「父さん、お願い。私、家を出て自分でやってみたいの。自分の力を試したいのよ」
「自分の力?笑わせる。学校の成績でも、大した事なかったじゃないか。その文具メーカーに合格したのだってまぐれだろう。とっとと内定を辞退しろ。いいな」
紗枝は、合格して、嬉しかった気持ちを見事にぺしゃんこにされてしまった。
そのあと、父よりは話を聞いてくれる母に、相談した。
母は、困った顔をした。
「紗枝ちゃんが働きたいっていう気持ちはわかるけど…花江が海外に行っちゃったでしょ。お母さんも、できれば紗枝ちゃんには家にいてほしいのよ。それと…内定を辞退しなかったら、お父さん、強硬手段に出るわよ」
「え?」
これ以上、何をされると言うんだろう。
「お父さんの知り合いの社長さんで、四十くらいの人がいるんだけど、若いお嬢さんのお嫁さんを探してるの。お父さん、紗枝にいいんじゃないか、とか言ってた。まだ話はそこまで進んでないけど…内定を辞退しなかったら、強引にお見合いさせられて、結婚に持ち込もうとするでしょうね」
「な…!」
紗枝はあまりのことに言葉を詰まらせた。母に向き直って言う。
「じゃあ、内定を辞退したら、その四十の人とのお見合いはなしになるの?」
「そうなるわね。お父さんも、もっと見合い相手を吟味したいでしょうし」
22歳の紗枝には、四十歳の男性との結婚は全くイメージできなかった。母の言う通り、父は、こうと決めたらやってしまうタイプの人間だ。どんなに紗枝が嫌がっても、見合いさせ結婚まで持ち込むだろう。
紗枝は数日悩んだが、仕方なく文具メーカーの内定を辞退した。大学を卒業しただけで、いきなり四十男と結婚するのは、冷静に考えても恐ろしかった。
それが夏のことで、季節が変わり、卒業式も近づいてくると、紗枝はだんだん、家を出たい気持ちがまた膨らんできた。
内定をもらった時の、あの「家から出られるんだ!」という嬉しさが忘れられなかった。
見合いの話もいくつかすでにきていたが、どれも乗り気になれない。
来週、初めての見合いがある、という卒業式の翌日。紗枝は家出を決行した。
もう当分会えなくなるだろう、と思い祖母の家に寄った。子供の頃から、可愛がってくれた、いつも紗枝の味方をしてくれた祖母だった。
家を出る理由を話すと、祖母は何も言わずにまとまった額のお金を貸してくれた。
一人暮らしをするのに、敷金礼金をどう工面しようかと悩んでいたので、それはありがたかった。
「おばあちゃん、絶対返すからね」
「私は、あんたが、実はしっかりしているのを、よく知っているよ。自分を見捨てずに頑張りなさい」
自分を見捨てない、ということがどういうことか、すぐにはわからなかったけれど、紗枝は大きく頷いて、言った。
「行ってくるね」
上京して、紗枝はコールセンターの仕事を見つけた。すぐに働くことができるのが魅力だった。やり始めると、紗枝はお客様と接する、という仕事が好きなことに気づいた。コールセンター勤務が落ち着くと、カフェのウエイトレスも始めた。電話の向こうで、そしてカフェの店先で、お客様を笑顔にさせられる。そんなささやかな喜びがあった。
それでもダブルワークはやはり体がきつい。嫌なお客様に出くわすこともあるし、嫌味を言う上司だっている。少しずつ東京での日々が色あせてきた。
そんな毎日の先に務との出会いがあった。
務と一緒に店をやる夢は、少し疲れを感じてきた紗枝のエネルギー源になった。
もしも、務と結婚して、本当に店を持てたら。
「お前に何ができる」と、言った父に、一人前になった、と認めてもらえるのではないか。
その思いは、強く、紗枝の心の奥底に根付いていた。
しかし、そんな夢も務との別れで、なくなってしまった。
務とつきあっていた半年の間、紗枝はいろんな想像をしていた。
結婚して務と一緒に暮らす部屋のインテリアや、照明。そんなに広くない部屋かもしれないが、ガスコンロは二口にして、務と一緒に料理をする。余裕があったら観葉植物をたくさん置きたい。二人の誕生日や記念日には、ささやかでもちゃんと祝う。
夢を見ることは、楽しかった。
でも、それも、もうおしまいだ。
日曜の夜。遅番のカフェの仕事を終えて、紗枝は、店長に退職願を渡した。
「急で申し訳ありません」
紗枝は深く頭を下げた。
店長は、ため息をついたが、仕方ないね、と言った。
「いきなり来なくなる奴もいるからさ。言ってもらえてよかったよ」
店長は泣いて腫れた目をした紗枝を見て、察してくれたようだった。務とまなのことも、もう知っていたのかもしれない。
ありがたいことにまなは休みだったので、顔を合わせないですんだ。厨房には務がいたが、目を合わせなかった。務も紗枝を見ることなく、鍋を振っていた。
アパートに帰宅すると、体が疲れているだけでなく、気持ちも重かった。今夜は、眠れないかもしれない。でも、明日はコールセンターの仕事がある…何か気持ちをほぐすことはないか、と考えて、やっぱりお菓子を焼こう、という気になった。
こういう時…落ち込んで何もできない時はお菓子を焼けばいい。
本棚から一番好きなお菓子作りの本を取り出す。専門的なもので、難しいレシピが多く、つくったことのあるのはその本の半分くらいだ。
うちにある材料で作れて、手のこんだレシピを探し出した。小麦粉やバターを秤で丁寧に測っていく。気を抜いたら失敗するだろう。このお菓子が成功したら、失恋の痛手が薄くなる、そう信じて紗枝は手を動かしていった。
二種類のクッキーは焼きあがった。
食欲はなかったが、お菓子が焼きあがるときの独特の香りは、やはりよいものだった。気をぬくと暗く沈みそうになる紗枝の気持ちを和らげた。
味見をしたら、上々の出来栄えだった。クッキーが冷めるのを待ち、半分ずつセロファンの袋にいれる。
きゅっと赤いリボンを結んで袋の口を閉じた。明日、コールセンターの芦田さんと前橋さんにあげよう。喜んでもらえるといいな。
ラッピングまでしてしまうと、きちんと達成感がやってきた。
少しだけほっこりして、ハーブティーを飲む。
ちょっとだけでも眠れますように。カーテンの隙間から見える宵闇を見ながらそう思った。
月曜日。なんとかコールセンターの仕事は終えることができた。帰り道、紗枝は、まっすぐ部屋に帰りたくなかった。
ゆっくり、街中を歩いていく。
気が付くと、いつの間にか駅前の繁華街から外れていた。
「もどらなくちゃ。全然知らないところに来ちゃった」
ふっ、と引き返そうとしたとき、小さな灯に目を奪われた。店先の看板を明るく照らしている。古いレストランのようだった。入口の近くに黒板が立てかけてある。
その黒板には、コースメニューの下のほうに、デザートとコーヒーの価格も書き込まれていた。決して安価では、ない。
務と食事するのは大抵、居酒屋やファミレスだった。
こんなちゃんとしたレストランに、上京して来たことがなかった。
節約暮らしを考えたら、この店に入ることは、できない。
でも…失恋して、夢もなくなった、今日みたいな日くらい、いいんじゃない?
紗枝は、思い切って、自分の背中と、店のドアを同時に押した。
レストランのカウベルがからん、と鳴った。
「いらっしゃいませ」
きりっとしたベストと蝶ネクタイの初老の男性が紗枝を見て、言った。紗枝は自分が場違いな気がして、小声で言った。
「あの、コーヒーとデザートだけでも…?」
男性はウエイターらしく、にっこりと笑った。
「もちろんでございます。こちらへどうぞ」
そう言って、店の奥に案内された。
「自分の力?笑わせる。学校の成績でも、大した事なかったじゃないか。その文具メーカーに合格したのだってまぐれだろう。とっとと内定を辞退しろ。いいな」
紗枝は、合格して、嬉しかった気持ちを見事にぺしゃんこにされてしまった。
そのあと、父よりは話を聞いてくれる母に、相談した。
母は、困った顔をした。
「紗枝ちゃんが働きたいっていう気持ちはわかるけど…花江が海外に行っちゃったでしょ。お母さんも、できれば紗枝ちゃんには家にいてほしいのよ。それと…内定を辞退しなかったら、お父さん、強硬手段に出るわよ」
「え?」
これ以上、何をされると言うんだろう。
「お父さんの知り合いの社長さんで、四十くらいの人がいるんだけど、若いお嬢さんのお嫁さんを探してるの。お父さん、紗枝にいいんじゃないか、とか言ってた。まだ話はそこまで進んでないけど…内定を辞退しなかったら、強引にお見合いさせられて、結婚に持ち込もうとするでしょうね」
「な…!」
紗枝はあまりのことに言葉を詰まらせた。母に向き直って言う。
「じゃあ、内定を辞退したら、その四十の人とのお見合いはなしになるの?」
「そうなるわね。お父さんも、もっと見合い相手を吟味したいでしょうし」
22歳の紗枝には、四十歳の男性との結婚は全くイメージできなかった。母の言う通り、父は、こうと決めたらやってしまうタイプの人間だ。どんなに紗枝が嫌がっても、見合いさせ結婚まで持ち込むだろう。
紗枝は数日悩んだが、仕方なく文具メーカーの内定を辞退した。大学を卒業しただけで、いきなり四十男と結婚するのは、冷静に考えても恐ろしかった。
それが夏のことで、季節が変わり、卒業式も近づいてくると、紗枝はだんだん、家を出たい気持ちがまた膨らんできた。
内定をもらった時の、あの「家から出られるんだ!」という嬉しさが忘れられなかった。
見合いの話もいくつかすでにきていたが、どれも乗り気になれない。
来週、初めての見合いがある、という卒業式の翌日。紗枝は家出を決行した。
もう当分会えなくなるだろう、と思い祖母の家に寄った。子供の頃から、可愛がってくれた、いつも紗枝の味方をしてくれた祖母だった。
家を出る理由を話すと、祖母は何も言わずにまとまった額のお金を貸してくれた。
一人暮らしをするのに、敷金礼金をどう工面しようかと悩んでいたので、それはありがたかった。
「おばあちゃん、絶対返すからね」
「私は、あんたが、実はしっかりしているのを、よく知っているよ。自分を見捨てずに頑張りなさい」
自分を見捨てない、ということがどういうことか、すぐにはわからなかったけれど、紗枝は大きく頷いて、言った。
「行ってくるね」
上京して、紗枝はコールセンターの仕事を見つけた。すぐに働くことができるのが魅力だった。やり始めると、紗枝はお客様と接する、という仕事が好きなことに気づいた。コールセンター勤務が落ち着くと、カフェのウエイトレスも始めた。電話の向こうで、そしてカフェの店先で、お客様を笑顔にさせられる。そんなささやかな喜びがあった。
それでもダブルワークはやはり体がきつい。嫌なお客様に出くわすこともあるし、嫌味を言う上司だっている。少しずつ東京での日々が色あせてきた。
そんな毎日の先に務との出会いがあった。
務と一緒に店をやる夢は、少し疲れを感じてきた紗枝のエネルギー源になった。
もしも、務と結婚して、本当に店を持てたら。
「お前に何ができる」と、言った父に、一人前になった、と認めてもらえるのではないか。
その思いは、強く、紗枝の心の奥底に根付いていた。
しかし、そんな夢も務との別れで、なくなってしまった。
務とつきあっていた半年の間、紗枝はいろんな想像をしていた。
結婚して務と一緒に暮らす部屋のインテリアや、照明。そんなに広くない部屋かもしれないが、ガスコンロは二口にして、務と一緒に料理をする。余裕があったら観葉植物をたくさん置きたい。二人の誕生日や記念日には、ささやかでもちゃんと祝う。
夢を見ることは、楽しかった。
でも、それも、もうおしまいだ。
日曜の夜。遅番のカフェの仕事を終えて、紗枝は、店長に退職願を渡した。
「急で申し訳ありません」
紗枝は深く頭を下げた。
店長は、ため息をついたが、仕方ないね、と言った。
「いきなり来なくなる奴もいるからさ。言ってもらえてよかったよ」
店長は泣いて腫れた目をした紗枝を見て、察してくれたようだった。務とまなのことも、もう知っていたのかもしれない。
ありがたいことにまなは休みだったので、顔を合わせないですんだ。厨房には務がいたが、目を合わせなかった。務も紗枝を見ることなく、鍋を振っていた。
アパートに帰宅すると、体が疲れているだけでなく、気持ちも重かった。今夜は、眠れないかもしれない。でも、明日はコールセンターの仕事がある…何か気持ちをほぐすことはないか、と考えて、やっぱりお菓子を焼こう、という気になった。
こういう時…落ち込んで何もできない時はお菓子を焼けばいい。
本棚から一番好きなお菓子作りの本を取り出す。専門的なもので、難しいレシピが多く、つくったことのあるのはその本の半分くらいだ。
うちにある材料で作れて、手のこんだレシピを探し出した。小麦粉やバターを秤で丁寧に測っていく。気を抜いたら失敗するだろう。このお菓子が成功したら、失恋の痛手が薄くなる、そう信じて紗枝は手を動かしていった。
二種類のクッキーは焼きあがった。
食欲はなかったが、お菓子が焼きあがるときの独特の香りは、やはりよいものだった。気をぬくと暗く沈みそうになる紗枝の気持ちを和らげた。
味見をしたら、上々の出来栄えだった。クッキーが冷めるのを待ち、半分ずつセロファンの袋にいれる。
きゅっと赤いリボンを結んで袋の口を閉じた。明日、コールセンターの芦田さんと前橋さんにあげよう。喜んでもらえるといいな。
ラッピングまでしてしまうと、きちんと達成感がやってきた。
少しだけほっこりして、ハーブティーを飲む。
ちょっとだけでも眠れますように。カーテンの隙間から見える宵闇を見ながらそう思った。
月曜日。なんとかコールセンターの仕事は終えることができた。帰り道、紗枝は、まっすぐ部屋に帰りたくなかった。
ゆっくり、街中を歩いていく。
気が付くと、いつの間にか駅前の繁華街から外れていた。
「もどらなくちゃ。全然知らないところに来ちゃった」
ふっ、と引き返そうとしたとき、小さな灯に目を奪われた。店先の看板を明るく照らしている。古いレストランのようだった。入口の近くに黒板が立てかけてある。
その黒板には、コースメニューの下のほうに、デザートとコーヒーの価格も書き込まれていた。決して安価では、ない。
務と食事するのは大抵、居酒屋やファミレスだった。
こんなちゃんとしたレストランに、上京して来たことがなかった。
節約暮らしを考えたら、この店に入ることは、できない。
でも…失恋して、夢もなくなった、今日みたいな日くらい、いいんじゃない?
紗枝は、思い切って、自分の背中と、店のドアを同時に押した。
レストランのカウベルがからん、と鳴った。
「いらっしゃいませ」
きりっとしたベストと蝶ネクタイの初老の男性が紗枝を見て、言った。紗枝は自分が場違いな気がして、小声で言った。
「あの、コーヒーとデザートだけでも…?」
男性はウエイターらしく、にっこりと笑った。
「もちろんでございます。こちらへどうぞ」
そう言って、店の奥に案内された。



