エリート建築士はスイーツ妻を溺愛する

「もし連れ戻して、もう一度逃げ出したら、今度こそ、誰にも連絡しないかもしれない。本当の行方不明になってしまう。今は、京香ちゃんから近況を聞くことができる。当分、様子を見よう、って私たち、随分我慢したのよ」
 紗枝はなんと言葉にしていいかわからなかった。自分だけが頑張っていると思っていた。それは、両親の思いの上に成り立っていた。
「お母さん、ごめん…でも、わかって。佐々木さんの事だけは、誤解を解きたいの。妹さんの時のようなひどい人じゃないの。本当に立派で素敵な人なのよ。それをわかってもらいたいの」
 母は、紗枝の目を覗き込んだ。
「じゃあ、あの手紙は、随分悪意があって、佐々木さんを悪く言ってるという事ね。佐々木さん、誰かに恨みを買っているの?」
「私も、そこが気になったの。叔母さんから、そんな手紙が来たって聞いて。紗枝の話の佐々木さんと全然違うわよね。でも、二人の結婚の事実を知らなかったから、うまくかばえなかったんだけど…」
 京香が申し訳なさそうに言う。
「うん…心当たりが、ないわけじゃない。多分、恨まれてるのは、佐々木さんじゃなくて、私よ」
 紗枝は、はっきりと、真央の顔を思い浮かべて言った。

【 誠司サイド 】
 佐々木設計事務所の社長室で、誠司は、苛立っていた。異変に気づいたのは二時間ほど前だ。紗枝にメッセージを送ったが、返信が返ってこない。こんなに時間があいたのは珍しい事だった。気になって、スマホに電話したが、出ない。電源が切られている。これもまた、今までにない事だった。
 嫌な予感がして、誠司は紗枝の勤めるコールセンターに連絡した。今日は、休んでいるという。しかも無断欠勤だと。誠司は真面目な紗枝がそんな事をするはずない、おかしい、とすぐに思った。きっと体調が悪かったんだでしょう、と誠司はとりあえずごまかし、電話を切った。
 美佐子にも電話を入れたが、何も知らないと言う。紗枝の話はよく聞いているつもりだったけれど、紗枝の友人の連絡先は全く知らない。紗枝の地元の友達がデパート勤めをしている、と聞いた記憶があるが、デパートの名前がわからない。
 岡山のデパートを一軒ずつ、当たるか、とネットで情報を調べている時、向かいの席にいた吉沢が言った。
「社長。今の電話、紗枝さんからでした。岡山の実家にいるから、それを社長に伝えてほしいと。すみません、それだけ言って電話が切れました」
 誠司は、前に乗り出した姿勢をやめて、とりあえず椅子に身を沈めた。
「実家か…何があったんだろう」
「紗枝さんのスマホからじゃなかったみたいです」
「そうか…岡山…吉沢、これからの予定をキャンセルしてくれ。岡山に行ってくる」
 岡山の紗枝の実家の住所は、知っている。以前、美佐子が紗枝を調べた際の調書に載っていたのだ。
「大丈夫ですか?今日の夜は、斎藤様との会食があります」
「斎藤さんには連絡を俺が入れる。チケットの手配を頼む」
 わかりました、と吉沢がパソコンに向かった時、社長室のドアがノックされた。
「誠司?この間の、笹岡邸の話をしようと思って来ちゃった。ちょうど仕事でこの辺まで来たのよ」
 ドアから現れたのは、真央だった。鮮やかな紫色のスーツを着ている。
「悪いな、真央。またにしてくれ。俺は、これから用があるんだ」
「社長、チケット取れました。一時間後の便です」
 吉沢が、緊張した声を出す。真央にも、ただ事ではない、とわかったようだった。
「どうしたの?トラブル?」
「いや、ちょっと岡山に行く。吉沢、後を頼む」
 誠司は、立ち上がり、上着を羽織って鞄を手にした。真央の横をすり抜けようとする誠司に吉沢が言った。
「…社長、手帳をお忘れです」
「あ、ああ、すまない」
 誠司が心ここにあらず、という体で、手帳を受け取る。それを見た真央が言った。
「そんなに慌てて…岡山って、あの子でしょ?紗枝さんでしょ」
 くすり、と笑いながら言う真央に、誠司は、ひっかかる物を感じた。
「真央。お前、何か知ってるのか」
「さあねえ。そうね…紗枝さんのご実家に、誠司は見合いを立て続けにブチ壊した欠陥人間で、紗枝さんと引き離すなら、入籍してない今だ、っていう手紙が届いた、って事なら知ってるわ」
「なんだと?」
 誠司の目の色が変わった。怒りを隠さない誠司を、真央はまっすぐに見返した。
「誠司、私を見てよ。あなたに近づきたくて、必死に建築士の免許も取ったわ。仕事で海外に呼ばれたフリもした。少しでもあなたに近づきたかった。せめて仕事の格が近かったら、見合い相手よりも私を見てくれるんじゃないかと思ったの」
「真央…?」
 誠司は、真央が自分に好意があるのは分っていたが、そんな思いつめたものとは思っていなかった。真央の実家は建設会社だ。お嬢様の暇つぶしで自分にまとわりつているのだろうと軽く考えていた。
「だから、あなたが私じゃなくて、紗枝さんと結婚したって聞いた時は腹が立ったわ。大事な宝物を横取りされた気分だった」
「真央、ひょっとして、大城理恵さんのメールをかたったのは、お前なのか?」
「嫌ね、今ごろ気づいたの?そうよ。紗枝さんなんて、サブリナ会から追放されて、誠司とギクシャクすればいい、って思ったのよ」
「な…!」
「ご想像どおりよ。紗枝さんのご実家に、誠司はひどい男だって手紙を出したのも私。さすが水内家ね、もう紗枝さんに手を回したってことなんでしょ?」
「…真央、君がそんなに自分を貶めてまでひどい事をする奴だったなんて…」
 声を絞り出した誠司に、はっ、と真央は笑った。
「そうよ、プライドをかなぐり捨てでも、あなたと紗枝さんを引き離したかったのよ。誠司は、私のものよ、誰にも渡さない…っ!」
 そこまで言うと、真央は、床に膝をついて、泣き崩れた。
「なんてことだ…!」
 誠司は、髪の毛をくしゃっとかきあげて、真央の肩を持ち上げ、椅子に座らせた。
「真央、すまない。君の想いに気づかなかった俺も悪かった。だが、君のやった事を許すこともできない」
 真央は、なおも泣き続け、幼女のようだった。誠司は、時計を見た。岡山へ行く便に乗らなくては。床に置いた鞄を手にすると、吉沢が「あの」と声を発した。
「社長、お伝えしたいことがあります」

【 紗枝サイド 】
 会いたい...誠司さん..
 紗枝は、窓から空を見上げた。夜空に爪のような月が浮かんでいる。
 何もすることがないので、月ばかり見ては誠司を思い出している。初めて会った時の唐突なプロポーズや、たくさんの服を買ってくれたこと、一緒に過ごしたいくつもの日曜日の午前中。夜更けにお茶とお菓子を出すと、心から喜んでくれたこと。疲れている手にハンドクリームを塗ってくれたこと…そして、何度も肌を重ねた夜のこと。
 繰り返し、思い出がよみがえってきて、紗枝を苦しめる。
 もう、誠司に会うことはできないのだろうか。
 吉沢の事は疑っていないけれど、誠司に伝言が伝わったか、確認する手だてがない。
 それに、契約結婚が続けられる保障だってありはしないのだ。
 契約結婚は、紗枝が家事全般と毎日お菓子を焼くことが条件だった。それらを、やることのできなくなった今、契約が解除されてしまうかもしれない。
 優しい誠司に限ってそんな事ない、と思うけれど。人の気持ちはうつろうものだ。
 あんなに一緒に夢を語った務だって、簡単に夢を手放した。そして、紗枝のことも。
 人は変わる。それが自然なのだ。
 紗枝の頬に涙がつたう。
 こんな時に、泣くしかできないなんて、私はなんて弱くなったんだろう。
 辛い時はお菓子を焼けばよかった。でも、この部屋ではそれすらかなわない。