腕時計は18時半になっていた。
ドアをノックする音が聞こえた。
「お嬢さん。京香さんです」
矢島がドアの鍵を開けたようだった。ドアから、京香が入ってくる。
「京香…!」
久しぶりに見る親友の顔にほっとしてしまう。仕事帰りなのだろう、ショルダーバックを肩にかけている。
「紗枝のお母さんから電話があって。紗枝が帰ってきてるから、会ってやって、って言われたの」
「そうだったの」
母とはまだ会っていない。きっと父の目が光っていて、この部屋に来れないのだろう。
「来てくれて、ありがとう…あの、私の近況をうちの親に京香が知らせてたって本当?」
驚きが大きく、確認せずにはいられなかった。
「紗枝…ごめん。びっくりしたよね」
「う、うん…ちょっと…ショックだった」
「紗枝が家出して、紗枝のお母さんが、体調崩してね。病に伏せってる時にすごく紗枝のことを心配してたから…私、つい、大丈夫ですよ、元気にやってます、って言って…それからなの」
「そう、だったんだ…」
紗枝の母の憔悴した顔を想像すると、京香の気持ちもわかる気がする。京香が言った。
「でも、どうして、結婚のことを言ってくれなかったの?私からうまくとりなすことだってできたのに。今回のことは、私も知らなかった、っていうのが悪い方に転んだのよ」
「それが、急な結婚で…京香には本当のことを話すわ。私と佐々木誠司さんは、契約結婚をしてるの」
「契約結婚」
京香は、目を丸くした。
「そう。誠司さんに、どうしても結婚してるところを見せたい人がいて。そのための結婚なの。私は、家賃を払わない代わりに、佐々木さんの家事全般と毎日のお菓子作りが契約結婚の条件なの」
「そういうことだったの…ラブラブで盛り上がって結婚した訳じゃないのね。じゃあ、なおさら本当の事を言っても紗枝のお父さんを説得できないわね」
「うん…父はとにかく誠司さんをひどい男と決めつけてる。まともに話ができそうにないわ。誠司さんにこの状況を説明したいんだけど、スマホを取られて、できないのよ」
会いたい…誠司さん…。
言葉にはしなかったが、胸の内は誠司への想いであふれている。なんとかして、誠司と連絡をする方法は、ないだろうか。
「紗枝…ひょっとして…契約結婚だけど、佐々木さんのことが好きなの?」
紗枝の気持ちが顔に出ていたのだろうか。京香に当てられてしまった。紗枝は嘘をついても仕方がないと思い、言った。
「うん。私は、誠司さんが好き。いつ契約解除されるかわからないけど、気持ちは止められなかった…そして、誠司さんも、私を大事にしてくれてるの」
「そうなんだ。じゃあ、契約だけの薄いつながりじゃないのね。安心した。紗枝、誠司さんに会いたいんでしょう」
うん、と紗枝が頷くと、京香は、自分のバックからガラケーを取り出した。
「紗枝、これ使って。職場で使ってるやつ。スマホはこの部屋に来る時にとりあげられたけど、これには気づかれなかった。紗枝がこれからどうするのが一番いいのか、わからないけど、佐々木さんが紗枝に必要なのは何となくわかった。ちゃんとこの居場所を伝えるべきよ」
「ありが、とう」
京香の気持ちが嬉しくてぐっと胸が熱くなった。しかし、肝心の誠司の連絡先がわからない。紗枝は思いついて、財布に入れていた誠司の名刺を取り出した。誠司の個人的な携帯番号は載ってないが、佐々木設計事務所の電話番号なら載っている。うまくすれば、誠司をつかまえられるかもしれない。
紗枝は佐々木設計事務所に電話するのは初めてで、少し緊張した。しかしそんなこと、気にしている場合じゃない。
呼び出し音が鳴り、女性の声で「佐々木設計事務所、吉沢です」と言われた。
あっ、と紗枝は思った。秘書の吉沢だ。今日、まさに紗枝は、大城理恵のメールをかたったり、怪文書を送ったのが吉沢かも、と思ったのだ。
吉沢が誠司につなげてくれないかも、という不安まじりで、紗枝は言った。
「吉沢さん、紗枝です。あの、一度お会いした、佐々木の妻です」
「紗枝さんですか?!」
吉沢の固かった声が、急に熱を帯びたものになった。
「紗枝さん。どこにいらっしゃるんですか。社長が、紗枝さんと連絡もとれないし、コールセンターも無断欠勤してるって心配してます。血眼であなたを探していますよ」
吉沢の声は、芯から紗枝を心配しているものだった。
この人は、変なメールや手紙を送ったりしない。疑って悪かったな、と紗枝は思った。
「すみません。事情があって、岡山の実家に帰っているんです。それだけでも誠司さんに伝えていただけないでしょうか」
「ご実家に…わかりました。伝えます。紗枝さん」
吉沢が何か言おうとした瞬間、ドアをノックする音が聞こえた。矢島だったらこのガラケーが見つかってしまう。さっと電話を切り、京香に渡してバックにしまってもらう。
「紗枝。私よ。お茶を持ってきたわ」
母の声だった。ガチャリと音がして、ドアの鍵が開いたのがわかった。ティーセットをトレイに乗せた母が、ゆっくり部屋に入ってきた。
「母さん…」
母は、トレイをテーブルに置き、改めて紗枝を見た。紗枝は久しぶりに見る母に、お母さん、小さくなった、と思った。母は、ふっと頬を緩めた。
「お父さんが会合に行って、やっと来れたわ。紗枝、元気そうじゃない。京香ちゃんに様子は聞いていたけど、やつれたりしてなくてよかったわ」
「…心配かけて、ごめん」
事情はどうあれ、紗枝は家出した身なのだ。その事実は変わらない。母は、息をついて言った。
「お父さんと、早速やりあったそうね」
「だって父さんがひどい決めつけをするから」
「紗枝、あなただって勝手に飛び出して、黙って結婚したわけでしょう。結構ひどいわよ。筋を通さなくて悪かった、とちゃんと認めなさい」
「それは…そうだけど…」
「あなたからしたらひどい父親だろうけど、あなたを心配する気持ちは母さんと同じなのよ」
「わかってる…でも、佐々木さんを悪く言わないでほしいの。決して父さんが思っているようないい加減な人じゃないのよ。私、すごく大事にしてもらってるわ」
「紗枝は、その佐々木さんのことが本当に好きなの?」
紗枝は、しっかりと頷いて、うん、と言った。
「そう。気持ちはわかったわ。でも、それだけじゃ、お父さんの気持ちは覆されないでしょうね」
「そんな。じゃあ、私は、ずっとここにこうしていろって事なの?」
母は首を振った。
「そうじゃないわ。ただ、お父さんの頭が冷えるまで待ちなさい。時間が必要よ」
「でも…」
それでは、いつまで経っても誠司に会うことができない。週末のお菓子教室だって生徒さん達に無断で休むことになる。今日は月曜日だ。週末までに東京に帰れるのだろうか。
母は、カップにお茶を注ぎ、紗枝と京香にすすめた。三人でテーブルを囲んだ。
「紗枝に、本当に好きな人ができてから、打ち明けようと思っていたことがあるの」
京香は、黙って様子を見守っている。紗枝は次の言葉を待った。
「お父さんには、妹さんがいてね。若い頃、家を飛び出して、都会で暮らしてたんだけれど、悪い男につかまってしまって。お父さんは、妹さんを引き取ろうとしたけど、かたくなに断られたそうよ。妹さんは、それから病気になって、亡くなったの。私がお父さんと一緒になったのは、亡くなった翌年だったわ。お父さんは、首に紐をくくってでも連れて帰るんだった、ってずっと悔やんでた」
「そんな…それじゃ」
紗枝の声がかすれた。
「そう。あなたもお姉ちゃんも傍に置いておきたかったのは、妹さんの事があったからなの。どうして、あなたを探し出して連れ戻さなかったかわかる?」
紗枝は、首を振った。
ドアをノックする音が聞こえた。
「お嬢さん。京香さんです」
矢島がドアの鍵を開けたようだった。ドアから、京香が入ってくる。
「京香…!」
久しぶりに見る親友の顔にほっとしてしまう。仕事帰りなのだろう、ショルダーバックを肩にかけている。
「紗枝のお母さんから電話があって。紗枝が帰ってきてるから、会ってやって、って言われたの」
「そうだったの」
母とはまだ会っていない。きっと父の目が光っていて、この部屋に来れないのだろう。
「来てくれて、ありがとう…あの、私の近況をうちの親に京香が知らせてたって本当?」
驚きが大きく、確認せずにはいられなかった。
「紗枝…ごめん。びっくりしたよね」
「う、うん…ちょっと…ショックだった」
「紗枝が家出して、紗枝のお母さんが、体調崩してね。病に伏せってる時にすごく紗枝のことを心配してたから…私、つい、大丈夫ですよ、元気にやってます、って言って…それからなの」
「そう、だったんだ…」
紗枝の母の憔悴した顔を想像すると、京香の気持ちもわかる気がする。京香が言った。
「でも、どうして、結婚のことを言ってくれなかったの?私からうまくとりなすことだってできたのに。今回のことは、私も知らなかった、っていうのが悪い方に転んだのよ」
「それが、急な結婚で…京香には本当のことを話すわ。私と佐々木誠司さんは、契約結婚をしてるの」
「契約結婚」
京香は、目を丸くした。
「そう。誠司さんに、どうしても結婚してるところを見せたい人がいて。そのための結婚なの。私は、家賃を払わない代わりに、佐々木さんの家事全般と毎日のお菓子作りが契約結婚の条件なの」
「そういうことだったの…ラブラブで盛り上がって結婚した訳じゃないのね。じゃあ、なおさら本当の事を言っても紗枝のお父さんを説得できないわね」
「うん…父はとにかく誠司さんをひどい男と決めつけてる。まともに話ができそうにないわ。誠司さんにこの状況を説明したいんだけど、スマホを取られて、できないのよ」
会いたい…誠司さん…。
言葉にはしなかったが、胸の内は誠司への想いであふれている。なんとかして、誠司と連絡をする方法は、ないだろうか。
「紗枝…ひょっとして…契約結婚だけど、佐々木さんのことが好きなの?」
紗枝の気持ちが顔に出ていたのだろうか。京香に当てられてしまった。紗枝は嘘をついても仕方がないと思い、言った。
「うん。私は、誠司さんが好き。いつ契約解除されるかわからないけど、気持ちは止められなかった…そして、誠司さんも、私を大事にしてくれてるの」
「そうなんだ。じゃあ、契約だけの薄いつながりじゃないのね。安心した。紗枝、誠司さんに会いたいんでしょう」
うん、と紗枝が頷くと、京香は、自分のバックからガラケーを取り出した。
「紗枝、これ使って。職場で使ってるやつ。スマホはこの部屋に来る時にとりあげられたけど、これには気づかれなかった。紗枝がこれからどうするのが一番いいのか、わからないけど、佐々木さんが紗枝に必要なのは何となくわかった。ちゃんとこの居場所を伝えるべきよ」
「ありが、とう」
京香の気持ちが嬉しくてぐっと胸が熱くなった。しかし、肝心の誠司の連絡先がわからない。紗枝は思いついて、財布に入れていた誠司の名刺を取り出した。誠司の個人的な携帯番号は載ってないが、佐々木設計事務所の電話番号なら載っている。うまくすれば、誠司をつかまえられるかもしれない。
紗枝は佐々木設計事務所に電話するのは初めてで、少し緊張した。しかしそんなこと、気にしている場合じゃない。
呼び出し音が鳴り、女性の声で「佐々木設計事務所、吉沢です」と言われた。
あっ、と紗枝は思った。秘書の吉沢だ。今日、まさに紗枝は、大城理恵のメールをかたったり、怪文書を送ったのが吉沢かも、と思ったのだ。
吉沢が誠司につなげてくれないかも、という不安まじりで、紗枝は言った。
「吉沢さん、紗枝です。あの、一度お会いした、佐々木の妻です」
「紗枝さんですか?!」
吉沢の固かった声が、急に熱を帯びたものになった。
「紗枝さん。どこにいらっしゃるんですか。社長が、紗枝さんと連絡もとれないし、コールセンターも無断欠勤してるって心配してます。血眼であなたを探していますよ」
吉沢の声は、芯から紗枝を心配しているものだった。
この人は、変なメールや手紙を送ったりしない。疑って悪かったな、と紗枝は思った。
「すみません。事情があって、岡山の実家に帰っているんです。それだけでも誠司さんに伝えていただけないでしょうか」
「ご実家に…わかりました。伝えます。紗枝さん」
吉沢が何か言おうとした瞬間、ドアをノックする音が聞こえた。矢島だったらこのガラケーが見つかってしまう。さっと電話を切り、京香に渡してバックにしまってもらう。
「紗枝。私よ。お茶を持ってきたわ」
母の声だった。ガチャリと音がして、ドアの鍵が開いたのがわかった。ティーセットをトレイに乗せた母が、ゆっくり部屋に入ってきた。
「母さん…」
母は、トレイをテーブルに置き、改めて紗枝を見た。紗枝は久しぶりに見る母に、お母さん、小さくなった、と思った。母は、ふっと頬を緩めた。
「お父さんが会合に行って、やっと来れたわ。紗枝、元気そうじゃない。京香ちゃんに様子は聞いていたけど、やつれたりしてなくてよかったわ」
「…心配かけて、ごめん」
事情はどうあれ、紗枝は家出した身なのだ。その事実は変わらない。母は、息をついて言った。
「お父さんと、早速やりあったそうね」
「だって父さんがひどい決めつけをするから」
「紗枝、あなただって勝手に飛び出して、黙って結婚したわけでしょう。結構ひどいわよ。筋を通さなくて悪かった、とちゃんと認めなさい」
「それは…そうだけど…」
「あなたからしたらひどい父親だろうけど、あなたを心配する気持ちは母さんと同じなのよ」
「わかってる…でも、佐々木さんを悪く言わないでほしいの。決して父さんが思っているようないい加減な人じゃないのよ。私、すごく大事にしてもらってるわ」
「紗枝は、その佐々木さんのことが本当に好きなの?」
紗枝は、しっかりと頷いて、うん、と言った。
「そう。気持ちはわかったわ。でも、それだけじゃ、お父さんの気持ちは覆されないでしょうね」
「そんな。じゃあ、私は、ずっとここにこうしていろって事なの?」
母は首を振った。
「そうじゃないわ。ただ、お父さんの頭が冷えるまで待ちなさい。時間が必要よ」
「でも…」
それでは、いつまで経っても誠司に会うことができない。週末のお菓子教室だって生徒さん達に無断で休むことになる。今日は月曜日だ。週末までに東京に帰れるのだろうか。
母は、カップにお茶を注ぎ、紗枝と京香にすすめた。三人でテーブルを囲んだ。
「紗枝に、本当に好きな人ができてから、打ち明けようと思っていたことがあるの」
京香は、黙って様子を見守っている。紗枝は次の言葉を待った。
「お父さんには、妹さんがいてね。若い頃、家を飛び出して、都会で暮らしてたんだけれど、悪い男につかまってしまって。お父さんは、妹さんを引き取ろうとしたけど、かたくなに断られたそうよ。妹さんは、それから病気になって、亡くなったの。私がお父さんと一緒になったのは、亡くなった翌年だったわ。お父さんは、首に紐をくくってでも連れて帰るんだった、ってずっと悔やんでた」
「そんな…それじゃ」
紗枝の声がかすれた。
「そう。あなたもお姉ちゃんも傍に置いておきたかったのは、妹さんの事があったからなの。どうして、あなたを探し出して連れ戻さなかったかわかる?」
紗枝は、首を振った。



