エリート建築士はスイーツ妻を溺愛する

 この近所では見たことのない車だわ、と思った瞬間、ワゴン車のドアが、いきなり開き、にゅっと出てきた腕が、紗枝の腕をつかんだ。
「!」
 紗枝は、ワゴン車の中に、引きずり込まれた。車のドアはすぐに閉められ、発進する。
「何」
 なにするんですか、と後部座席のシートに倒れながらも声を荒げようとする。大きな手が紗枝の口をふさいだ。
「お嬢さん、すみません。おやじさんの命令なんです」
 聞き覚えのある矢島の声だった。父の元で働いている、四十代くらいの秘書の一人だ。
「とにかく、岡山に帰りましょう」
「嫌よ。戻る気なんてない。車を止めて。降りるから」
「それは、できません。お嬢さんを連れて帰るのが俺の仕事ですから」
 矢島は、父に絶対服従のタイプだ。紗枝の言うことをきかないのは、予想がついた。
「…どうして、ここを知ってるの」
 紗枝は、東京での暮らしが実家に伝わらないように気をつけていた。
「それが手紙がきたんです」
「手紙?」
「いわゆる怪文書ってやつですかね。娘さんは騙されて結婚してる。相手は建築家だって言ってるけど、見合いをいくつもつぶしたいい加減な男だ。まだ入籍はしていないから、連れ戻すのは今だ、そんな内容の手紙がうちの会社に送られてきたんです」
「な…父さんは、そんな手紙を信じたっていうの?」
 あまりのでっちあげに紗枝は声を震わせた。
「おやじさん、ずっとお嬢さんがどうやって暮らしてるか気にしてました。お嬢さんは知らないでしょうけど、ずっと京香さんに、お嬢さんの東京での暮らしぶりを教えてもらってたんです」
「えっ」
 さあっと背筋が冷たくなった。京香が。知らなかった。
「今回の結婚は、京香さんも知らないって言うし、おやじさん、きっと男にだまされてるんだ、ってすごい剣幕で。とにかく一度帰って、おやじさんと話をした方がいいですよ」
 京香には、契約結婚であることを打ち明けるべきか迷っていたせいで、誠司と暮らしていることを言えないでいた。それに真央や理恵のことがあったので、落ち着いて連絡していなかった。
 それにしても、誰がそんな手紙を出したのだろう。紗枝は、ひょっとして、大城理恵のメールをかたったのと同じ人物が手紙を出したのでは、と思った。
 紗枝のメールアドレスを知っているのはお菓子教室の名刺を渡した人間だけだ。サブリナ会のメンバーに、あとは…真央とそして、誠司の秘書の吉沢だ。
 紗枝は、吉沢に誠司の食事についてきつく言われたのを思い出した。いつも私をにらみつけるから、真央さんかも、と思っていたけど…吉沢さんかもしれないんだわ…。
 とにかく、今は、誠司に連絡しなくては、と思った。急にいなくなったら心配するに違いない。紗枝は、持っていたバッグから、スマホを取り出した。
「お嬢さん、すみません」
 ぱっと、隣にいる矢島にスマホを取られてしまう。
「何するの」
「これもおやじさんの命令なんです。岡山に帰ってきたら、その結婚した男との縁は切らせるって…」
「そんな…!」
 誠司に会うどころか、連絡もできないなんて。
「ひどい。返して。スマホ、返してよ」
 矢島はがっしりした体躯の持ち主で、紗枝が矢島を揺り動かしても、微動だにしなかった。それでも、抵抗せずにはいられない。
 矢島は、ため息をついて言った。
「手荒な真似はしたくないんですが…少し眠っていてください」
 ふっ、と矢島の手により紗枝の鼻に布をあてられる。突然強烈な眠気が紗枝に襲ってきた。布に眠らせる薬をしみ込ませていたようだ。
「ひきょう、よ…」
 苦い言葉を言いながら、紗枝は眠りに落ちていった。

 岡山の紗枝の実家に着いた頃、紗枝は矢島に起こされた。紗枝は、ぼうっとする頭をしゃんとさせようと深呼吸した。
 戻る気のない実家に舞い戻ってしまった…私は、戦わなきゃ、いけない。
 ぐっ、と腹に力を込めて気合を入れた。
 矢島は実家の中にある父の書斎へ紗枝を連れて行った。
 父雄造は、書斎の机に座って、久しぶりに見る娘の顔をにらみつけた。
 雄造は紗枝が家出した時と変わらず、恰幅のいい体つきをしていた。どっしりとした重圧感があるのも変わらない。太い眉とするどい目付で、相手を威嚇するのも昔からだ。「バカ娘め。帰ってきたか。親に隠れていい加減な奴と結婚なぞしおって」
 父は、絞りだすような声で言った。怒りの沸点に達しているのがわかる。
 紗枝はひるまず言った。
「誠司さんは、いいかげんな人じゃないわ」
「いい加減じゃないなら、どうして挨拶に来ない。そんな筋も通せなくて、何がいい加減じゃないんだ」
「それは」
 契約結婚なのだから、父や母に報告することはできなかった。いずれ別れる結婚など、両親が理解できるとは到底思えなかった。契約結婚とバレたら、父は、今以上に誠司をなじることだろう。
「どうだ。後ろ暗いことがあるから、黙っているんだろう。第一、何故立派な建築家がお前なんかを相手にするんだ」
「それは…私が焼いたお菓子を気に入ってくれて…」
「は?!お前が焼いたままごとみたいな菓子で男が釣れたというのか。だからお前は、世間知らずと言うんだ。ちょっと褒められていい気になったんだろう。簡単な奴だ。だから結婚詐欺になんて引っかかるんだ」
「誠司さんは、立派な建築士よ。詐欺師なんかじゃない!」
「どうだか。仕事ができても、女癖の悪い男なんてざらにいるからな。見合いだって立て続けにダメになってるそうじゃないか。何か欠陥があるんだろう。お前の手に負えるとは思えん。今の内にさっさと帰ってこい。父さんが、お前にいい相手を見つけてやる」
 紗枝の目に悔し涙が滲んできた。
 …何も、変わらない。家を出た時と、何も変わっていないんだ。この2年間、私がやったこと、成長したことなんて、まるで見る気がないんだ。紗枝は、父をきつく睨んで言った。
「父さんが、私の何を知ってるって言うの。私だって人にちゃんと認められてる。東京にちゃんと居場所だってある。もう何もできないなんて、言わせないわ!」
 声を荒げる紗枝を、父は冷ややかな目で見つめた。
「…お前には、罰が必要なようだな。当分、家から出るな。わかったな。佐々木とかいう男とも連絡を取るなよ。矢島」
 はい、と矢島は紗枝を羽交い絞めにした。紗枝は身動きができなくなる。
「ちょっ…やめて、お願い、やめて、矢島さん」
 矢島は、無言で、紗枝を書斎から奥の方の部屋へと連れて行った。
 矢島が紗枝を押し込んだのは、小さな部屋だった。紗枝が生まれる前、住み込みで働いていたお手伝いさんが寝泊りした部屋だ。8畳くらいの部屋だが、物置のようになっている。テーブルと、椅子と布団がかろうじて置いてあった。小さな洗面所とトイレもついている。
「食事は運びますから」
 矢島は、そう言って、ドアを閉め、外側から鍵をかけた。内側からは開錠できない。
 紗枝は、うんざりした。子供の頃も、紗枝が言うことをきかないと、この部屋に入れられた。じっくり反省しろ、と言われて今のように閉じ込められた。子供の紗枝は、暗いこの部屋が嫌で、ごめんなさい、ごめんなさいと泣きながら言って出してもらおうとしたものだった。
「まさか、この歳になってこの部屋にいれられるとはね…」
 それにしても困ってしまった。誠司との連絡手段がないのが痛い。誠司は、きっと大きく動揺して、自分を探し回るんじゃないか。なんとか、実家にいることを誠司に伝えたい。何か方法はないだろうか。
 たたまれた布団に突っ伏して、ひたすら考える。だが、いいアイデアは浮かばなかった。
 窓の外が暮れてきた。壁にスイッチを探すと、電気がついた。
 誠司さんに、お菓子焼いてあげたかったな…。