紗枝は思った。佐々木は紗枝がさっき泣いていたのを知っていて、わざときつめのことを言ったり、暴言を吐いたりしたのかもしれない。こちらの気持ちをほぐそうとしてくれていたのだ。暴言が顔に似合わない…と思っていたので、やっとパズルのピースがきちんとはまったような気持ちで佐々木を見た。
紗枝は、胸の内がしゃんとするのを感じた。いつまでもくよくよしたって始まらないのだ。
「あの、佐々木さんは、どういうものを建てられるんですか」
ん、と佐々木は目を上げた。
次の皿が運ばれてきた。
「ああ…最近だと、イーストタワーに、サンシャインモールかな」
「えっ」
紗枝は、驚いた。どちらも最近、ネットによく載っている、人気のスポットだ。何より規模が大きい。あんな壮大なものをこの人が設計したのか、と思うと、紗枝は目を見開いてしまった。
「すごいですね。普段、出かける方じゃないんですが、そんな私でも知っている有名スポットです。一流の建築士さん、なんですね」
「さあな。一流かどうかはわからないが、もらった仕事は必死にやるよ。最近も大きな仕事が終わったばかりで。仕事中は、ろくに食べないというか、食べるのを忘れるんでね。仕事明けにここで飯を食うのを楽しみにしてたんだ」
紗枝は、感心した。文字通り寝食忘れて仕事するということか。そんなに打ち込めるものがあっていいな、とも思う。
「好きなことをされているのっていいですね」
「うん。まあ、そうだな。アイデアが浮かばないときは、たまらないけどな」
「そんな時は、どうするんですか」
「散歩とか音楽を聞いたり…特に散歩はいい。自然に触れると、いいものが降ってくるときがある」
なるほど。その人ならではの解決策があるものなのだ、と紗枝は改めて思った。
「君は、どんな仕事をしているのかな」
矛先が自分に向いてしまった。
男性客の隣のテーブルに、紗枝は座った。初老のウエイターが言う。
「デザートでしたら、本日のケーキがおすすめです」
「では、それとコーヒーを」
「かしこまりました」
ウエイターが去ってからしばらくして、またやってきた。紗枝のテーブルに、美しい器に乗ったケーキが置かれた。お菓子の本を見るのが好きな紗枝は、ケーキのきれいなグリーンを見て、ピスタチオだとわかった。
そっとフォークで一口食べると、甘さの中に少し酸味があり、それがアクセントになっていた。
「美味しい…!」
コンビニのスイーツも美味しいけれど、やっぱり本格的なものとは別物だ。
ケーキと一緒にきたコーヒーも美味しかった。
こんな美味しいところ、務に教えてあげたら、とつい考えてしまい、はっとする。
だめだ。もう、務とはいられないんだ。
そう思ったら、もう昨日で枯れたのでは、と思っていた涙がまた出てきた。
だめ。泣き止まなきゃ。
ゆっくり、ケーキを食べていく。優しい口どけに心が少し落ち着く。
食べ終えて、再びコーヒーを味わおうとした時、
「あの」
隣のテーブルの男性が声をかけてきた。
紗枝は、自分に言われてるのかわからず、辺りをきょろきょろしたが、紗枝の他に誰もいない。
男性は言った。
「食事はされないんですか?」
「え?ええ…私は、これだけで」
何故そんなこときくのだろう。やっぱりこういうレストランでデザートだけはおかしなことだったのか。
「お腹がすいていないとか」
「いえ、あの」
言葉に詰まってしまった。務に別れを切り出されてから、ろくに食事をしていない。ケーキを食べてひと心地ついたせいか、空腹感を感じられるようになっていた。
「いきなりですみません。あの、よかったらここのコース料理を一緒に食べてもらえませんか?」
「えっ」
そう言われて男性のテーブルを見ると、二人分のナプキンとカトラリーが用意されていた。
「実は、これから食事をするはずだった相手にドタキャンされたんです」
「は、はあ…」
「僕は、ものを無駄にするのが嫌いで。今夜の彼女の分の食材が無駄になってしまうのがものすごく許せない。よかったら、彼女の分を食べてほしいんです。もちろんおごります。ここの鴨のコンフィは美味しいですよ」
彼女…この人も、ふられたのかな。
そう思うと、なんとなく断れない。独りぼっちで食べるコース料理は味気ないだろう。
「本当に、よろしいんですか…?」
普段だと断っただろう。しかし、ふられた気持ちを味わっている紗枝には、男性の申し出を断るのがひどく冷酷なことのように思えたのだ。
「ええ。どうぞ」
男性は、紗枝に向かいの席にすわるように促した。
紗枝はそっと立ち上がり、隣のテーブルについた。
向かいあった男性を改めて見る。
男性は、ぬけるように色の白い肌をしていた。そして、切れ長の目をまつ毛がふちどっている。すっと通った鼻筋に、薄い唇。絵に描いたような美形だ。着ているシャツは薄い水色で、生地から高級品だとすぐにわかった。しかも、そんな服のせいだけではない、品の良さが、その男性にはあった。
きれいな人、だな…。
初老のウエイターは、紗枝が席を変わったのに何も言わず、静かに近づいてきて、給仕を始めた。
紗枝は、ナプキンを膝に置いた。
「前菜のカリフラワーのムースにコンソメジュレといくらを添えたものございます」
ケーキの皿もソースが華やかに添えられて綺麗だったけれど、この前菜もまた、美しく盛られていた。男性は、早速食べ始めた。
「うん。やはりここが一番だな」
「あ…美味しい」
料理を口にして、思わず紗枝がそう言うと、男性は言った。
「そうでしょう。この料理を無駄にするなんて、考えられない。人生を損してると思うよ」
少し怒りの滲んだ声に、紗枝はどう答えていいかわからず、言葉を探した。
「えっと…何か、急用だったんじゃないですか。ご家族に何かあったとか」
「いや…俺が、『君は俺の好みでは全然ないが、結婚というのはそれでもやっていくものだろう。縁があったということでまずは食事をしよう』と、言ったのが気に食わなかったらしい」
「え…好みじゃない、って言っちゃったんですか?」
紗枝は驚いた。それは、言われたら確かに憤慨するかも。
「そう。最初にそう言っておいた方が、相手にも誠実だろう?後になって好みじゃなかった、なんて不誠実だ」
どきん、と紗枝の中で心がざわつく。そうだ、務が、紗枝のことを重いともっと前に言ってくれていたら。こんなことにはならなかったかもしれない。
「それはそうかも、しれないですけど」
男性は、手慣れた仕草で料理を口にしている。紗枝は続けた。
「でも…自分が好意を持ってる相手に、好みじゃない、って言われたら、やっぱり傷つくと思います」
男性は、ふっと顔をあげ、紗枝と目線を合わせた。
「そうか…俺は、どうやら鈍感なタイプらしい。そんな風には思ってやれなかった」
男性は前菜を食べ終え、ポケットから名刺を取り出した。
「名乗りもせず、失礼だったね」
紗枝の前にに差し出された名刺を受け取る。
建築士 佐々木 誠司
そう書いてあった。建築士さんなんだ、と紗枝は思った。紗枝も改めて名乗る。
「水内紗枝と言います。お料理、美味しいです」
「それはよかった。昔からこの店が好きでね。きみがいなかったらコース料理を二人分食べていたかもしれない」
「そんなに?」
思わず、紗枝は笑った。二人前食べる佐々木を想像してしまっていた。
「…やっと笑ったな」
目を伏せたまま、佐々木は言った。
あ、と紗枝は思った。佐々木は紗枝がさっき泣いていたのを知っていて、わざときつめのことを言ったり、暴言を吐いたりしたのかもしれない。こちらの気持ちをほぐそうとしてくれていたのだ。暴言が顔に似合わない…と思っていたので、やっとパズルのピースがきちんとはまったような気持ちで佐々木を見た。
紗枝は、胸の内がしゃんとするのを感じた。いつまでもくよくよしたって始まらないのだ。
「あの、佐々木さんは、どういうものを建てられるんですか」
ん、と佐々木は目を上げた。
次の皿が運ばれてきた。
「ああ…最近だと、イーストタワーに、サンシャインモールかな」
「えっ」
紗枝は、驚いた。どちらも最近、ネットによく載っている、人気のスポットだ。何より規模が大きい。あんな壮大なものをこの人が設計したのか、と思うと、紗枝は目を見開いてしまった。
「すごいですね。普段、出かける方じゃないんですが、そんな私でも知っている有名スポットです。一流の建築士さん、なんですね」
「さあな。一流かどうかはわからないが、もらった仕事は必死にやるよ。最近も大きな仕事が終わったばかりで。仕事中は、ろくに食べないというか、食べるのを忘れるんでね。仕事明けにここで飯を食うのを楽しみにしてたんだ」
紗枝は、感心した。文字通り寝食忘れて仕事するということか。そんなに打ち込めるものがあっていいな、とも思う。
「好きなことをされているのっていいですね」
「うん。まあ、そうだな。アイデアが浮かばないときは、たまらないけどな」
「そんな時は、どうするんですか」
「散歩とか音楽を聞いたり…特に散歩はいい。自然に触れると、いいものが降ってくるときがある」
なるほど。その人ならではの解決策があるものなのだ、と紗枝は改めて思った。
「君は、どんな仕事をしているのかな」
矛先が自分に向いてしまった。



