エリート建築士はスイーツ妻を溺愛する

 テーブルの上には、母が作ってくれた晩御飯がトレイのまま置かれている。紗枝の好物ばかりが作ってあった。母の気遣いは嬉しいが、誠司のことを考えると食欲もわかない。
 ダメだ、ここで弱って病気にでもなったら、誠司さんが迎えに来ても、立ち上がれなくなる。でも、その誠司が来てくれなかったら?そう思い出すと何も食べられなくなる。
 紗枝は、自分を鼓舞して、食事をとった。食べだすと、母の優しい味で、ほっとするものがあった。食べ終えると、少し気力がわいて、バッグの中に、スケジュール帳とペンがあるのを思い出した。
 お菓子のレシピを思いつくまま、書いてみよう。できることはこれくらいしかないけれど、何もしないよりマシだ。
 紗枝は、一行書いては、涙をふき、を繰り返して、ページを字で埋めていった。

 翌日の夕方。スケジュール帳の余白が無くなってしまった。何か書くものはなかっただろうか、と部屋に置かれた段ボール箱の中を探した。
 そこに、紗枝の目を引くものがあった。
 え、これって…。

 ドアがノックされ、開錠の音と共に開いた。京香だった。心配げな顔をして、京香が紗枝を見る。
「紗枝、大丈夫?」
「ごめんね、大丈夫よ」
 紗枝は頑張って笑顔を作った。本当は心細いのをぐっとこらえた。
「あのね。話があるの」
 京香は、声をひそめ、紗枝を窓際に追いやった。矢島に聞かれないようにするためだろう。
「今日、私のガラケーに電話があったの。佐々木さんからだった。私の事を言ったら、紗枝の高校の同級生ですよね、ってすぐにわかってくれたわ。それで、後十分したら、佐々木さんからこのガラケーに電話がかかってくるから」
「…!本当?」
「ほんとよ。佐々木さん、心配してたわ。昨日も紗枝と会ったことを話したら安心してた」
「そう…」
 自分が誠司を思っていたように、誠司も紗枝のことを思ってくれたのだろうか。だとしたらただひたすらに嬉しい。紗枝は、ぎゅっと手を握りしめた。誠司の声が聞けるというだけで、気持ちが浮きたってくる。
 果たして、十分が経ち、ガラケーが鳴った。通話ボタンを押す。
「せ、誠司さん…?」
「紗枝さん?無事なのか?京香さんから聞いたんだ。部屋に閉じ込められてるって」
「はい…心配かけて、ごめんなさい」
「いいんだ。ちゃんと眠れている?食事は?」
「母が作ってくれてるのを食べてる」
「そうか、よかった…それで、契約結婚の事なんだが」
 どきり、と紗枝の胸の内がざわつく。自分が傍にいなければ、誠司にとって契約結婚にメリットがない。解約されたっておかしくない。
「紗枝さん、俺と」
 紗枝はぎゅっと目をつぶった。務のように別れてほしいと言うかもしれない…
「俺と、正式に結婚してほしい」
「…え?」
「いつか、俺のことを好きだと言ってくれたろう。俺も、君のことが好きだ。君に一日でも会えないと気が狂いそうになる。愛してるんだ、結婚してくれ」
「誠司さん」
 紗枝は、胸が詰まってうまく言葉にできない。
「やっぱりダメかな、俺みたいな男では」
「ダメじゃないです。なります、誠司さんの奥さんにしてください」
 思いのたけをぶちまけるように、紗枝は一気に言った。
 電話の向こうで、息を吐くのがわかった。紗枝がほっとしたように、誠司も落ち着いたようだ。
「わかった。明日には、そっちに行く。ご両親に俺たちの結婚を認めてもらおう」
「父さんはわからずやです。大丈夫ですか?」
 あの頑固な父を、誠司はどうにかできるのだろうか。
「紗枝さん、俺はプレゼンで何人もの頑固オヤジを黙らせてきた建築士だよ。俺の腕前を見てほしいね」
 威勢よく喋る誠司に、紗枝は、頬を緩めた。誠司と明るい展望を喋っているだけで、全身の血が入れ替るような瑞々しさがある。
「楽しみにしています。待っています」
「ああ、じゃあ、明日」
 そう言って、電話は切れた。

 ガラケーを京香に返すと、京香がにやにやしてこちらを見ている。
「紗枝、何を言われたの?奥さんになります、って何?」
 紗枝は、頬を赤らめながら言った。
「…プロポーズされた。契約結婚じゃなくて正式に結婚をしようって」
 京香が、きゃあっと声をあげ、矢島に聞かれる可能性があるので、慌てて手で京香の口を押さえた。
「よかったね、紗枝。大好きな佐々木さんと、一生、一緒にいられる」
「うん」
はしゃいだ声を抑えても、紗枝は、誠司からのプロポーズを、何度も胸の内で反芻した。
 うそじゃない。幻じゃない。私はこれからずっと誠司さんの妻なのだ…
 改めてそう思い、じんとする。
「京香、ありがとう。京香のフォローがなかったら、うまくいかなかった」
「何、言ってるの。まだまだこれからでしょ」
 飄々と、京香がいう。確かにそうだ、紗枝は、気を引き締めた。
 明日、うまくいきますようにと、こっそり祈った。

 翌日の午後二時。紗枝の部屋がノックされた。やってきたのは母だった。
「紗枝。佐々木さんが見えてたわよ。見張りなら、言い含めたから、出ていらっしゃい」
 ドアの開錠された音がして、紗枝は飛び出すようにドアの外に出た。
 連れていかれたのは、玄関わきの和室だった。
 部屋の真ん中にある座卓をはさんで、父と誠司が向きあっている。
「誠司さん…」
 吸い込まれるように、紗枝は誠司の隣に座った。誠司はしっかり頷いて合図した。
 重い沈黙を破ったのは父だった。
「君が佐々木君か。よくのうのうと来られたものだな。君はいくつも見合いをダメにしてたひどい男だそうじゃないか」
 誠司は、ひるまず、凛とした目を父に向けた。
「水内さんのところに来たという手紙の事をおっしゃっているのですね。あの手紙は、私の知人が出したことが判明しました。私の仕事の成功を妬んでのことのようです。
 何にせよ、身から出た錆。恥ずかしく思っています。見合いに関しては、確かにいくつか破談になりました。私が、女性に興味を持てなかったからです。でも、お嬢さん、紗枝さんは違った」
 誠司は、鞄から小さな箱を取り出した。箱を開けると、バターサブレが数枚入っていた。
 紗枝が考案した紅茶とホワイトチョコが入っているものだ。
「お嬢さんが私にくれた、手作りサブレです。私は、お嬢さんの作ったお菓子…その時はクッキーでしたが、それを初めて食べたとき、この人だ、と思いました。もらったお菓子の中に、彼女の人間性や、暖かな気持ちや、豊かさ、そんなものが、そのお菓子には詰まっていました。
 お菓子を作るのに、人生の多くの時間を割いている水内さんならわかるでしょう。お菓子は人の心を動かす。まさに、私はお嬢さんから心を奪われたんです」
「…何を」
 父が、小ばかにしたように笑う。すかさず、紗枝は言った。
「お父さん。このサブレ食べてみて。時間かけてつくった創作サブレなの」
「お父さん、いただきましょうよ。紗枝のお菓子、ひさしぶりだわ」
 母が、軽やかにサブレに手を伸ばし、食べてくれる。
「あら、美味しい。うちの店で出してもいいくらいの味だわ」
 明るい声を出す、母を父は忌々し気に見た。サブレを手にとって見る。
「…これは」
「お父さん、わかる?私も昨日まで知らなかった。でも、このノートを読んでわかったの」
 紗枝は、古い一冊のノートを座卓の上に置いた。