紗枝は、誠司の思いやりが嬉しくて、誠司の美しい寝顔をじっと見ていた。
そして、紗枝も眠気を感じた。誠司の隣に座り、目を閉じた。
「紗枝さん」
誠司の声にはっとして目を覚ました。いつのまにか深い眠りに入っていたようだ。誠司が紗枝の顔を覗き込むようにして、見ている。
「恥ずかしい。私、寝ちゃってたんですね」
目をつむっても、すぐ起きるつもりだったのに。
「紗枝さんも疲れてるんだよ。グッズ売り場にコーヒー売ってたから、外で飲まない?天気がいいから気持ちいいと思う」
「はい。飲みたいです」
美術館には、奈良橋による絵本の原画がたくさん展示してあった。それを一通り見てから、コーヒーを買い、外に出た。
午後の日差しが温かい。芝生の斜面があり、そこに並んで座ってコーヒーを飲むことにした。
ゆっくり、空を見上げていると、紗枝は、話さなくていけないことがある、と思った。
「誠司さん。私の…家のこと、知ってたんですね」
「うん。君は品がよかったから、もしかして、と思ってた。だから、知っても、そんなに驚かなかったよ。でもお嬢様がよく、小さなアパートの部屋で暮らせたね。生活がまるきり変わって大変だっただろう」
「そうですね…確かに大変でした」
紗枝は苦笑するしかなかった。どんどん消えていくお金に驚愕する日々だった。
紗枝は、「お菓子の水内」というお菓子の全国チェーン店を経営する水内雄造の娘である。雄造は創業者を祖父に持つ三代目。祖父の代は岡山にある町の洋菓子店だったが、二代目の時に値段の手ごろでなおかつ、上等なケーキが食べられる店として、支店を増やしていった。特に名物のチョコレートパイが当たって、「お菓子の水内」と言えばチョコパイと言われるようになった。お菓子の作り方の本ならいくらでも家にあったので、紗枝は自然とお菓子を作るようになった。
誠司が言った。
「どうして家を出たの?」
「私、実は実家でアルバイトも禁止されていて。花嫁修業だけさせられていたんです。お茶や、華道、着付け…いつも父に見張られているような息苦しさがあって。父の口癖は『お前に何ができる』でした。それが悔しくて、ずっとずっと家から出たい、自由になりたいって思いつめてたんです。そしたらすごい年上の男性と見合い結婚させられそうになって。思い切って家出しました」
黙って聞いていた誠司は、大変だったんだな、とぽつりと呟いた。
「確かにお金はなくてきつかったけど、父から離れた解放感の方が勝ってました。何をやっても楽しくて。ダブルワークも始めて。カフェで知り合った男性とつきあうようになりました。彼とは一緒に料理店をやろうっていう夢があったんですが、別れる時に『どんなに頑張ったって無理だ、夢は夢だ』って言われてショックで…彼と別れることで、私、彼と夢を両方失ったから、その時は本当につらかったです。せめて夢は否定しないでほしかった…だから、誠司さんが、私に独立してスイーツ店をやる夢を持ったらいい、と言ってくれて本当に嬉しかった。本当に…嬉しかったんです」
言っていると、自然にこみあげてくるものがあって、目に涙が滲んだ。
「紗枝さん」
誠司は、そっと肩を抱き寄せた。
「紗枝さんは、もっと幸せになっていい。貪欲になっていい。遠慮しなくていいんだ」
「私、誠司さんに甘えてばっかりで。いつも申し訳なくて。住むところも、メンタル的なことも、いつも誠司さんに救われてます。私、お荷物になっていませんか?」
「何、言ってるんだ。紗枝さんは、家事だってきちんとやってくれるし、料理も美味しい。約束通り毎日お菓子も焼いてくれてる。俺にとっては、十分だよ」
「そうですか…よかった」
紗枝は、涙をぬぐって、空を見上げた。秋の空が高く、吸い込まれそうだった。自分は誠司の傍にいていいんだ、と改めて言ってもらえている気がした。
美術館から家に帰り、紗枝は夕食を作った。夕方からゆったりと二人だけで夜を過ごすのは、久しぶりだった。
手を尽くした夕食に、誠司は喜び、紗枝はそれが嬉しかった。用意していたお菓子も、いつもはカットして誠司の分だけ冷蔵庫に入れていたけれど、今日は一緒に食べることができた。そんなささやかなことが嬉しくて、紗枝はいつもより笑った回数が多い気がした。
滑らかに時間は過ぎてていき、入浴の時間になった。いつもは紗枝が先に風呂を使い、遅く帰ってきた誠司が、お菓子を食べた後シャワーをする流れになっていた。今日くらいは、先にお風呂をどうぞ、と紗枝は進め、誠司にゆっくりバスタブに浸かってもらった。紗枝はその後に入浴した。
風呂上がりに、キッチンで水を飲んでいると、誠司が近くに来て、言った。
「風呂上がりの紗枝さん、新鮮だな」
じっくり見られているようで、紗枝は頬を赤くした。
「誠司さんも…今日は、石鹸の香りがしますね」
ふっと笑みをもらすと、不意に誠司が顔を寄せた。
気が付くと、紗枝の唇は、誠司の唇に捉えられていた。いつもの触れるだけのキスではない、熱があった。紗枝の唇の隙間から、誠司の舌が侵入し、紗枝の舌に触れた。
びりっと電流が走るような快感が紗枝を貫いた。足に力が入らず、誠司の胸に寄りかかる感じになる。誠司は、紗枝の口の中で暴れた。いつもと違う深いキスに紗枝は動揺しながらも、誠司にしがみつくようにしてキスに応えた。
長いキスが終わると、熱っぽい瞳で、誠司は言った。
「俺は…紗枝さんが、欲しい」
紗枝は誠司の瞳の奥を覗いた。紗枝のことしか、見ていないのがわかる。
「…はい」
かすれた声で紗枝は言った。これまで、夜ごと、触れるだけのキスをしながら、いつかこんな日が来るのを、実は待っていた気がする。
「…いいんだな。容赦しないぞ」
誠司は、そう言うと、紗枝を横抱きにして、自分の寝室に連れて行った。
清潔なシーツの上で、二人は、体を重ねた。
快感の波にさらわれ、頂にたどり着いたときに、紗枝は思わず
「誠司さん…好き…」
と言ってしまった。いつもは、そんなことは言ってはダメなのだ、これは契約結婚なのだから、と自分を戒めていたのに。誠司に触れられている内に、こころの鎧が脱げてしまった。
「紗枝、かわいい。食べてしまいたい」
すでに熱に浮かされいるのに、さらに紗枝はその熱が上がるのを感じた。自分の身体が自分のものではないみたいだった。
初めての夜から二週間が経った。あの夜から、誠司のスキンシップはさらに増えた。向かい合わせでケーキを食べていたのが、紗枝をソファに横並びにさせて、身体をぴったりとくっつけたり、時には誠司の膝に紗枝を乗せたりした。
くすぐったいような甘い時間が繰り返され、紗枝は日々エネルギーを充填している気分になった。
大城理恵をかたったメールを誰が出したのか、依然、わからない。美佐子さんのとりなしによって、サブリナ会のメンバーの中で、紗枝のお菓子教室を辞めた者は、理恵以外にいなかった。そんなことにほっとしつつ、誠司と親密度の高い時間を過ごしているせいか、今まで以上にお菓子教室の準備に集中できるようになった。コールセンターでの仕事も順調で、新人の世話係をまかされるようになった。
こうやってひとつひとつ、丁寧にやっていこう…
そう改めて思いながら、コールセンターへ行くのに紗枝は家にカギをかけて外に出た。朝の9時。誠司は朝礼があると言って、先に設計事務所に行っていた。今日は長丁場だからお菓子を持って行きたい、というので、紅茶とホワイトチョコのサブレを焼いて、箱につめて渡してあった。前にも焼いたことのある紗枝の創作焼き菓子だ。
バス停に向かう紗枝の後ろから大きなワゴン車が近づいてきた。
そして、紗枝も眠気を感じた。誠司の隣に座り、目を閉じた。
「紗枝さん」
誠司の声にはっとして目を覚ました。いつのまにか深い眠りに入っていたようだ。誠司が紗枝の顔を覗き込むようにして、見ている。
「恥ずかしい。私、寝ちゃってたんですね」
目をつむっても、すぐ起きるつもりだったのに。
「紗枝さんも疲れてるんだよ。グッズ売り場にコーヒー売ってたから、外で飲まない?天気がいいから気持ちいいと思う」
「はい。飲みたいです」
美術館には、奈良橋による絵本の原画がたくさん展示してあった。それを一通り見てから、コーヒーを買い、外に出た。
午後の日差しが温かい。芝生の斜面があり、そこに並んで座ってコーヒーを飲むことにした。
ゆっくり、空を見上げていると、紗枝は、話さなくていけないことがある、と思った。
「誠司さん。私の…家のこと、知ってたんですね」
「うん。君は品がよかったから、もしかして、と思ってた。だから、知っても、そんなに驚かなかったよ。でもお嬢様がよく、小さなアパートの部屋で暮らせたね。生活がまるきり変わって大変だっただろう」
「そうですね…確かに大変でした」
紗枝は苦笑するしかなかった。どんどん消えていくお金に驚愕する日々だった。
紗枝は、「お菓子の水内」というお菓子の全国チェーン店を経営する水内雄造の娘である。雄造は創業者を祖父に持つ三代目。祖父の代は岡山にある町の洋菓子店だったが、二代目の時に値段の手ごろでなおかつ、上等なケーキが食べられる店として、支店を増やしていった。特に名物のチョコレートパイが当たって、「お菓子の水内」と言えばチョコパイと言われるようになった。お菓子の作り方の本ならいくらでも家にあったので、紗枝は自然とお菓子を作るようになった。
誠司が言った。
「どうして家を出たの?」
「私、実は実家でアルバイトも禁止されていて。花嫁修業だけさせられていたんです。お茶や、華道、着付け…いつも父に見張られているような息苦しさがあって。父の口癖は『お前に何ができる』でした。それが悔しくて、ずっとずっと家から出たい、自由になりたいって思いつめてたんです。そしたらすごい年上の男性と見合い結婚させられそうになって。思い切って家出しました」
黙って聞いていた誠司は、大変だったんだな、とぽつりと呟いた。
「確かにお金はなくてきつかったけど、父から離れた解放感の方が勝ってました。何をやっても楽しくて。ダブルワークも始めて。カフェで知り合った男性とつきあうようになりました。彼とは一緒に料理店をやろうっていう夢があったんですが、別れる時に『どんなに頑張ったって無理だ、夢は夢だ』って言われてショックで…彼と別れることで、私、彼と夢を両方失ったから、その時は本当につらかったです。せめて夢は否定しないでほしかった…だから、誠司さんが、私に独立してスイーツ店をやる夢を持ったらいい、と言ってくれて本当に嬉しかった。本当に…嬉しかったんです」
言っていると、自然にこみあげてくるものがあって、目に涙が滲んだ。
「紗枝さん」
誠司は、そっと肩を抱き寄せた。
「紗枝さんは、もっと幸せになっていい。貪欲になっていい。遠慮しなくていいんだ」
「私、誠司さんに甘えてばっかりで。いつも申し訳なくて。住むところも、メンタル的なことも、いつも誠司さんに救われてます。私、お荷物になっていませんか?」
「何、言ってるんだ。紗枝さんは、家事だってきちんとやってくれるし、料理も美味しい。約束通り毎日お菓子も焼いてくれてる。俺にとっては、十分だよ」
「そうですか…よかった」
紗枝は、涙をぬぐって、空を見上げた。秋の空が高く、吸い込まれそうだった。自分は誠司の傍にいていいんだ、と改めて言ってもらえている気がした。
美術館から家に帰り、紗枝は夕食を作った。夕方からゆったりと二人だけで夜を過ごすのは、久しぶりだった。
手を尽くした夕食に、誠司は喜び、紗枝はそれが嬉しかった。用意していたお菓子も、いつもはカットして誠司の分だけ冷蔵庫に入れていたけれど、今日は一緒に食べることができた。そんなささやかなことが嬉しくて、紗枝はいつもより笑った回数が多い気がした。
滑らかに時間は過ぎてていき、入浴の時間になった。いつもは紗枝が先に風呂を使い、遅く帰ってきた誠司が、お菓子を食べた後シャワーをする流れになっていた。今日くらいは、先にお風呂をどうぞ、と紗枝は進め、誠司にゆっくりバスタブに浸かってもらった。紗枝はその後に入浴した。
風呂上がりに、キッチンで水を飲んでいると、誠司が近くに来て、言った。
「風呂上がりの紗枝さん、新鮮だな」
じっくり見られているようで、紗枝は頬を赤くした。
「誠司さんも…今日は、石鹸の香りがしますね」
ふっと笑みをもらすと、不意に誠司が顔を寄せた。
気が付くと、紗枝の唇は、誠司の唇に捉えられていた。いつもの触れるだけのキスではない、熱があった。紗枝の唇の隙間から、誠司の舌が侵入し、紗枝の舌に触れた。
びりっと電流が走るような快感が紗枝を貫いた。足に力が入らず、誠司の胸に寄りかかる感じになる。誠司は、紗枝の口の中で暴れた。いつもと違う深いキスに紗枝は動揺しながらも、誠司にしがみつくようにしてキスに応えた。
長いキスが終わると、熱っぽい瞳で、誠司は言った。
「俺は…紗枝さんが、欲しい」
紗枝は誠司の瞳の奥を覗いた。紗枝のことしか、見ていないのがわかる。
「…はい」
かすれた声で紗枝は言った。これまで、夜ごと、触れるだけのキスをしながら、いつかこんな日が来るのを、実は待っていた気がする。
「…いいんだな。容赦しないぞ」
誠司は、そう言うと、紗枝を横抱きにして、自分の寝室に連れて行った。
清潔なシーツの上で、二人は、体を重ねた。
快感の波にさらわれ、頂にたどり着いたときに、紗枝は思わず
「誠司さん…好き…」
と言ってしまった。いつもは、そんなことは言ってはダメなのだ、これは契約結婚なのだから、と自分を戒めていたのに。誠司に触れられている内に、こころの鎧が脱げてしまった。
「紗枝、かわいい。食べてしまいたい」
すでに熱に浮かされいるのに、さらに紗枝はその熱が上がるのを感じた。自分の身体が自分のものではないみたいだった。
初めての夜から二週間が経った。あの夜から、誠司のスキンシップはさらに増えた。向かい合わせでケーキを食べていたのが、紗枝をソファに横並びにさせて、身体をぴったりとくっつけたり、時には誠司の膝に紗枝を乗せたりした。
くすぐったいような甘い時間が繰り返され、紗枝は日々エネルギーを充填している気分になった。
大城理恵をかたったメールを誰が出したのか、依然、わからない。美佐子さんのとりなしによって、サブリナ会のメンバーの中で、紗枝のお菓子教室を辞めた者は、理恵以外にいなかった。そんなことにほっとしつつ、誠司と親密度の高い時間を過ごしているせいか、今まで以上にお菓子教室の準備に集中できるようになった。コールセンターでの仕事も順調で、新人の世話係をまかされるようになった。
こうやってひとつひとつ、丁寧にやっていこう…
そう改めて思いながら、コールセンターへ行くのに紗枝は家にカギをかけて外に出た。朝の9時。誠司は朝礼があると言って、先に設計事務所に行っていた。今日は長丁場だからお菓子を持って行きたい、というので、紅茶とホワイトチョコのサブレを焼いて、箱につめて渡してあった。前にも焼いたことのある紗枝の創作焼き菓子だ。
バス停に向かう紗枝の後ろから大きなワゴン車が近づいてきた。



